生彩ある人生

蒼き淵の彼方よりあふれ出づる光の泉。内なるしじまと向き合いて 輝きは聖となり私(わたくし)と成す。

2018年05月

エネルギーは渦(うず)の中

下記の螺旋状の設計で効率的な水流を生み出す装置誕生の背景には、天才・ヴィクトル・シャウベルガーのアイディアがあったに違いありません。
20年放置でも大丈夫? 川などで本格的に発電できる小型水力タービン「Turbulent Hydro」
(bouncy.news 2018.03.09)
ベルギーの企業が開発した、低コストで容易に導入できる小型水力発電装置「Turbulent Hydro」。ダムなどの巨大な設備は不要で本格的な電力を生み出すことができる頼もしい発電装置だ。
水力タービン1
螺旋状の設計で効率的な水流を生み出す装置
川などにコンクリートで支流を設置し、螺旋状に壁を設計することで渦巻状の水流を生み出す「Turbulent Hydro」。その水流により中央のタービンを回転させ、効率的に電力を生み出すことができる。
水力タービン2
一度設置すれば20年ほど連続発電が可能に
ダムなどの巨大設備やメンテナンスの手間も不要で、一度設置すれば20年ほど連続発電が可能になるという「Turbulent Hydro」。魚が泳いできてもスルっと下に流れる隙間も用意され、小石などで壊れることのない耐久性を有するなど、自然環境や丈夫さにも十分配慮されている。

シンプルなアイデアが、エコエネルギーの未来を支えていく。


我々は無限の空間をあまねく満たす渦の中にいる。その回転速度は想像を絶するものだ。我々を取り巻く全てのものが回転しており、運動している。空間の至る所にエネルギーが存在する。このエネルギーをもっと直接的に利用する方法があるに違いない。そうすれば、空間から光を引き出し、空間から電力を引き出し、汲めども尽きぬ貯蔵庫からあらゆる形態のエネルギーを引き出すことにより、人類は長足の進歩を遂げるだろう。その可能性を考えるだけで、我々の精神は大きく広がり、希望は強固になり、心は至上の喜びで満たされるだろう。(ニコラ・テスラ@1891)

宇宙空間に当てはめると以下のようなイメージになりそうです。



閑話休題(それはさておき)


オーストリアに生まれた天才・ヴィクトル・シャウベルガー(Viktor Schauberger:1885年6月13日〜1958年9月25日)は以下のようにエネルギーの本質を喝破しました。
あらゆる生命は動きである。自然界の動きに直線はなく、らせん形、あるいはらせん状の渦巻きの形をとる。らせん形は混沌から秩序を発展させる流体エネルギーの本来の姿である。ヴィクトルは、これを銀河の構造から原子にいたるまで、生命の自然な動きととらえた。らせん形は本書で一貫して見ていくように「調和的対応」を生むための最も普遍的媒体なのである。上の如く、下も然りなのだ。渦巻きは実にさまざまな方法で発達する。渦として上向きあるいは下向きに動いたり、円を描いて回転したり、渦自体が逆転したりする。動きがあるところには必ず渦巻きが生じる。水の場合、それは目に見えるものだが、気体、さらに電界も渦巻きやドーナツ状の形をとる。筋肉、組織、血液、骨その他の多くの有機生命の形も渦巻き型である。(『自然は脈動する―ヴィクトル・シャウベルガーの驚くべき洞察』(アリック・バーソロミュー著・日本教文社 ・2008/04より引用)

