「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。山根治ブログ 2021年08月19日号から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
冠省.  戦後76年の終戦記念日に、私の歴史観をひっくり返すような情報が飛び込んできました。
 令和3年8月15日に放映された、NHKスペシャル『開戦秘史』−太平洋戦争、日中米英の激烈な暗闘、中国最高指導者の日記、日本・和平工作の誤算、米大統領の迷いと決断− がそれです。フーヴァー研究所に保管されている、蒋介石の4年間に亘る膨大な量の日記を読み解いて映像化したものです。
 驚きましたね。驚きを通り越して目が点になる思いでした。

 中国の最高指導者であった蒋介石が仕組んだ謀略、敵国日本に勝つために日本を敢えて開戦に突き進むように、イギリス、ロシア、アメリカに働きかけたというのです。つまり、第二次世界大戦を引き起こした第一級の戦争犯罪人が蒋介石であることを示唆するものでした。
 東條英機が第一級戦犯として、極東軍事裁判で死刑に処せられたり、或いは、岸信介、児玉誉士夫、瀬島龍三、大川周明などのように、意味不明の理由で死一等を減じられたりしたことについて、これまで私は何となく腑に落ちないものを感じていました。連合国側(英、中、露、米)が、和平交渉についていた日本を欺き、一転して日本を開戦に向かわせた背景に、蒋介石の謀略があったとなると、私の極東軍事裁判にかかるモヤモヤはスッキリします。日本人の兵士だけでも310万人を死に追いやった未曽有の戦争は、連合国側が仕向けたヤラセ戦争だったのではないかと思うに至りました。
 一般国民を含めて1000万人以上の日本人を死に追いやったヤラセ戦争、−その結果として戦後76年、現在に至るもアメリカの属領に甘んじてきた日本。このヤラセ戦争がもたらしたものは、ドイツのヒトラー率いるナチスが行なった大量虐殺(ジェノサイド)と何ら変わるところがありません。ちなみに、私の父・山根万一は、終戦の年・昭和20年2月に出征し、フィリピンで戦死したことになっていますが、私の父の死は戦死ではなく、餓死であったと長年考えてきました。今回判明した蒋介石の謀略の事実は、私の父の死についての考えを強力にサポートするものとなったようです。

 蒋介石の名前は、私が小学生の頃から頻繁に聞かされてきました。私の家がモラロジーの研究会の場として使われていたために、私も自然と参加するようになっており、その会合で飛び交っていたのが蒋介石の名前だったのです。部屋の壁面には、毛筆でしたためられたモラロジーの教えが漢文熟語でズラリと張りめぐらされ、まるで漢学塾のような趣きでした。

 “蒋介石は日本を救ってくれた大恩人だ。蒋介石がいたために國體(こくたい)が守られた。”

 万世一系でつづく現人神(あらひとがみ)の天皇(すめらみこと)が戦争犯罪人から外されたのは、蒋介石のお蔭であったというのです。
 モラロジーと私との関係については、26年前の平成7年にモラロジーの研究会「麗松会」の席で講演し、加筆訂正した上で小冊子にしたものがありますので、公開します(別添)。
 この講演の趣旨は、当時、島根県の政・財・官がまさに一体となって中海の干拓事業を強引に推し進めようとしていることに対して反対の意を表明し、利害得失に関係なく崇高な考えを保持していると信じていたモラロジーの会員(モラロジアン)に、私が何故、中海干拓事業に反対するのか、理解してもらうことでした。
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 父は戦後、英霊として靖国神社に祀られ、山根家には勲七等青桐葉章が届いています。昭和43年4月27日、総理大臣 佐藤栄作名で、「勲七等に叙し、青色桐葉章を贈る」とされているものです。これらに対する母の表情には険しいものがありました。喜んでいるどころか、有難がってなどいなかったのです。私もこれまで父・山根万一が祀られている靖国神社には数十回も参拝しています。参拝する度に母の気持ちが分かるようになってきました。とりわけ、境内に設置されている戦争記念館「遊就館」に足を踏み入れた途端に、私の背筋が凍りついたのです。ナチスのユダヤ人虐殺の現場・アウシュビッツとイメージの上でピッタリ重なり合ったからです。
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(別 添)

文化の街−松江− (本庄工区問題をめぐって)

