芥川賞作家の丸山健二氏(70歳)は、'04年に「主演・高倉健」と銘打った小説『鉛のバラ』を上梓した。その際、健さん本人と交流し強い印象を受けたという。

「健さんが主人公を演じることをイメージして小説を書きたい、とお願いしたところ、ふたつ返事で了承してくれ、その後、長野県の安曇野市にある僕の家に2度、遊びにきてくれました。
 健さんは愛車のジャガーを運転して一人で来たのですが、驚いたことに約束の時間に1分の狂いもなく到着した。我が家への道は分かりにくくて、初めて来る人は間違いなく迷うのです。
 『よく迷いませんでしたね』と尋ねると、『実は前日のうちに予行演習しておきました』。前の日に我が家の前まで来ていたという。無類の律義さだと思いました」


 大のコーヒー好きで知られる健さんは、当日手土産にコーヒー豆を持参し、後日には豆を挽くミルも送られてきたという。
 丸山氏が芸能界とは縁遠い存在ということもあってか、健さんは同氏に胸襟を開いて、ざっくばらんにさまざまな話をした。

「我が家に来て早々、健さんは『世間では僕のことをホモと言っていますが、違いますからね』と言ったので驚きました(笑)。面食らいましたが、世間の噂話も気にされていたんでしょう。
 家内の料理も食べてくれたのですが、『糖尿病なんですよ』と言うので蕎麦にしました。病気を気遣っているようで、ペットボトルに自分用の水を入れて持ち歩いていました」
(丸山氏)

 自分は観られる側になりたくなかった、本当は観る側でいたかった、とも語ったという。丸山氏は話を聞いて、こう感じたと語る。

「俳優は、仕事としてやっているという意識だったのだと思います。プロの自覚が強い人なので、世間が抱く『高倉健』の印象に自分を合わせていたのでしょう」

(中略)
前出の作家・丸山氏は、こんな話も聞いたという。

「実録路線の時代が来て、仕事に困っていたとき、キャバレー王と呼ばれていた福富太郎氏から声をかけられて、『うちのキャバレーで〈網走番外地〉を1曲歌ってくれたら、1000万円以上出す』と口説かれたそうです。健さんは、『困っていたから、その金額につられちゃいまして』と言っていましたが、引き受けてステージに上がった。ところが店内はグデングデンの酔っ払いだらけ。『健さん!』と掛け声がうるさく、歌どころではない。二度とやるもんかと痛切に思ったそうです。しかも、福富氏との間に入った人間が、ギャラの半分を懐に入れてしまったというオチまでついた」


(中略)
 ふたりの、結婚での幸福な時間は短かった。'62年には子供を授かるものの、重度の妊娠中毒症と江利の過労も重なり、やむなく中絶。江利は都内の霊園に供養塔を建立し、離婚後も健さんはここに足を運んで供養をつづけていたという。
 また、江利が'82年に脳溢血で急死した後は、命日に世田谷区瀬田の法徳寺にある墓を必ず訪れていた。

 さらに今回の取材で、健さんが江利との日々を大切に思っていたことを示す、あらたな証言も出てきた。

「離婚の前年の'70年に、健さん夫婦が暮らした世田谷の自宅が火事で全焼しました。異父姉による放火説もあったが、最終的には原因不明で、漏電だろうと言われています。
 自宅の跡地はその後、空き地になっていたのですが、庭にあった木の枯れ葉がいくつか、隣家に舞い落ちていた。隣家の住人は気にも留めていなかったところ、ある日、健さんから〈枯れ葉でご迷惑をかけてしまい、申し訳ありません〉と詫び状が来たそうです。つまり、健さんは枯れ葉が隣家に落ちているのを知っていた。二人が暮らした場所を、人知れず見に来ていたからでしょう」(芸能プロ社長)
(後略)
「週刊現代」2014年12月6日号より引用させていただきました。

高倉健さんは、死んだら終わりとは考えなかった方です。現在の日本社会に蔓延(はびこ)る物質万能の物欲の価値観に縁遠い生活をされました。もしかすると、彼は物質に先立って存在する大靈(エネルギー)に「死後の世界」という未来の情報があるということをご存知であったかもしれません。健さんはご自分の魂に、死んだらどこへ行くのですかと問い続けたに違いありません。
丸山健二@鉛のバラ
参照:
生彩ある人生 『それが高倉健という男ではないのか』(2018年05月15日)
生彩ある人生 『人生は夕方から楽しくなる』(2018年02月13日)
流れのままに 『死んだらどこへ行きましょうか。』(2018年03月19日)