彼は水について深く研究していて、水を幼いものと成熟したものに分けて捉えていました。蒸留された水はミネラルを含まない“幼い水”で、エネルギー(生命力)を奪い取る。一方、自然な湧き水のようにミネラルをいっぱい含んだ“成熟した水”はエネルギーを与えるという定見。さらに、彼は水道管の中を水が通ることで水は死んでしまうと語ります。そのエネルギー(生命力)の大部分を、水道管を通過することで失ってしまうと考えたのでした。しかしながら、ここが彼の素的なところですが、水道管に溝を掘って、水が右回りの螺旋を描くように水道管の中を通るなら、水のエネルギーが活性化されると教えてくれます。今後、このような水道管が開発・販売されて普及するなら、今まで以上にエネルギーに満ちた人々で地球の自然は満たされるに違いありません。
 水は水からの性質の命じるままに、らせん形や渦巻き状になって活発に流れると、建設的な情報を運ぶのに必要な構造を生み出す。これがマイクロクラスターであり、水塊が触れるあらゆるものからたえずエネルギーを受け取り、変換する、振動するエネルギー中枢である。
 水はらせん状に渦巻くように転がり回ることが出来てはじめて活力とエネルギーを維持出来ることを知っていた。(前掲書より引用)

ヴィクトル・シャウベルガー@水の二重らせん
ヴィクトル・シャウベルガー@Rotational-direction-of-water-flow

参考:
ブログ「勝手創千界」−ヴィクトル・シャウベルガーから学ぶ 1

ヴィクトル・シャウベルガー

西城秀樹さん、さようなら

hideki_saijo

西城秀樹さんが、昨日5月16日午後11時53分にお亡くなりになりました。
無事の昇天を祈願して止みません。

デビューする以前から今日まで、多くのご苦労を経験なさった方でした。半世紀近くも続けた彼の芸能の人生は、ひとつの道を究めんとした修行者のように観えます。真面目に一生懸命に生きる姿、努力し続ける姿を多くの人々のメモリーに残してくれました。ありがとうございます。彼は日本のロックヴォーカリストの先駆者にして、J-POPの原型を作ったパイオニア。1990年の広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』のプロデュースは、彼の天分が大いに発揮された素的なイヴェントとなりました。彼の言葉、『100%全力投球は長続きしません。何ごとにも余裕をもって、やはり「7.5分」くらいの生き方がいいんですね』を心して、私たちは己が道を究めようではありませんか。

「文藝春秋」(2016年12月号)の記事が文春オンラインにありましたので、転載させていただきました。上記写真は、西城秀樹オフィシャルサイトから転載させていただきました。
西城秀樹が遺したメッセージ「2度の脳梗塞には感謝している」
(文春オンライン / 2018年5月17日 17時0分)
西城秀樹さん ©文藝春秋

bunshun_7436_0-small[1]歌手の西城秀樹さんが5月16日、急性心不全で亡くなりました。享年63。

西城さんは2度の脳梗塞を経験していました。48歳のときに倒れ、生活を改善して予防に努めたにもかかわらず、56歳で再発。2度とも言葉を発しにくい後遺症が出たため、「歌えないなら、死んだほうがましだ」と諦めかけた日もあったそうです。そんな中リハビリを続け、年間70回ものステージをこなしていた西城さんが残した手記を追悼とともに掲載します。(出典:文藝春秋2016年12月号)
◆ ◆ ◆

 そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました
 最初に発作を起こしたのは、2003年6月。ディナーショーのために訪れていた韓国・済州島でのことです。猛烈にだるくて眠くて、翌朝目が覚めたら左の頬が右より下がっていました。ろれつも回りません。
 東京の慶應病院に勤める知り合いの医師に電話で相談したら、「脳梗塞の疑いがありますね」。仕事を終えて翌日、急いで帰国して病院へ行くと、そのまま入院。「ラクナ梗塞」という病名を告げられました。脳内の細い血管が動脈硬化などで狭くなって血液の流れが悪くなる、脳血栓症のひとつだそうです。
 そのときまでぼくは、最高に健康な男だと過信していました。若い頃からワインを毎晩2本、タバコを1日4箱という生活でしたが、46歳で結婚してから食生活に気を配るようになっていました。181センチ、68キロの体型を維持するため、ジムに通ってトレーニングも欠かしませんでした。
 しかし倒れる前は、3週間で5キロの無茶なダイエット。運動中もそのあとのサウナでも、水分補給をしないほうが効果があると勘違いもしていた。そんなことが、血流を滞らせる原因になったんですね。