      −  目     次  −   
 1.はじめに  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5
 2.私とモラロジー ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 5 
 3.松江の再発見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 8
 4.文化とは何か、文化人とは何か・・・・・・・・・・・ 9
 5.文化の街−松江− ・・・・・・・・・・・・・・・・ 11
 6.飫宇の海−出雲文化の基盤 ・・・・・・・・・・・・ 14
 7.国引き神話−飫宇の入海創成神話 ・・・・・・・・・ 15
 8.朝酌の渡 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 21
 9.松江と万葉集 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 24
 10.出雲弁 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 32
 11.本庄工区問題 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 36
 12.おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 40
      注   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 42
      資 料 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 56
        ・「国引き神話」「朝酌渡」  
        ・「万葉集」より   

1.はじめに
 本日は、小さい頃から親しみを覚えていたモラロジー(注1)の会の方、日頃から親しくさせていただいている方と共に、素晴らしい街である松江に住んでいることの意味を改めて考えてみたいと思っております。

2.私とモラロジー
 物心つく頃から、私のまわりでは「モラロジー」という言葉が飛びかっておりまして、そういう雰囲気の中で育ったという経緯がございます。現在、私はモラロジーの会員ではございませんが、私のおふくろ、兄、義理の姉がモラロジーの会員でございます。大工であった私の父は50年前にフィリピンで32才の若さで戦死しておりますが、戦前、20代の中ば頃、現在の麗澤大学の前身であるモラロジーの専攻塾に行って学んできております。私の亡くなった祖父、祖母も共に熱心なモラロジーの会員でございました。私は小さい頃、研究会とか、特別な研修会に何回も出たことがございまして、ある程度のことは存じておりますが、モラロジーについて詳しく承知しているわけではありません。 
 私は現在52才、まもなく53才になるんですが、現在の私の立場から、このモラロジーに携わっていらっしゃる方についての感想を申し上げますと、私の身近な方々をもとに申し上げるわけですが、不言実行の方々の集団ではないか。モラロジーというのはレベルの高い、厳しい教えである、しかも、その教えを毎日実践なさろうとなさっている方の集まりではないかと理解しております。私は小さい頃からモラロジーによって大きな影響を受けて育ったと、現在改めて考えている次第でございます。
