「それが高倉健という男ではないのか」 丸山健二

何もかも、きちんとやってのけたいと思い、これまで常にそうしてきたのは、映画を愛していたからではなく、あるいは役者稼業に惚れ込んでいたせいでもなく、ただ、それが仕事であり、それでメシを食ってきたというだけの理由に過ぎない。

だから、出来ることならファンと称する大勢の他人に囲まれたり、カメラの前で、心にもない表情を作ったり、ややこしい人間関係のまっただ中に身を置いたりしたくはないのだ。

それが高倉健という男ではないのか。

とはいえ、いやいやながら仕事をしているのではない。好きとか嫌いとかを尺度にして仕事をするのではなく、やるかやらないかを問題にするのであって、やると決め、引き受けたからには、持てる力を惜しげも無くつぎ込み、奮闘する。仕事だから仕事らしい仕事をやってのけようとする。それは、観客のためではなく、自分自身のためにすることなのだ。受けるとか受けないとかは、もちろん気になるのだが、最終的には「知ったことではない」の一言で蹴飛ばしてしまう。

それが高倉健ではないのか。

必要以上のサービスはまっぴらだ。俺を見たければ、映画館へ行くが良いし、こうした本でも買うが良い。だが、本物の俺と、俺の私生活には決して近づくな。誰であってもだ。よしんば仕事の関係者であってもだ。ましてや、男と男の友情などと口走って近づいてくる薄気味の悪い男はなおさらだ。俺はスターの立場にたまたまいるのであって、いわゆるスターさんに強くこだわったわけではない。

それが高倉健ではないのか。

腰巾着やらお供やらを、毎夜銀座をうろつかなければ、あっちからもこっちからも声がかからなければ、いつでもチヤホヤされていなければ、寂しくてたまらないし、取り巻き相手に喚き散らしていなければ安心できないというのがスターさん。仕事を済ました途端に、素早く自分に戻れるのがスター。スターは、己を見失うことなく、時々胸の内で冷ややかな笑みを浮かべている。

それが高倉健ではないのか。

役者は特別な存在でなければならない。たとえ普通の人間を演じる場合であっても、普通の男ではいけない。とりあえず、外見が問題だ。顔だけ特別に立派でも、首から下が世間の連中と全く同じではまずい。つまり、頭のてっぺんからつま先までが、売り物としてふさわしくなくてはならない。大酒を飲み、大飯を食らい、どこにでもいるただのデブとなってほんのちょっと動いただけで息切れがするような男が、主役を平然とやってのけている。しかし、彼だけは違う。彼はいつだって特別だった。

それが高倉健ではないのか。

必要に応じて、必要に動ける男が減ってきている。どうということでもないのに、大袈裟に騒ぎ立てる男がウジャウジャいる。そんなに動かなくても、派手に動き回る男が増えている。そんな男に限って、本当に動かなくてはいけない時に、コソコソと逃げてしまう。「格好だけで良いのだ、中身なんてどうでも良いのだ。外側しか見えないさ」と、彼らは居直る。だが、そうではない。人間の中身は、ハッキリとスクリーンに映し出されるのだ。たとえば、分厚い皮下脂肪のような形で。彼は必要に応じて、必要な動きができる。スクリーンの上だけではなく、私生活でも。

それが高倉健ではないのか。

3年前にできなかったことが、今は簡単にやってのけられる。そんな男は少ない。流れに身を任せることを知っていて、時には流されもするが、それでもいつも頭は上流に向けられ、両手はのべつ水をかき、両足はしょっちゅう水を蹴っている。つまり、エネルギーの配分を冷静に計算しながら、少しでも前進しようと狙っている。彼は決して溺れない。

それが高倉健ではないのか。

暗くて重くて、正しくて、強い一匹狼のイメージは、いつしか敬遠されるようになった。そうした主人公に憧れ、血の騒ぎを覚える男は、減るばかりだ。時代はますます軽くて薄い方向へと傾いている。その日その日を、チマチマとこすっからく、目先の欲に振り回されて、弱くてだらしない男たちが「普通で良いんだよ。自然に生きたいのさ。等身大の生き様がしたいんだ」と小賢しい言葉の上で、あぐらをかいている。その中にあって彼は、男であり続けたいと願い、役者をしながらその姿勢を崩そうとしない。

それが高倉健ではないのか。

高倉健@旅の途中で
『旅の途中で』 (新潮文庫・ 2005/12/1)より引用