「ゆっくりと時間をかけて病気になったんだから、ゆっくり歩いて治していこうよ」

 運動機能の後遺症は軽かったのですが、倒れた直後は、何かやろうとするたびに「こんなこともできないのか」と気づくショックがありました。脳梗塞という病気について知識がなく、症状も知らなかったからです。何より問題だったのは、脳内の言語を司る神経が塞がれたために「構音障害」という後遺症で言葉が出にくく、上手くしゃべることができなくなったこと。「水」という言葉が、思い浮かばないんです。
 長女は1歳。妻のお腹には7カ月の長男がいました。もう人前で歌えないのなら、生きている価値があるのか。「歌手を引退しようか」と弱音も吐きました。思い直させてくれたのは、妻が言ってくれた、

「ゆっくりと時間をかけて病気になったんだから、ゆっくり歩いて治していこうよ」

 という言葉です。専門の先生について口腔機能療法というリハビリを行ない、あごの筋トレや舌のストレッチ、風船を膨らませるといった訓練のおかげで、歌を取り戻すことができました。

脳梗塞を起こした人の多くが経験する、うつ状態
 2度目に発症したのは、2011年の暮れです。身体がふらついたときは、風邪のせいかと思いました。前回と同じ慶應病院へ行ってMRIを撮ってもらっても、異常は見つかりません。しかし「念のため今日は泊まってください」と言われたのが幸い。朝には、病室のベッドから起き上がれなくなっていたんです。
 ショックは何十倍でしたよ。再発を予防しようと生活に気をつけていただけに、なぜ? という思いが強かったんです。
 前より症状が重いことも、じゅうぶん自覚できました。唇や舌が痺れてしゃべれないし、右手と右足が自由に動かせません。前回と違って、退院後はリハビリ専門の病院へ移る必要がありました。
 リハビリ室ではほかの患者さんと一緒ですから、他人の目が気になって、さらし者になっているような屈辱感を味わいました。おはじきをしたり、並べた十円玉を指でつまむトレーニング内容に、「こんな幼稚園児みたいなことやってられるか」と思いながら、できない自分。昼間はそうやって苛立っているのに、夜になると生きているのが嫌になるほどの絶望感と自己嫌悪に襲われます。これは、脳梗塞を起こした人の多くが経験する、うつ状態だそうです。

リハビリで自分の弱さを素直に認められるようになった
 けれどもリハビリ室では、まだ若い人、ぼくと同じ世代の人、ずっと高齢の人が、それぞれの症状を好転させようと戦っていました。昨日まで立てなかった人が立ち上がり、歩けなかった人が歩き始める様子を見ることは、いい目標になりました。以前は、医師や療法士から「よくなってきたことを喜んで下さい」と言われても、

「気休めを言わないで下さい。ぼくは、歌えなくなったら死んだも同然なんですよ!」

 と反発していたのが、自分の弱さを素直に認められるようになった。すると、注目されることがかえって励みになり、麻痺が残っていることやリハビリがうまくできないことを恥ずかしく思わなくなった。「病は気から」を実感したわけですね。
 普通に接しなければならない家族や周囲のほうが、気を遣って大変なんだということも知りました。家で薬を飲もうとして落としたとき、子どもは反射的に拾ってくれようとします。それを制して自分で拾うのも、リハビリのうちなんです。子どもは3人に増えましたが、まだ中学生と小学生です。成人する姿までは、見届けなければね。
 病気をして、価値観が変わりました。以前は気にしなかった季節の移り変わりを感じたり、景色の美しさに感動したり、家の中に迷い込んできた虫は外へ逃がす。殺せなくなってしまったんです(笑)。
 食事は妻が気を遣ってくれて、バランスよく野菜中心です。朝は納豆とヨーグルトを欠かしません。「腹八分目」がいいと言われますが、ぼくには多すぎます。「7.5分」くらいがちょうどいい。

