「空」は原因で、「色」は情報。

こう捉えて、魔訶般若波羅蜜多心経の「色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空、空はすなわちこれ色なり。」を以下のように読んでみます。

情報は原因に異ならず、原因は情報に異ならず。
情報はすなわちこれ原因、原因はすなわちこれ情報なり。


「五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。」を、
「情報(色)・キャッチ(受)・イメージ(想)・試行錯誤(行)・意識/行動(識)」の五蘊すなわち私たちの心と情報が全ての原因(空)だと分かるとき、すべての苦役(結果)から解放され、すべての苦役(結果)を変えるようになります、
と読み込んでみるのも面白いです。


閑話休題(それはさておき)


情報の物理界での見極めができるようになると、情報から意識/行動を導きだし、目的を達成する私たち生命の活動原理を解明できそうです。
 情報は,それを蓄えるメモリ媒体に依存しない抽象的なものである.だからこそ,ウェブサーバにある情報も,光ファイバを伝わる情報も,パソコンのハードディスクに読み込まれた情報も,等価な情報と見なすことができる.情報そのものは電子や光などそれを表現する媒体とは独立に存在できる.
 しかし,情報には必ず,それを実装する物理的な実体が必要である.電子や光などの物理的媒体の助けを借りることなく情報を蓄えたり送信したりすることはできない.個々の情報処理は,煎じ詰めれば物理過程なのだ.この一見自明な事実の意味するところは,実は深刻である.なぜならこれは,情報という抽象的なものを処
理する上で,物理法則による制約が避けられないことを意味するからである.その一方,物理法則を積極的に活用することで,夢のような情報処理を実現する可能性も開ける.実際,量子情報科学においては,量子論特有の性質をフル活用することで,古典的には実行不可能な情報処理を実現できる.情報と物理媒体,そして情報処理と物理法則の間には,不可分な関係があるのだ.Landauer はこの事情を象徴的に“Information is physical.” と表現した.
(中略)
 さて,伝統的なマクロ系の熱力学系においては,「マクロ/ミクロ」という区別と,「アクセス可能/不可能」という区別は,実質的に等価である.たとえば,気体分子の相対座標にアクセスする(すなわち,それについての情報を得て制御する) ことが実質的に不可能な理由は,それがミクロだからであるというのが伝統的な熱力学の立場である.「アクセス可能/不可能」という観点からすると,不可逆な過程とは,アクセス可能な自由度からアクセス不可能な自由度にエネルギーが散逸するプロセスを意味している.しかし,もしもミクロな自由度にもアクセス出来れば,散逸したものを元の状態に戻すことが出来るのではないだろうか.
 たとえば,比喩的な例として,「覆水盆に返らず」という箴言がある.これを字義どおりに解釈すれば,盆から床への水の散逸が不可逆であることを述べている.しかし,もしも床にこぼれた水を一滴残らず回収することが出来れば,覆水を盆に返せる――水がひとりでに盆に戻ることはないにしても.つまり,もしもこぼれた水のすべてにアクセスできれば,水の散逸は,逆向きの操作を実行できるという意味で可逆になる.このことは一般的に

アクセス可能/不可能 ⇔ 可逆/不可逆  (2)

と表現することができるだろう.つまり,「アクセス可能/不可能」の境界を移動することは,「可逆/不可逆」の境界を移動することでもあるのだ.
 そしてその両者の間を移動することができる存在が,Maxwell が考えた“デーモン” に他ならない.デーモンは,アクセス可能な自由度と不可能な自由度の間のインターフェスの役割を果たす.この観点こそが,次節で詳しく議論するように,熱力学と情報を結びつける鍵なのだ.実際,ある自由度にアクセスするためには,その自由度についての情報を得ることが必要であり,得た情報に応じてその自由度を制御することができる.先ほどのたとえで言えば,こぼれた水の各々の位置を知った分だけ盆に返せるということになる.
 「マクロ/ミクロ」は系の物理的スケールに関する概念であるのに対し,「アクセス可能/不可能」は情報論的な概念である.そして後者こそが熱力学第二法則における不可逆性の本質と結びついているのである.
http://cat.phys.s.u-tokyo.ac.jp/publication/Suri_Kagaku_Final_Version.pdf

沙川貴大さん
沙川貴大氏のホームページはこちら⇒ http://www.taksagawa.com/

生命(いのち)の発生・誕生が目的を持ったものであることも、解明・記述されるに違いありません。


大きな笑顔で参りましょう。  感謝