 モラロジーの中で、身近な存在をピックアップさせていただきますと、私の母親の父、広江瀬市という私の祖父でございますが、東出雲町の上意東で百姓の傍ら炭焼きをして一生を過ごした人物でございます。私は小さい頃、意東のいなかへ遊びに行くのが、なによりの楽しみでございまして、行くたびに広江のおじいさん、おばあさんが温かく迎えて、私を自由に遊ばせてくれました。広江瀬市は、熱心なモラロジアンでございまして、百姓仕事の傍ら、参与として、モラロジーの話をさせていただいたと聞いております。祖父が私に説教がましいことやおしつけがましいことを言った記憶はありません。私が行きますと、抹茶を立ててくれまして、干柿、駄菓子でふるまってくれました。いなかの昔話とか、子供に興味のある話をしてくれたり、私が夢中になって話をするのを黙ってにこにこ聞いていたという想い出が記憶に残っております。自分の身内をほめるのは気が引けるのですが、なぜか、尋常小学校ぐらいの学歴しかなかった祖父ではありますものの、私の記憶では生きる知恵をもった賢い人ではなかったかという思いが残っています。
 もう一人、私が小学校の頃、「古津のおばあさん」と呼んでいた方に触れます。モラロジーの会員で、よく私の所にもおいでになって、私の祖母、母といろいろな話をしておられたことを覚えております。この方は、当時の女性としては、珍しく毅然としたところのある方でございました。古津家そのものが、格式の高い家柄ということもあったでしょうが、人に頭を下げたことのないおばあさんということでよく覚えております。私はこのおばあちゃんに可愛がっていただいたんですが、私も小さい頃かなり意地っ張りの子供だったようでございまして、けんかとまではいかないが、よくおばあちゃんとやりあっていたようでございます。私の母が私とおばあちゃんとの当時のやりとりを話しては、涙を流して笑います。古津のおばあちゃんは、しばしば私をからかいにおいでになるのが楽しみのようでございまして、私の可愛がっていた猫にケチをつける。私は自分のことを言われたときにはあまり腹はたたないんですが、可愛がっている猫の悪口を言われたということで、非常に怒っていたようです(笑)。「治さんとこの猫はボロで、うちの猫は上等で」とおっしゃるのが、カチンときていたようです(笑)。そうはいっても、古津のお宅にはよくお邪魔して、お茶やお菓子をいただいたり、盆栽がお好きでしたので、見せていただいたりしていました。楽山へ行って、盆栽に合うような草木を取って帰って、おばあちゃんにプレゼントした想い出もございます。
 今日司会をなさっている大野さんのおかあさん、「大野のおばさん」と申し上げていました。私の家の前にいらっしゃった「長谷川のおばさん」。私の祖父と同じように、それぞれの方は、私に説教めいたことをおっしゃるわけでもなく、温かくやさしく見守ってくださった方々ばかりでした。今思いますと、モラロジーの実践を自ら皆さんなさっていたのではないかと考えております。なつかしく思い出すこの頃でございます。
 もう一人忘れてならない方が、塚谷政蔵先生でございます。私も何回か会ってお話させていただきました。私は昭和36年、初めて松江を出て、東京の大学に試験を受けに行きましたが、その時、出雲号の夜行でご一緒させていただきました。堅い椅子の隣で、私はいろいろな話を勝手にしたと思いますが、塚谷先生は人生はこうあるべきだ、これからこうしなければいけないとか、という説教じみたことをお話になった記憶はありません。何かしら、先生の側にいくと、雰囲気的に自然に大きなものが伝わってくるものを感じました。
 これらの方々の人生のエッセンスとでもいうものが、自然に子供の私の中にしみとおってきたのではないか。私も50才を過ぎて、ある程度自分を客観的に見つめることができるようになった年令になって、そのように理解しております。