「7.5分」くらいの生き方で
 野菜といえば昨年、埼玉県入間市に「体験型市民農園」をオープンしました。家庭菜園作りの番組に3年出演したのがきっかけです。無農薬と有機栽培にこだわった野菜を自分で育て、食べる。こんなに味が違うのかと思うくらい美味しくて、畑仕事が楽しみになっています。
 いまは毎朝40分程かけて近所の公園へ散歩に行くほか、家でバランスボールなどを使ったストレッチ。発声のために、奥歯で割り箸を噛む訓練も続けています。空いた時間があれば東洋医学のリハビリに行って、骨格矯正や筋力のトレーニングを2時間半。調子のいい日はつい欲張ってしまいますが、頑張り過ぎると脚の調子が悪くなる。100%全力投球は長続きしません。何ごとにも余裕をもって、やはり「7.5分」くらいの生き方がいいんですね。
 デビューから45年の今年、ステージには70回くらい立っています。移動は大変ですが、普通の生活をすることが大事ですから。『YOUNG MAN』も踊って歌ってますよ。「YMCA」の「C」のポーズで身体の左側に重心をかけるとき、ふらつかないように気をつけてね(笑)。

いまは、3度目の人生だと思っています
 病気になる前は「カッコよくあることが務めだ」と信じていたし、2度めに倒れたあとは「こんな姿は誰にも見せたくない」と落ち込みました。しかしいまは、たとえ不自由でも、ありのままの姿を見てもらえればいい。むしろ、ちゃんと見てもらいたい。そう思えたら、とても楽になりました。脳梗塞やほかの病気と戦う人を勇気づけられたら――それがぼくの生き甲斐です。
 最初に脳梗塞で倒れるまでが1度目。また倒れるまでが2度目。そしていまは、3度目の人生だと思っています。価値観を変え、大切なものに気づかせてくれたという意味で、ぼくは病気に感謝してるんです。病気にならずに気がつけば、もっとよかったんですけどね(笑)。
(西城 秀樹)

それが高倉健という男ではないのか

「それが高倉健という男ではないのか」 丸山健二

何もかも、きちんとやってのけたいと思い、これまで常にそうしてきたのは、映画を愛していたからではなく、あるいは役者稼業に惚れ込んでいたせいでもなく、ただ、それが仕事であり、それでメシを食ってきたというだけの理由に過ぎない。

だから、出来ることならファンと称する大勢の他人に囲まれたり、カメラの前で、心にもない表情を作ったり、ややこしい人間関係のまっただ中に身を置いたりしたくはないのだ。

それが高倉健という男ではないのか。

とはいえ、いやいやながら仕事をしているのではない。好きとか嫌いとかを尺度にして仕事をするのではなく、やるかやらないかを問題にするのであって、やると決め、引き受けたからには、持てる力を惜しげも無くつぎ込み、奮闘する。仕事だから仕事らしい仕事をやってのけようとする。それは、観客のためではなく、自分自身のためにすることなのだ。受けるとか受けないとかは、もちろん気になるのだが、最終的には「知ったことではない」の一言で蹴飛ばしてしまう。

それが高倉健ではないのか。

必要以上のサービスはまっぴらだ。俺を見たければ、映画館へ行くが良いし、こうした本でも買うが良い。だが、本物の俺と、俺の私生活には決して近づくな。誰であってもだ。よしんば仕事の関係者であってもだ。ましてや、男と男の友情などと口走って近づいてくる薄気味の悪い男はなおさらだ。俺はスターの立場にたまたまいるのであって、いわゆるスターさんに強くこだわったわけではない。

それが高倉健ではないのか。

腰巾着やらお供やらを、毎夜銀座をうろつかなければ、あっちからもこっちからも声がかからなければ、いつでもチヤホヤされていなければ、寂しくてたまらないし、取り巻き相手に喚き散らしていなければ安心できないというのがスターさん。仕事を済ました途端に、素早く自分に戻れるのがスター。スターは、己を見失うことなく、時々胸の内で冷ややかな笑みを浮かべている。

それが高倉健ではないのか。

役者は特別な存在でなければならない。たとえ普通の人間を演じる場合であっても、普通の男ではいけない。とりあえず、外見が問題だ。顔だけ特別に立派でも、首から下が世間の連中と全く同じではまずい。つまり、頭のてっぺんからつま先までが、売り物としてふさわしくなくてはならない。大酒を飲み、大飯を食らい、どこにでもいるただのデブとなってほんのちょっと動いただけで息切れがするような男が、主役を平然とやってのけている。しかし、彼だけは違う。彼はいつだって特別だった。

