朝陽を眺めていると、
二羽の鳥たちがゆったりと、太陽に向かって行きました。

こころが朝陽と鳥たちと共に、穏やかに静まりました。
朝陽と鳥たちもこころと共に、穏やかに静まりました。

こころが朝陽と鳥たちを癒し、
朝陽と鳥たちがこころを癒しています。

これが「アルファ(Α)でありオメガ(Ω)」、
「始まりであり終わり」ということのようです。


閑話休題(それはさておき)


始点や中心に自分自身を据えてしまうと、
静的(スタティツク)な一方向になってしまいます。
始点・中心点としての自分を放棄したときに、
動的(ダイナミック)な双方向の運動が始まります。
そして、それは永遠です。
    Α ⇒ Ω   ⇒   Α ⇔ Ω   ⇒  光(愛)
 (始まり)(終わり)    (ひとつ)     (すべて)
   【分離の世界】   【互いに繋がっている】  【空】
    《幻想》        《現実》      《宇宙》
 
友を見舞ったはずが、友(共)に見舞われた。
元氣づけようと思ったが、元氣づけられた。
悲しみに暮れていた頃の話をしただけなのに、悲しみを抱く方々は癒された。
救いの手をさしのべたが、自分も救われていた。
太陽に照らされていると思っていたら、太陽も私たちから照らされていた。
天から地へと光が通ると思っていたら、地から天へも光が通っていた。


こんなことが、よくあります。

時として、孤独を感じるかもしれません。
でも、それは大海を泳ぎながらも渇いているという錯覚に似ています。

始点・中心点としての自分を放棄するなら、
分離の世界の幻想から解き放たれ、
私たち人間は他のすべての人々と互いに一つに繋がっていると分かります。

他のすべての人々や他のすべての物が、
自分自身であると感じられるようになる頃に、
私たちは始点・中心点の錯覚を乗り越えています。

福岡にてリハビリ中の畏友・N女史に祝詞を奉納した折に、
フト「祈り(意乗り)」「命(意乗血)」という言葉(光透波)が過(よぎ)りました。
それは動的(ダイナミック)な双方向の運動。

その際に感じたことをお伝えしました。
これも生彩ある人生の秘訣だと思います。

汝自身を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。
なぜなら汝の隣人は汝自身なのだから。


大きな笑顔の佳き好日を  感謝

イエスさま150506_075650