3.松江の再発見
 私は、昭和36年に大学入試に落ちまして、次の年37年にようやく合格することができ、東京へ勉強に行きました。私が松江のことを意識しだしたのは、松江を離れてからでございます。それから、何か違ったものが見えてきた、松江以外の街のこと、あるいは日本以外の国のこともある程度わかってきた。そういう状況の中で、改めて松江というまちが、それまでとは違ったものに見えてきました。
 今から19年前、昭和51年に松江で仕事をするために帰ってまいりました。34才の時、松江に帰って、自ら仕事をするに伴って、さらに松江が違った形で、私に大きく映るようになりました。私の大学の友人には口の悪いのが多くて、本音もだいぶあると思いますが、冗談混じりに、松江は日本のチベットだ、というようなことを平気で言うんですね。けしからん間違った考えだと思っています(笑)。地理的には確かに東京から離れていて、いろいろな面で遅れているのは、確かにあることはあります。しかし、松江にしかないもの、あるいは松江が光り輝くようなものがたくさんあるということに、だんだん気が付いてきたのが、昨今の私の実感でございます。今日は、そういうことを、私なりの言葉でお話申し上げたいと考えております。

4.文化とは何か、文化人とは何か。
 今日の演題に、「文化の街 −松江−」という題をつけたわけでございますが、この「文化の街」とはどういうことなのか、まず考えてみましょう。
 その前に、「文化」(注2)とはどういうことか、できるだけわかりやすく、申し上げたいと思います。文化ということを詳しく論じると、やたらと難しい話になりますので、話し言葉で定義付けてみることにいたします。文化ということは、現在の文化人類学・社会学で、大きなテーマとなってでてくる考え方ですが、学習、つまり学ぶことによって得られたものが文化です。
 別の言い方からすると、人々の生活の仕方、これが文化です。あるいは、精神的な営みと言っていいかもしれません。しかも、学習によって得られたものといいましても、どういうものかと申しますと、親から子へ、子から孫へと伝えられていくもの、あるいは、先生から教え子、お師匠さんからお弟子さんへと伝えられていく生活の仕方、精神的な営み、こういうものを文化と言っているようです。文化人類学・社会学における一般的な考え方でございます。
 したがいまして、よく文化人ということを言いますが、文化人とはどういう人かと申しますと、親から子へ、先生から教え子へ、師匠から弟子へと伝えられたものを、単によく覚えている人のことではなくて、まさに自分のものとして身につけて、日々生活の中で生かしている人のことです。ここで私が申します文化人とは、単なる知識人ではありません。もちろん、学歴は関係ありません。全く関係ないとは申しませんが、原則として学歴など関係ありません。たとえば文化人というと、学校の先生、大学の教授、評論家などが、一般的に念頭に浮かぶかもしれませんが、私の申し上げる文化人というのは、必ずしもそういう人達とイコールではありません。中には、そういう方で、非常にレベルの高い方もいらっしゃいます。大学の先生の悪口を言うわけではありませんが、往々にして、知識にさえ欠けている方、知識だけの方、知識に偏って生活のバランスのとれていない方が結構いらっしゃいますので、そういう方に関しては、必ずしも文化人とは言えないのではないかと思っております。
 その反面、たとえば、モラロジーを山陰地区で広められた恩人といわれている塚谷先生、この方など、文化人の典型的な方ではないでしょうか。それは、単に広池千九郎博士のおっしゃったことを鸚鵡返しのように伝えるのではなくて、塚谷先生が自らのものとしてお伝えになった、しかも、私の小さい頃、理屈のわからない子供にも、雰囲気で伝えることができた、そういうものをお持ちになった方、こういう方こそ、本当の意味の文化人ではないかと思います。