それが高倉健ではないのか。

必要に応じて、必要に動ける男が減ってきている。どうということでもないのに、大袈裟に騒ぎ立てる男がウジャウジャいる。そんなに動かなくても、派手に動き回る男が増えている。そんな男に限って、本当に動かなくてはいけない時に、コソコソと逃げてしまう。「格好だけで良いのだ、中身なんてどうでも良いのだ。外側しか見えないさ」と、彼らは居直る。だが、そうではない。人間の中身は、ハッキリとスクリーンに映し出されるのだ。たとえば、分厚い皮下脂肪のような形で。彼は必要に応じて、必要な動きができる。スクリーンの上だけではなく、私生活でも。

それが高倉健ではないのか。

3年前にできなかったことが、今は簡単にやってのけられる。そんな男は少ない。流れに身を任せることを知っていて、時には流されもするが、それでもいつも頭は上流に向けられ、両手はのべつ水をかき、両足はしょっちゅう水を蹴っている。つまり、エネルギーの配分を冷静に計算しながら、少しでも前進しようと狙っている。彼は決して溺れない。

それが高倉健ではないのか。

暗くて重くて、正しくて、強い一匹狼のイメージは、いつしか敬遠されるようになった。そうした主人公に憧れ、血の騒ぎを覚える男は、減るばかりだ。時代はますます軽くて薄い方向へと傾いている。その日その日を、チマチマとこすっからく、目先の欲に振り回されて、弱くてだらしない男たちが「普通で良いんだよ。自然に生きたいのさ。等身大の生き様がしたいんだ」と小賢しい言葉の上で、あぐらをかいている。その中にあって彼は、男であり続けたいと願い、役者をしながらその姿勢を崩そうとしない。

それが高倉健ではないのか。

高倉健@旅の途中で
『旅の途中で』 (新潮文庫・ 2005/12/1)より引用

高倉健そして丸山健二

 芥川賞作家の丸山健二氏(70歳)は、'04年に「主演・高倉健」と銘打った小説『鉛のバラ』を上梓した。その際、健さん本人と交流し強い印象を受けたという。

「健さんが主人公を演じることをイメージして小説を書きたい、とお願いしたところ、ふたつ返事で了承してくれ、その後、長野県の安曇野市にある僕の家に2度、遊びにきてくれました。
 健さんは愛車のジャガーを運転して一人で来たのですが、驚いたことに約束の時間に1分の狂いもなく到着した。我が家への道は分かりにくくて、初めて来る人は間違いなく迷うのです。
 『よく迷いませんでしたね』と尋ねると、『実は前日のうちに予行演習しておきました』。前の日に我が家の前まで来ていたという。無類の律義さだと思いました」


 大のコーヒー好きで知られる健さんは、当日手土産にコーヒー豆を持参し、後日には豆を挽くミルも送られてきたという。
 丸山氏が芸能界とは縁遠い存在ということもあってか、健さんは同氏に胸襟を開いて、ざっくばらんにさまざまな話をした。

「我が家に来て早々、健さんは『世間では僕のことをホモと言っていますが、違いますからね』と言ったので驚きました(笑)。面食らいましたが、世間の噂話も気にされていたんでしょう。
 家内の料理も食べてくれたのですが、『糖尿病なんですよ』と言うので蕎麦にしました。病気を気遣っているようで、ペットボトルに自分用の水を入れて持ち歩いていました」
(丸山氏)

