早いですね!
9月が終わりに近づき、間もなく10月がやってきます。
今年も残すところ2カ月です。

あっという間に、明日が今日となり、来週が今週となり、来月が今月となり、未来が今となっています。まるで、今しかないような感覚に襲われます。不思議ですね。


閑話休題(それはさておき)


菊池寛氏(1888年12月〜1948年3月)の「東京行進曲」(『キング』一九二八・六〜一九二九・一〇)は、連載中に日活によって映画化(溝口健二監督)され、初の映画主題歌(西條八十作詞・中山晋平作曲)が制作された。脚色者が小説に忠実なあまりに映画・小説共に失敗作となったといわれる作品なのですが、小説は未完であり、映画の後半部分は小説に準拠しようとも叶いませんでした。オリジナルは101分ですが、現存するのは30分余りです。(参照:https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkindaibungaku/89/0/89_KJ00009352286/_pdf/-char/ja
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主題歌は、作詞西條八十・作曲中山晋平・唄佐藤千夜子によるものです。
これは、日本の映画主題歌、すなわち映画とタイアップした曲の第1号。
映画公開の1か月前、1929(昭和4)年)5月1日にビクターレコードから発売され、25万枚を売り上げました。
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https://www.nikkatsu.com/movie/12731.html


28歳から小説を書き始めた菊池寛氏は、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という考えの方でした。その根底には、『まず生活して自分の人生観を持て。それがないのに書いてもしょうがない』という発想が。彼は「我に神を頼まざるがごとき、力を与えたまえ!」と作品の中で発していますが、彼の生きざまがこの一言に凝縮されています。1923年、彼が35歳のときに書いた『小説家たらんとする青年に与う』を転載します。お愉しみいただけると幸いです。
 僕はまず、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、17、18ないし20歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。20歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。

 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。我々の普段の生活が、それぞれ小説を書いているという事になり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を転倒している人が多くて困る。ちょっと1、2年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。そうして、小説を書く修業をするのが本当だと思う。
 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、やはり、多く読むことが必要だ

 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。
 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。
 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、25歳末満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。

 僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、28の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、あたかも、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。
 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまくまとめる技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。
 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、文学の才のある人は、誰でも上手く書くと思う。
 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う

 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い特代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸をなめることが大切である。
 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、もっぱら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、収集すぺきである
 かくの如く、生活して行き、そうして、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。

(追記)
  本名は寛(ひろし)。小説家、劇作家にしてジャーナリスト。
  高松に生まれる26歳の時に第3次『新思潮』が創刊され、学生時代の友人芥川龍之介と参加します。1916年(28歳)には芥川らと第4次「新思潮」を発刊し、肉親の情愛の葛藤を描いた戯曲『父帰る』を発表。京大卒業後、時事新報社会部記者を経て小説家となります。卒業後は記者をしながら作品を書き続け、31歳の時に『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』をリリース。テーマを絞り込んだ簡潔で力強い構成が高く評価され、ヒューマニズムとリアリズムの作家として名声を得ます。翌年からは『真珠夫人』など、通俗小説の分野でも広く活躍。十数年前に放映されていたテレビドラマ『真珠夫人』は、この作品が原作です。原作は長らく絶版となっていたのですが、2002年、テレビドラマ化に伴い復刊。35歳の時、ポケットマネーで雑誌『文藝春秋』を創刊したところ大成功を収め、富豪となります。38歳、文芸家協会を設立。1935年(47歳)、文壇の登龍門として芥川賞・直木賞を設定するなど、「文壇の大御所」として雑誌経営や後進の育成にも力を尽くします。晩年は大映社長として文化的事業を行い、作家の地位向上に貢献。これらの成功で得た資産などで、川端康成、横光利一、小林秀雄などの新進の文学者に金銭的な援助をおこないました。
  1948年、菊池は一週間続いた腹痛が治まり、友人たちと自宅で全快祝いをしていた。その最中に突然、心臓発作に襲われ、10分ほどで昇天。59歳であった。(以上)

大きな笑顔の良き日々をお過ごしください。



生彩ある人生@下段の注意20200103