眞名井神社



「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。山根治ブログ 2021年07月16日号http://yamaneosamu.blog.jp/archives/9426109.html)から転載させていただきます。
人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。

山根さま

コメント・メール(10)の続きです。

山根治さま

中学から高校生だった頃に、座禅や山歩きを始め、歴史に関心を抱いた私は、『新古今』や『百人一首』に凝り、反抗期の若者だったので、古文の教官を虐めるのに、喜びを感じる年齢でした。だから、英語の授業を拒否して、市ヶ谷の日仏学院に通い、カトリックの神父から、フランス語の講義を受け、お茶の水周辺の大学で潜り学生をやり、関西にまで出かけて、座禅をしたりしたものです。

高校時代の私は反米であり、社会部は除名されたりして、江戸っ子らしい反骨精神が、「野ごころ」を振りかざす、反ソで多分にアナキーな、若者として成長していました。しかも、受験勉強を嫌悪したから、授業をさぼり旅に出て、引き籠りの反対の放浪癖であり、数学や歴史は抜群だが、反抗心が強烈でったのに、良く卒業できたものでした。

西国三十三か所の巡礼は、近畿地方の名所巡りで、それは富鉱地帯でもあり、修験道を歩き回ったし、丹沢の沢登りに始まり、各地の山によじ登って、大自然と交わる青春期でした。だが、文学にものめり込んで、和泉式部の娘が詠んだ、あの「大江山いく野の道の遠ければ、未だふみも見ず天橋立」は、教師を攻撃する格好の材料で、懐かしく思い出します。

実は、大江山はモリブデンとニッケル鉱で、生野は銀山であり、天橋立は珪酸塩の白砂で出来て、すべて鉱物資源を示し、特殊鋼を作る素材だから、修験道と密着しています。小学生の頃から博物を好み、科学博物館に入り浸り、化石や鉱物の採集を趣味にし、大学に入る以前の段階で、私は地質現象に対しては、異常なほど好奇心を抱きました。

高校時代に同学年仲間は、優秀な者は数学が出来、原子物理学や工学を選び、私は博物学が好きなため、ウラン鉱に興味を抱き、人形峠には関心を持ちました。ただ、鉱山学は坑道が舞台で、山の高みが好きな私には、趣味が合わなかったから、アンモン貝を好んだから、白亜系の地層が分布する、秩父や紀伊山地に出かけ、修験の世界に接したのです。

しかも、構造地質学が好きだから、断層に沿って分布する、オフィオライト(蛇紋岩)地帯を愛し、特殊な植物が繁殖するので、秘かに薬草を栽培する、漢方薬の原産地を訪れました。松は石英を好むので、「青松白砂」と言う通りで、大蒜や人参は硫化土に繁殖し,芥子や大麻は蛇紋岩に伴って、良質のものが育ったから、植物は地質学者よりも博識で、微量鉱物を識別するのです。

それを知っていたのが、山師や修験の人間であり、草やコケの生え方で鉱物を察知し、岩相や山容で見当をつけて、金や鉄の鉱物を含む、土地を発見して富を築きます。だから、権力者は土地を占有し、領主として勢力を築くが、経済学者は土地に幻惑されて、米の生産や地代を中心に、歴史を組み立てるせいで、物事の本質を見誤るのです。

大学では地質学を専攻し、四年間の半分以上は、山の中を歩き回ったし、日本中の山を彷徨したけれど、特に好んだのは穂高であり、その記録が『山岳誌』でした。その頃の放浪の一つに、美作地方の巡検があり、そこは「山窩」の王国で、竹細工の製品で有名でして、山間盆地に竹の林が多く、周辺は地崩れが目立ちました。

竹は石英砂だけでなく、モンモリナイトを好み、花崗岩の真砂の長石が、風化した地崩れ地帯に林を作り、その周辺には大麻が生え、その奥に芥子が群生します。これがこの旅行での成果で、修験者も似た学び方をし、鉱物と植物の関係を知り、山師のノウハウを得たが、三朝温泉での入浴によって、ラドン泉の治療効果から、私は強い印象を受けました。


三朝温泉の「投入堂」は、崖ふちに建つ国宝で、役小角の伝説と結び、修験者の聖地になっていて、蔵王権現と関係を持ち、断層構造の複雑さが、珍しい温泉を誕生させました。蘭学で有名な箕作家は、美作の出身であるが、蘭医の系列が麻酔薬として、大麻や芥子と結ぶかは、確定はできないけれど、伯備線の沿線の景観で、竹林と崖崩れを目撃しました。