 自分は観られる側になりたくなかった、本当は観る側でいたかった、とも語ったという。丸山氏は話を聞いて、こう感じたと語る。

「俳優は、仕事としてやっているという意識だったのだと思います。プロの自覚が強い人なので、世間が抱く『高倉健』の印象に自分を合わせていたのでしょう」

(中略)
前出の作家・丸山氏は、こんな話も聞いたという。

「実録路線の時代が来て、仕事に困っていたとき、キャバレー王と呼ばれていた福富太郎氏から声をかけられて、『うちのキャバレーで〈網走番外地〉を1曲歌ってくれたら、1000万円以上出す』と口説かれたそうです。健さんは、『困っていたから、その金額につられちゃいまして』と言っていましたが、引き受けてステージに上がった。ところが店内はグデングデンの酔っ払いだらけ。『健さん!』と掛け声がうるさく、歌どころではない。二度とやるもんかと痛切に思ったそうです。しかも、福富氏との間に入った人間が、ギャラの半分を懐に入れてしまったというオチまでついた」


(中略)
 ふたりの、結婚での幸福な時間は短かった。'62年には子供を授かるものの、重度の妊娠中毒症と江利の過労も重なり、やむなく中絶。江利は都内の霊園に供養塔を建立し、離婚後も健さんはここに足を運んで供養をつづけていたという。
 また、江利が'82年に脳溢血で急死した後は、命日に世田谷区瀬田の法徳寺にある墓を必ず訪れていた。

 さらに今回の取材で、健さんが江利との日々を大切に思っていたことを示す、あらたな証言も出てきた。

「離婚の前年の'70年に、健さん夫婦が暮らした世田谷の自宅が火事で全焼しました。異父姉による放火説もあったが、最終的には原因不明で、漏電だろうと言われています。
 自宅の跡地はその後、空き地になっていたのですが、庭にあった木の枯れ葉がいくつか、隣家に舞い落ちていた。隣家の住人は気にも留めていなかったところ、ある日、健さんから〈枯れ葉でご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません〉と詫び状が来たそうです。つまり、健さんは枯れ葉が隣家に落ちているのを知っていた。二人が暮らした場所を、人知れず見に来ていたからでしょう」(芸能プロ社長)
(後略)
「週刊現代」2014年12月6日号より引用させていただきました。

高倉健さんは、死んだら終わりとは考えなかった方です。現在の日本社会に蔓延(はびこ)る物質万能の物欲の価値観に縁遠い生活をされました。もしかすると、彼は物質に先立って存在する大靈(エネルギー)に「死後の世界」という未来の情報があるということをご存知であったかもしれません。健さんはご自分の魂に、死んだらどこへ行くのですかと問い続けたに違いありません。
丸山健二@鉛のバラ
参照:
生彩ある人生 『それが高倉健という男ではないのか』(2018年05月15日)
生彩ある人生 『人生は夕方から楽しくなる』(2018年02月13日)
流れのままに 『死んだらどこへ行きましょうか。』(2018年03月19日)

クリストファー・ノーラン監督「2001年宇宙の旅」

キューブリック監督キューブリック2
クリストファー・ノーラン監督2
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クリストファー・ノーラン監督
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クリストファー・ノーラン監督「2001年宇宙の旅」70ミリフィルム版を監修
(映画.com ニュース 2018年5月7日 16:00)
カンヌでお披露目@ 写真:Album/アフロ

クリストファー・ノーラン監督「2001年宇宙の旅」 フィルム撮影にこだわることで知られるクリストファー・ノーラン監督(「ダンケルク」)が、SF映画の金字塔「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)のリバイバル上映版を監修したことが明らかになった。
 米ワーナー・ブラザースは5月12日(現地時間)、「2001年宇宙の旅」の公開50周年を記念した70ミリフィルム版を、カンヌ国際映画祭でプレミア上映する。70ミリフィルムで上映されるのは、1968年のオリジナル上映以来初めてで、デジタルで画質を補正するレストアを一切行っていないのが特徴だ。
 カメラで撮影されたネガから70ミリフィルムにプリントされているそうで、ノーラン監督は「デジタルのトリックや、リマスターされたエフェクト、修正のための編集はいっさいありません。50年前に観客が体験した映画事件を再現した、レストアされていない映画なのです」と明かしている。
 ノーラン監督は幼少期にもっとも影響を受けた作品として同作を挙げており、「インターステラー」はそのオマージュの要素を含んでいる。なお、50周年記念70ミリフィルム版はカンヌ国際映画祭でお披露目されたあと、アメリカでも上映される予定だ。(映画.com速報)

