人々が集まって共通の題で歌を詠み、その歌を披講する会を「歌会」といいます。天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といい、江戸時代を通じほぼ毎年催され、明治維新後も明治2(1869)年1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれました。
 明治7(1874)年には一般の詠進が認められ、皇族・貴顕・側近などに加え、国民も宮中の歌会に参加できるようになりました。明治12(1879)年には一般の詠進歌のうち特に優れたものを選歌とし、歌御会始で披講。こうして、今日の民衆参加の歌会始の根幹が確立されました。明治15(1882)年からは御製を始め選歌までが新聞に発表。明治17(1884)年からは官報に掲載されるようになりました。
 大正15(1926)年には皇室儀制令が制定され、その附式に歌会始の式次第が定められました。これにより、古くから歌御会始といわれていたものが以後「歌会始」といわれることになりました。しかし、実際に歌会始と呼ばれたのは昭和3(1928)年の歌会始から。大正15年12月の大正天皇崩御により昭和2(1927)年には歌会始は行われなかったからでした。
 そして、先の大戦後は宮内省に置かれていた御歌所が廃止され、在野の歌人に選歌を委嘱。また、広く一般の詠進を求めるため、お題は平易なものとされました。預選者は、式場への参入が認められ、天皇皇后両陛下の拝謁や選者との懇談の機会が設けられました。召人は広く各分野で活躍し貢献している人々を選び、陪聴者の範囲や人数を拡大。また、テレビの中継放送が導入され、さらに多くの民衆が歌会始に親しむことができるようになりました。

平成二十七年歌会始御製
夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

閑話休題(それはさておき)

今上陛下の福島行幸は、震災以降30回に達しようとしています。
天皇皇后両陛下、福島の復興公営住宅などを視察
(TBS 16日20:29)
 天皇皇后両陛下は16日、私的な旅行で福島県を訪れ、原発事故の避難者が暮らす復興公営住宅などを視察されました。
 両陛下は、福島市内にある原発事故の避難者のための「復興公営住宅」を視察されました。県内には現在600ほどの「復興公営住宅」があり、このうちこの住宅には飯舘村や浪江町などから避難している22世帯が暮らしています。
 入居者と懇談した両陛下は、「ずいぶんご苦労が多かったでしょう」などと話し、震災当時の様子や現在の暮らしぶりについて聞かれました。天皇陛下は原発事故の影響について触れ、「なかなか厳しい状況にあるようですね」「まだ放射能が高いわけですか」などと、熱心にたずねられていました。
 また両陛下は、桑折町にある桃の生産農家を訪れ、雨の中、傘を差して、まもなく収穫を迎える桃の様子をご覧になりました。両陛下は2年前の私的旅行で、この農家を訪れる予定でしたが、大雨被害のため取りやめられていました。
 両陛下は、夕方から栃木県の那須御用邸に入っていて、今月21日まで静養される予定です。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2542144.html

 国民と共に歩む、という皇室の在り方を忠実に踏襲され、福島行幸を重ねられてきました。京都等へ避難することもなさらず、放射能汚染された栃木県高根沢町の御料牧場で生産された作物を召し上がってこられました。
 私たち日本の民衆の不幸を心から心配する日本国のリーダーは天皇ご一家のみ。天皇陛下と皇后陛下は、頻繁に福島へ出向かれ、平服で同じ目線で被災者を慰められます。お二人の命懸けの祈願と行動によって、崩壊寸前の日本は支えられています。
天皇皇后(福島)20150716
天皇陛下(稲刈り) 

夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

Ernest Hemingway(アーネスト・ヘミングウェイ)の言葉、
Courage is grace under pressure.
(勇氣とは、重圧下の氣品のことである)

の勇氣と氣品を天皇皇后両陛下からお教えいただきました。


こころ晴れやかに週末をお過ごしください。 感謝