日本の特殊性としては、山林地主が誇る実力が、如何に大きいかについて、見落とされているのであり、政体を支配する将軍は、直轄地としての天領に、経済力の基盤を持っています。同じことは領主や寺院でも、地主としての立場が、米以外の材木の価値として、住民には入会地の木材に、資源としての価値があり、その極限状態が山林王です。

出雲の山林地主は田辺家で、竹下を子分にしていたし、桜で名高い吉野の山林王として、土倉庄三郎が名高く、同志社大学のパトロンであり、殿様をしのいだ本間家は、酒田の大地主で有名です。この山林地主に対して,甚兵衛のと呼び慣わしたし、長州の田布施の甚兵衛が、佐藤栄作の実家であり、その源流は佐藤義清で、歌人の西行として知られます。

西国33か所の最初は、熊野詣の那智ですが、紀ノ國は木材に富み、熊野川は筏下りが有名で、鳶口を使う山の民が海に出て、船を作って漁師になり、捕鯨にも鳶口を使っています。家光が鎖国する前は、熊野水軍だけでなく、九鬼水軍が派手に活躍し、瀬戸内海の村上水軍と共に、東南アジアにまで進出して、交易に従事しており、森林は貴重な山の幸です。

寺院にとっては山林が、収入の源泉であり、天皇の頻繁な熊野詣では、鉱物や森林資源に結びつく、収入とも関係していて、その実働部隊の形で、修験者や高野聖がいました。だから、『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』では、京都皇統の舎人はそれとなく、「門跡寺」の実態を説明し、親王が座主になる形で、家元を作ると仄めかしています。

山林王の話が出たので、中位の地主に注目すると、漁港の境港の庄司家は、出雲の田辺家の縁戚だし、美作に山林を保有して、そこで人形峠のブームに、関連して投資話に乗った。だが、投機事業は失敗に終わり、その尻ぬぐいを助け、助成金で始末したのが、大蔵省の若手官僚だった、相沢英之だったのであり、そんな話を松江で耳にしました。

坊さん仲間の話だから、裏情報の恐れもあるが、庄司家の三人娘は美女で、山陰一帯に知られており、三女は女優だったから、お礼に相沢の後妻になった。大蔵省は補助金の面では、絶大な力を持つので、相沢は「背乗り」ではなく、女優の司洋子の夫の肩書を使い、鳥取から代議士になったが、人形峠の話は忘れられ、原発ブームの陰に消えました。

山林地主の所有地は、農地改革の対象外で、戦後の鉱山ブームにより、投機の対象として注目され、その中のエピソードとして、石炭成金の話と共に、人形峠のウランが話題になった。だが、戦後の日本の経済は、資源開発より機械工業に、重心が大きく移ったとはいえ、土地本位の国柄だから、乱開発の対象として、山林地主の地位は盤石です。

木曽の山林は秀吉が抑え、それを幕府が天領にし、明治になると皇室が、御用林として支配したので、天皇家は日本列島では、最大の山林王として、皇室財産を所有したのです。それに加える形で、地主は鉄道や高速道路に、土地を売却しているし、不動産ブームもあって、佐藤甚兵衛の家系では、何人も首相を輩出して、国の財産を食い潰しています。

その源流は江戸時代で、徳川の幕藩体制により、松平による親藩制度と、天領による土地支配による,家産官僚に基づく支配が、日本の経済構造を規定し、今の亡国政体に続いています。現在の政治の紊乱は、戦前回帰を目指す安倍が、ゾンビ政治をしたためですが、経済制度の歪みとして、我々が愛読し続けてきた、江戸時代の古典に事例があります。

芭蕉の『奥の細道』は、芭蕉自体が忍者であり、東北各地の甚兵衛を訪ね、ネットワークを作った、隠密紀行との説があって、行間を読む楽しみが、この俳文集にはあります。須賀川の甚兵衛は、後藤新平の母校の地で、アヘンとの関係から見て、意味深長である上に、日光は空海の足跡があり、殺生石訪問の話を始め、わくわくするヒントに気づきます。

松尾芭蕉自身が伊賀者で、仙台の伊達藩の偵察や,酒田の本間甚兵衛に向け、工作をしたと言われますが、河井曽良が書いたという、『曽良旅日記』を読んでも、その辺は謎のままです。だが、材木は家を作る材料で、薪や木炭は燃料として、重要なエネルギー源だし、景観や芥子と岩石から、旅程を展望するならば、小説が書けそうだと思えます。

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