明けましておめでとうございます。

『歌と門の盾』という大伴家持を描いた歴史短篇小説は、昭和十五(1940)年第11回上半期芥川賞を受賞しました。しかし、著者は辞退して遂にそれを受けませんでした。
著者の高木卓氏(1907〜1974)はドイツ文学者で、幸田露伴の甥です。
辞退理由は、「歌と門の盾」が彼としては「遣唐船(けんたうせん)」や「長岡京」よりもはるかに低く評価すべきもので、短篇「獄門片影(へんえい)」にさへ及ばないかもしれないというこでした。

それでは、この小説の最終11章をお楽しみください。
 都では家持の離京後まもなく藤原仲麻呂は「大保」に昇進して姓名も恵美押勝(ゑみのおしかつ)と改まり盛名いよいよ高まつたが、天(あま)さかる因幡の国庁では知事家持は一向和歌も詠まず、官邸に引きこもり勝ちで屡々書見に耽つてゐた。それはやはり歌集であつたが、家持は、これほど創作力が無くなつても和歌への執着はなほも断ち難かつたのであらうか。さうでもあり、さうでもなかつた。和歌に托した一切合切(いつさいがつさい)の夢が消滅した家持にとつては、和歌は今やただ消極的に過去及び過去の人々を偲ぶ手段でしかなかつたが、しかも何といつても彼は和歌の世界に生れ且つ育ち、恋も結婚も、悲しみも楽しみも和歌を通じ、世間とも人々とも和歌をもつて接触し、生活の悉くが、全部が、つまりは和歌でありやまと歌であつた。四十年間を和歌で生きとほしながら、今や和歌を棄て和歌からも棄てられたものの、而(しか)も揺籃、否それ以前からさへ縁あつた和歌は彼の血と流れ肉と纏はり、いはば業(がう)的でさへある内在的な宿命的なものであつた。──
 かの天平勝宝三年、漢詩集「懐風藻」が出て古事記・日本書紀・風土記等と並んでもてはやされたとき、当時三十四歳で越中から帰京したばかりの家持は、これに対抗すべき和歌の集成を思ひたつたのであつた。橘諸兄に此の企てを話したところ、和歌の趣味ゆたかな此の老左大臣は欣んで彼に支援を約してくれたが、しかも好都合なことには、当時死んだ叔母坂上郎女が多数の覚え書きを遺し、そのほか大歌人山上憶良の編輯になる「類聚歌林」などもあり、家持はこれらの歌稿を整理しつつ将来の作品を書きとめておきさへすれば自然に大歌集が出来あがる筈であつた。前から自作他作を日記代りに集録してもゐたので、爾後は一しほ注意して苟(いやし)くも秀歌ならば一切洩らすまいとしたが、頽勢の歌壇には秀歌もさう多くは作られず、私情も加はつて家持はやはり自作の歌を最も多く書きとどめ、かの高円山に酒を酌んだ大宮人的な風流も一つは歌帳を満たすためでもあつた。
 憶良の「類聚歌林」が片々たる小冊子だつたため世に埋もれたのを見るにつけても、家持は今度の歌集は内容体裁ともに堂々たるものにしなければならないと覚悟したのだつたが、これが完成されれば彼個人の名誉なるのみならず武門大伴氏が新時代にあらためて認識される一助ともなり、しかも左大臣橘諸兄の口吻では最初の勅撰和歌集にもなり得る可能性が濃厚だつたので、絶大な希望をこれにかけて歌数も一萬首といふ多数をひそかに念願したのであつた。──ところが時勢は和歌の時代ではなくなり、政界には波瀾多く、人々は動揺をつづけ、やがて橘諸兄も世を去り、家持自身さへ和歌から離れ、しかも集まつた長歌短歌は未だ半数の五千首にも満たなかつた。
 因幡守として家持が官邸で黙然(もくねん)とめくる歌稿は、往年彼が「相聞(さうもん)」「挽歌」「譬喩歌」等に一旦分類して材料が厖大なままに整頓し兼ねてゐたそのままの雑然たる歌集であつた。老左大臣橘諸兄が微笑みながら、さやう一萬首も集まつたら「萬葉集」とでもするか、と云つた言葉も今は夢ともまことともつかなかった。嘗ては凄まじい勢ひで長歌短歌が満されていつた歌帳も、此の数年来はたえて一冊も増さず、余白のみが虚しく残つたまま紙辺が淡褐色に染められてきた。ああ萬葉集か、萬葉集か、──呟きながら因幡守家持はうつろな心で過ぎし日の歌集をはらはらとめくつた。…………
 天平宝字三年の元旦、四十二歳になつた家持は、因幡國庁で郡司等を招いて新年の宴を張つた。新春早々ふりつもつた雪景色は久々に家持の感興をよびさまし、元旦の雪が豊年の吉兆であるといふ裡諺をも含ませつつ、「新(あらた)しき年のはじめの初春の、けふ降る雪のいや重(し)け好事(よごと)」と詠んだ。此の雪のやうに今年はいい事がいやが上にも重なつてくれ、といふのである。これが家持の残した最後の歌になつた。
 といつてもそれから間もなく彼が死んだわけでは決してない。肉体的な生命だけは彼はその後もなほ廿七年の長きにわたつて保ち続け、官も中納言までは進んだのである。だが因幡守以後の家持は内容の変つた人物であり、歌人たることをやめた歌人は畢竟無意味に等しい存在であつた。天稟なくして「歌人」となり「歌人」を保つたのち又歌人たるをやめざるを得なくなつた家持の偉さよ哀れさよ、稀代の名門の宗家も深い和歌の造詣も、すべて時代を離れたものは、いかに強靱にすがり怺(こら)へても結局は取り残されて行くより外ないのであつた。さあれ、千二百年前に家持が未完成のままに遺した萬葉集は幸運にも現二十世紀まで伝はつて燦然と光つてゐるのである。http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/takagitakashi.html


みなさまにとって平成28年丙申(ひのえさる)が、
実り多き佳き年でありますよう念願して止みません。

大きな笑顔で、眉間に太陽を浮かべ参りましょう。

感謝
2016年箱根駅伝 IMG_8977
昨日の箱年駅伝@走るはトップランナー(青学) 撮影:IT氏