50年前のネガから新プリント!カンヌで上映されるスタンリー・キューブリック監督の70mm『2001年宇宙の旅』の予告公開!デジタル修復なしでこの映像!
(シネフィル編集部 @ cinefil編集部2018-04-21)
 カンヌ国際映画祭でお披露目される、スタンリーキューブリック監督の70mm『2001年宇宙の旅』の新しい予告がワーナー・ブラザースから4月19日に公開されました。
 「最初のリリース以来初めて、この70mmのネガがオリジナルカメラから撮られたままの状態で新しくプリントされた」とクリストファー・ノーランが説明し「これが本当のフィルムです。何のデジタル技術、リマスターエフェクト、また編集による修正はありません--観客は50年前に経験した時の映画鑑賞をそのまま再現できます。」と語っています。
 映画はカンヌで5月12日にカンヌ国際映画祭で上映されその後、アメリカで公開。
また、ノーラン監督は、カンヌ当日はキューブリックの娘、カタリーナと彼の長年のパートナーの義理の兄弟、ジャン・ハーランが出席することも伝えています。
 ともかく、予告をご覧くださいー
映画史に残るキューブリック監督の傑作『2001年 宇宙の旅』は50年経っても、変わらない美しさ、クオリティ--予告だけでも魅了されます。
新しく動画で挙がった『2001年宇宙の旅』予告

 日本では、現在70mm上映ができるところは、昨年10月黒澤明監督の『デルス・ウザーラ』を70mmで上映して話題になった国立映画アーカイブだけなのですが、ぜひとも上映してほしいものです--
 また、『2001年宇宙の旅』関連では、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館では現在『2001年宇宙の旅』の”あの部屋”が再現された展示が開催されています
 『2001年宇宙の旅』公開から50周年の今年は、まだまだこの映画に関連した催しがつづきそうです。

「2001年宇宙の旅」50周年記念しカンヌで70mm版上映、C・ノーランが案内役
(映画ナタリー 2018年3月29日 19:57)
 スタンリー・キューブリック監督作「2001年宇宙の旅」の公開50周年を記念した70mmフィルム版が、第71回カンヌ国際映画祭にてフランス現地時間5月12日に上映されることがわかった。
 クラシック部門にて上映される今回のバージョンは、一切の修復作業を経ずオリジナルネガから新たにプリントされたもの。「ダンケルク」のクリストファー・ノーランが、ワーナー・ブラザースのスタッフとともに監修を担当した。
 上映時には、キューブリックの妻クリスティアーヌ、彼女の弟でありキューブリックの「シャイニング」「フルメタル・ジャケット」などで製作総指揮を担当したヤン・ハーランとともに、ノーランが案内役として登場する予定。彼がカンヌ国際映画祭に参加するのはこれが初となる。またノーランは、翌5月13日に行われるマスタークラスにも登壇し、自身のフィルモグラフィやキューブリックの作品について語る。
 この発表に際し、クリスティアーヌは「もしスタンリーが今も生きていたら、きっとクリストファー・ノーランの作品に感銘を受けていたでしょう。今回の特別上映の案内役をクリストファーが引き受けてくれたことに感謝します」とコメント。ノーランは「私のもっとも古い映画体験の1つが、ロンドンのレスタースクエアで『2001年宇宙の旅』の70mm上映を父と一緒に観たことです。今回カンヌ国際映画祭にて、修復されていない70mmバージョンを若い世代が鑑賞する機会を設けられたこと、そして案内人を務められることは、私にとって光栄の至りです」と述べている。
 1968年に公開された「2001年宇宙の旅」は、謎の石板“モノリス”と人類の接触、そして人工知能を搭載したコンピューター“HAL 9000”の人類への反乱を描いたSF。革新的な映像と哲学的なストーリーによって、映画界に多大な影響を与えた。なお70mmフィルム版は、5月18日より全米でリバイバル公開される。
最新コメント
斉藤雅紀プロフィール
函館市天神町生まれ。
『心に願へ お蔭は 吾が心に在り』を信条に。
http://www.way6.com
masanoriSaito
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