5.文化の街 −松江
 表題に掲げました「文化の街」というのは、そのような意味での文化人がたくさんいる街、というふうに理解していただきたい。こういうまちは、松江だけでなく、日本全国にはたくさんございます。しかし、松江は日本のどの地域にも負けないくらい、そういう方の比率が高い。人口は14万人ほどしかいないわけですが、真の意味での文化人の比率が高いまちだと、私は理解しております。そういうすぐれた方々が、ごく普通の生活をなさっている街−それが松江でございます。
 『松江 −わが町』(松江今井書店発行)という本がございます。漢東種一郎さんがお書きになったエッセー集で、挿し絵は天神町の福田茂宏さんがお描きになっています。漢東さんも、福田さんも県立松江商業の大先輩で、常日頃尊敬している方ですが、立派なエッセイです。このような文章は、小手先だけでできるものではありません。多岐にわたる人生経験なり、深い思索の結果から生まれてくるものと、私は考えます。
 この中から一部紹介します。16ページに「山番のきんか」というのがあります。松江の古い方はご存じかと思いますが、私の子供の頃の重要な遊び場の一つに城山がありました。木に登ってくるみを採ったり、しいのみを拾ったりして遊んだものですが、ものすごく恐い、出雲弁で「おぞい」山の番人がおりました。私達は「きんか」と言っていました。頭がツルツルしていたということで、「きんか」と言ったと思いますが、実際に見たことはないんです。私の友達に聞いても、誰も顔は知らないのです。顔は知らないけれど、「おぞい」、これほど恐い存在はなかった、そういうことを大先輩である漢東さんも書いていらっしゃる。名文です。34ページには、県庁のお堀のことが書いてあります。その中に、「おんじょつり」、とんぼとりのことですが、その時の歌が再現されています。私が記憶している「おんじょつり」の歌とは少し違っていますが、概ね同じです。まさに当時の情景が、色まで見えるように書かれています。序文の中で、作家の江國滋さんは「色が見える、音が聞こえるにとどまらず、色が聞こえる、音が見える」文章であると評しています。言い得て絶妙であります。このような本がさりげなくできる文化の土壌が松江にあるということを私は申し上げたいのです。
 その他にも、同じく松江商業の先輩で、山陰合同銀行にお勤めの安部吉弘さんという方がいらっしゃいます。現在、山陰合同ファイナンスの社長をなさっており、銀行勤務の傍ら刀の研究をなさっている。日本刀に関しては、日本のトップクラスの方でございます。「雲藩刀工高橋聾司長信の研究」という立派な本を出しておられます。この方についても、もちろん、ご本人の能力とか努力とかは言うまでもございませんが、日本刀についての深い見識をもった多くの先達が松江、あるいはその近在に多くいらっしゃったからこそ、奥行きの深い研究が完成したのではないでしょうか。
 また、堂形町に景山宣さんという方がいらっしゃいますが、秀れた古美術の目利きであり、その鑑識眼は素晴らしいものです。本など書いていらっしゃるわけではありませんが、秀れたものをきちっと見ることができる方でございます。また、親子のような形で親しく付き合わせていただいております歴史家の速水保孝先生、有名な方でございますので、ここで紹介するまでもないでしょう。歴史家として日本におけるトップクラスの方です。
 あるいは、山陰合同銀行の現在会長をなさっている深野和夫さんなど、立派な方が松江にはたくさんいらっしゃる。このことを、私は日々感じているところでございます。大学の先生でもっともらしいことを話したり、論文をつくったり、本をたくさん書いたり、そういう人だけが文化人というのではなくて、文化のところで申し上げたように、親から子へ、子から孫へと伝えられたものの考え方、あるいは生活の仕方を自分のものにして、それを生活の中に生かしている人だということでございまして、非常にレベルの高い方がたくさんいらっしゃる、松江はそういう方々がかもし出す雰囲気の満ち満ちているまちだと、私は思っております。
 松江の文化に関して、いろいろな観点から話ができるのでございますが、ここで私は特筆すべき二つのものを取り上げようと思います。
 「出雲国風土記」という本がございます。これは今から1200年余り前、天平5年、西暦733年につくられた本です。大和朝廷の命令によって、全国で風土記をつくれということで、各地でつくられ、大和朝廷に集められた。現在5つの風土記が残っておりますが、完全な状態で伝えられているのは、出雲国風土記だけです。ここで注目すべきは、単に埃をかぶっていたのではなくて、自分たちの宝物として大事に受け継いでいった人々が千年以上にも亘って存在したという事実であり、特筆すべき第一のものです。のちほど、その文章の一部を皆さんと一緒に読んでみようと思っています。
 風土記に代表されるような、いわば文化の結晶を、親から子へ、子から孫へと伝えていくにはどうしたらよいか、これは“言葉”です。言葉でしか伝えることができません。この言葉は、まさに“出雲弁”です。これが特筆すべき第二のものです。この出雲弁が、この豊かな松江を中心とする出雲文化を脈々と伝えていったものであります。
 言葉は文化の結晶であるとか、文化をきちんと伝えていくには不可欠のものと云われていますが、出雲弁は方言として生活の中に残っています。この方言には、千年以上前の奈良時代、平安時代の言葉がタイムカプセルのような形で残っています。非常に豊かな形で残っています。今の東京を中心とした標準語は、ある意味で、日本語を貧しくした最大の原因と言われているくらいに、最大公約数的な便利さということでつくられたものです。しかし、私達の出雲弁はそのようにつくられたものではなく、歴史のカプセルとも言えるほど、そのときどきの文化がぎっしり詰まっているものでございます。これも、のちほど詳しくお話しいたします。

6.飫宇の海 −出雲文化の基盤
 次に、「飫宇(おう)の海(うみ)」について述べることにいたします。飫宇の海、 −1200年あまり前、奈良、天平の時代ですが、現在の宍道湖と中海、この二つの湖を合わせて、「飫宇(おう)の入海(いりうみ)」と呼んでいました。私は、この飫宇の海を出雲文化の基盤と位置付けております。先程、松江は文化の街と申し上げました。その文化を豊かに育んだバックグラウンドが、まさにこの海であったのではないでしょうか。日本海ももちろんそうですが、二つの入海こそ古代から脈々とつづく出雲文化を豊かに育んだものであったと、私は考えます。そういう背景のもとに、松江は古代の昔から、高いレベルの文化を保ち続けてきて、現在にいたっていると思いますし、結果的に文化レベルの高いまちになっているわけであります。
 松江を中心とした出雲の文化を豊かに育んできたのは、海です。とりわけ、二つの入海、現在の宍道湖・中海、飫宇の入海と呼んでいた内海です。非常に生産力の高いところで、多くの海の幸が豊かに採れたところです。海上交通についても波のおだやかな入海は最適でした。

7.国引き神話 −飫宇の入海創成神話
 松江の文化、出雲地方の文化を豊かに育んだのは、飫宇の入海であったと申しましたが、その入海がどうしてできたかを語り継いできた物語が、「出雲国風土記」の中にございます。通常、国造りの神話、あるいは、国引き神話と申しております。神様が初め、出雲の国は小さく造ったので、もう少し継ぎ足して大きくしようとなさって、四つの場所から綱で引いて、陸地を持ってきたという話です。できあがった陸地は、今の島根半島にあたるところで、この国引き神話は国を造った国土創成の神話であると同時に、もう一つ、四つの国を引いてきたために、二つの入海、宍道湖・中海ができたという飫宇の入海の創成神話でもあります。
 この本は(と言って、「出雲国風土記」加藤義成校注.松江今井書店刊、を示す)、一生涯を出雲国風土記の研究に身を捧げられた加藤義成先生のものです。その中にある国引き神話は、たいていの方がご存じです。国を引っ張ってきた、引っ張ってきた綱の杭が大山、三瓶山であり、その綱の跡が弓ヶ浜であり、薗(その)の長浜である。これは日本神話の代表的なもので皆様ご存じでしょう。ところが、もともとがどういうふうに書いてあるか、ご存じない方が多い。実は私もそうでした。若干取りつきにくい面があるので、読みにくい。今日はコピーをお配りして、わかりやすく申し上げたいと思います。
 出雲国風土記は漢文調で書かれているので、難しく取りつきにくいものです。しかし、漢文だけではなくて、当時の日本の言葉であった大和言葉でも書かれています。この地域で話されていた言葉であり、その意味では出雲弁といってもいいでしょう。つまり、漢文と出雲弁で書かれているということです。国引き神話は、かなりの部分が漢文ですが、中に出雲の言葉があります。もとの出雲弁です。非常にきれいな言葉でございます。出雲弁のルーツ、1200年前の言葉として、あるいは、それ以前から語り継がれたものであります。語り部、語りの臣(おみ)という人たちがいて、語り伝えたものを、そのまま万葉仮名で記したものがここに残されています。
 「飫宇(おう)となづくる所以(ゆゑ)は」、出雲の国はいくつかの郡(こほり)に分かれているということで、郡の説明をする、つまり、意宇郡(おうのこほり)の名前の由来を言うところです。「八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)」は、国引きの神様です。素戔鳴尊(すさのおのみこと)の五世後の孫であり、大国主野命(おおくにぬしのみこと)のおじいさんにあたる方です。この神がおっしゃることには、「出雲の国は小さくて若い国だ。初めの国は小さく造った。であるから、大きくするためによそから国を持ってきて、造り縫おう」と、「詔(の)りたまひて」、こうおっしゃって、「栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)を、國の餘(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」、栲衾(たくぶすま)は志羅紀(しらき)にかかる枕詞といわれているものです。神様は新羅のみさきのほうに向かって、国の余ったのがないんだろうかとご覧になったら、国の余りがあるとおっしゃった。
 これから後が、まさに出雲の言葉です。「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)衝(つ)き別(わ)けて、波多須々支(はたすすき)穗振(ほふ)り別(わ)けて、三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて、霜邀󠄀闇耶闇耶(しもつづらくるやくるや)に、河船(かわふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に『國來(くにこ)、國來(くにこ)』と引き來(き)縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(たえ)よりして、八穗米支豆支(やほしねきづき)の御埼(みさき)なり」とあります。
 「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)衝(つ)き別(わ)けて、波多須々支(はたすすき)穗振(ほふ)り別(わ)けて・・・」という同じ言葉が、4回繰り返されています。まず初めに、杵築(きづき)のみさきを引っ張ってきました。次に挾田(さだ)の国を引っ張ってきた。次に闇見(くらみ)の国、最後に三穗(みほ)のみさきを引っ張ってきたとなっています。同じ言葉です。4回繰り返されるこの言葉は、語り部が代々伝承として語り伝えたものを、風土記をつくった人が、万葉仮名で再現したものです。まさに、1200年余り前の出雲弁であります。これは表現としても素晴らしいものであり、私が師事しております歴史家の速水保孝先生は、日本神話のなかの絶唱とまでおっしゃって、絶賛されているものですが、私もそう思います。
 わかりやすく意味を申し上げますと、「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして」、おとめの胸というのは若い女性の胸のことですが、天平時代は豊かな胸の女性が非常にもてはやされたということでございまして、おとめの胸のような幅広い鉏(すき)をもって、「大魚(おふを)の支太(きだ)衝き別(わ)けて」、「大魚(おふを)」は大きな魚、具体的には鮪(まぐろ)とか、鰤(ぶり)のことで、「きだ」はえらのことです。“えら”をつくように鉏で衝きさして、「波多須々支(はたすすき)穗振(ほふ)り別(わ)けて」、「はたすすき」は穂をとり出す枕詞(注3)です。土地をざっくりと切り取って、「三身(みつより)の綱打ち挂(か)けて」、3つに撚(よ)って固くした綱をうちかけて、「霜邀󠄀闇耶闇耶(しもつづらくるやくるや)に」、「しもつづら」は“くる”の枕詞ですが、繰るや繰るやとたぐっていく。「河船(かわふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に」、河船は上流から下っていくと早いのですが、下から上がるのは手間がかかります。船を川の下流から上流へ引っ張り上げるときに、ゆっくりゆっくり上げる様子を“もそろもそろ”という言葉を使って表現しています。情景が眼に浮かぶようではありませんか。川の船をゆっくりゆっくりと引き上げるように「国よ来い、国よ来い」と引っ張ってきて、縫って造った国は杵築(きづき)のみさきである。まず一番西の方から造っていきます。次に、「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)衝(つ)き別(わ)けて、波多須々支(はたすすき)穗振(ほふ)り別(わ)けて・・・」という同じ言葉がでてきて、挾田(さだ)の国ができます。次に闇見(くらみ)の国、松江の橋北あたりと云われています。最後に引っ張ってできた国が、三穗の埼(みほのさき)、美保の関です。
 「『今は國引き訖(を)へつ』と詔(の)りたまひて、意宇杜(おうのもり)に御杖(みつえ)衝き立てて、『意惠(おゑ)』と詔(の)りたまひき。故(かれ)、意宇(おう)と云ふ」
 八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)は、「ようやく四つの国を引っ張ってきて、国造りは終わった」とおっしゃって、意宇の神社に杖を衝かれて、「おゑ(終わった)」とおっしゃった。そのためにここを意宇(おう)と云う。こういう伝承です。
 「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)衝(つ)き別(わ)けて、波多須々支(はたすすき)穗振(ほふ)り別(わ)けて・・・」という言葉はたしかに出雲の言葉でございます。土地の言葉で伝承されたものを、漢文調の文章の中に組み入れたものが国引き神話です。
 「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして」という言葉について更に申しますと、その頃は、痩せた女性はもてはやされなかったようです。今のファッションモデルのような痩せた女性は美人といわれなかったようなんですね。豊かな胸をもち、腰がしっかりとした女性、これが美人の典型だった。それがここで巧みに表現されています。京都国立博物館に重要文化財の唐時代の婦人俑があります。ちん(犬)を抱いた20センチくらいの陶器ですが、私の好きな像で、行くたびに見ます。まさしく唐美人、日本でいえば天平美人の典型です。これなどを念頭において下さればよいでしょう。しもぶくれのぽっちゃりタイプといったところです。
 「童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして」というような表現は、万葉集にもでてきます。万葉集の特異な歌人で高橋虫麻呂という人がいます。非常にきらびやかな、きらきらした色彩感豊かな歌をつくった歌人です。その歌に、珠名娘子(たまなのをとめ)という美人をうたった歌があります。近在近郷に鳴り響いた美人で、いろいろな男が求婚にやってきた有名な美人でしたが、その珠名娘子(たまなのをとめ)を歌った歌があります。その中で、「胸別(むなわけ)の 広き我妹(わぎも) 腰細(こしぼぞ)の すがるをとめの その姿(かほ)の 端正(きらきら)しきに」 ( 1738 ) という表現があります。胸の広い私の愛する女性。“すがる”は蜂の古い呼び名ですが、蜂は8の字の形をしていますね。胸が丸くて、腰がくびれて、お尻が丸い。それを女性の表現に使ったものです。すがる(蜂)のように腰の細い、しかし、胸は広い、お尻も大きい女性であり、その姿は端正で美しいという意味です。これも万葉のなかの古い日本の言葉です。
 国造りの神話は、別の言葉でいえば、飫宇の入海、宍道湖・中海ができた神話でございます。出雲文化を育んだ飫宇の入海、−その創成の伝承が、日本でも最も古い文献の一つである出雲国風土記の中に出雲の言葉で記され、長い間残ってきたのです。この入海こそ、私達地域住民の共通の誇りとして、私達の文化と共に次の世代にきちんとした姿で引き継がれなければならないものであると考えます。

8.朝酌の渡
 次に、出雲国風土記の中の朝酌渡(あさくみのわたり)のところを読んでみましょう。現在の矢田の渡し、あの近辺だったろうと言われていますが、民間の渡しの場所と、公、お上(かみ)の渡しの場所と2ヵ所ありました。西の「朝酌促戸渡(あさくみのせとのわたり)」が民間の渡し場、東の「朝酌渡(あさくみのわたり)」がお上の渡し場でした。大和朝廷の官吏は、出雲国庁から渡りまで行き、そこを渡って、島根半島の山を越えて千酌驛(ちくみのうまや)に行き、そこから隠岐の国へ行くという道筋がございます。この2つの渡りは、松江にあるものですし、1200年前の記述が、今でも現実にたどっていけるものです。出雲国風土記の中には、今でも跡をたどることのできるものがたくさんあります。その中の典型的なものとしてとりあげました。出雲地方の文化を、バックグラウンドとして支えたものは、入海であり、豊かな海の幸であったと申しましたが、まさにその状況が「朝酌渡」のところで眼に浮かぶように生き生きと描かれております。この文には出雲の言葉は若干の単語以外はでてまいりません。漢文調の文章です。
 「朝酌促戸渡(あさくみのせとのわたり)。東に通道(かよひぢ)あり、西には平原(はら)あり、中央(まなか)は渡なり。即ち筌(うへ)を東西(よも)に亘(わた)す。春秋に入出(いでい)る大き小さき雜(くさぐさ)の魚、臨時(とき)として筌の邊(あたり)に來湊(あつま)りて、馬騃(おどろきはね)て、風のごとく壓(お)し、水のごとく衝(つ)き、或るは筌を破壊(やぶ)り、或るは日魚(ひを)と製(な)りて鳥に捕らる。大き小さき雜(くさぐさ)の魚にて、濱(はま)譟(さわ)がしく、家にぎはひ、市人(いちびと)四(よも)より集ひ、自然(おのづから)にいちくらを成(な)せり。」
 いろいろな魚が湧きあがるほどたくさんいて、それを求めて人々が集まり、おのずから市がたってにぎわった−。
 「朝酌渡(あさくみのわたり)。廣さ八十歩許(ばかり)あり。國廳(くにのまつりごとのや)より海邊(うみべ)に通ふ道なり。大井濱(おおゐのはま)。即ち海鼠(こ)・海松(みる)あり。又、陶器(すゑのもの)を造れり。邑美冷水(おうみのしみづ)。東西北は山にして並びに嵯峨(さが)しく、南は海にしてひろがり、中央(まなか)にはかたあり、いづみきよし。男も女も、老いたるも少(わか)きも、時々(よりより)に叢(むらが)り集(つど)ひて、常に燕會(うたげ)する地(ところ)なり。」
 「國のまつりごとのや」とは出雲国庁のことです。今でも大草町に遺蹟がありますね。「海辺」とは、隠岐へ渡る拠点である千酌のうまやのことです。「大井の浜」は今の大井町、「こ」はなまこ、海藻の一種である「みる」があった、「すゑのもの」とは須恵器(すえき)のことで、今でも窯跡が出てきます。「おうみのしみず」は現在の大海崎町の目無水ということになっていますが、現在の目無水はあまりきれいな水ではないので、飲む気がしないんですが(笑)。湧水の周りに人々が集まって、常日頃食べたり飲んだり歌ったりする場所であったとあります。
 出雲地方には海の幸、山の幸が多く、耕作に適した土地もあり、海運にも恵まれていました。もう一つ忘れてならないのが、戦略的な物資があったということです。それは何かというと、鉄です。鉄があった、これは砂鉄ですが、奈良時代にすでに有名だったようです。出雲国風土記には仁多郡とか、飯石郡で鉄(まがね)を産出するということが記載されています。鉄のほかに銅もありました。速水保孝先生に教えていただいたのですが、明治時代の始めごろまでは、島根県の出雲地方は、全国でもトップクラスの銅の産出地域でした。かなりの生産量だったようです。奈良時代よりもっと前の、銅の精練技術がない古い時代では自然銅を使っていたようです。
 何年か前に斐川町の荒神谷から、たくさんの銅剣・銅鐸・銅矛が出まして、速水先生をはじめとする歴史家や考古学者が研究をされて、いろいろのことがわかってきました。荒神谷で出てきた銅剣などは、出雲地方の銅を使ったということが、ほぼ明らかになりつつあります。それまでは、その頃、日本には青銅を作る技術はなくて、大陸の方から青銅のかたまり(インゴット)を輸入して、銅剣・銅鐸を作ったという説が一般的でした。
 しかし、日本の銅をもとにしてブロンズを作ったのではないかということが、科学的な検討から、あるいは考古学の発掘等から明らかになってきました。これは最近のことです。荒神谷は風土記よりもっと前の年代ですが、精練のきちんとした技術はまだなかったようです。ではどういう銅を利用したのかといえば、自然銅ではなかったかと考えられています。速水先生によれば、島根半島には自然銅がたくさんあったようです。古代文化を豊かに育(はぐく)んできた出雲地方は、海の幸、山の幸に恵まれており、耕作に適した土地にも、海運にも恵まれており、そのうえに、鉄、銅といった戦略的な物資がたくさんあった、ということが、だんだんと明らかになってまいりました。

9.松江と万葉集
 万葉集とこの地域とのかかわりあいについて考えてみようと思います。私は専門の学者ではありませんし、ただ単に万葉集が好きで読んでいるだけでございますので、専門的なお話ができるわけではありません。松江に生まれた私が今まで生きてきたうえで、万葉集はどういう意味を持ったか、それに関連したことだけについて申し上げたいと思います。学者の先生方がお話しなさるような話は出来ませんが、万葉集というのは特に好きな文学でございますので、そういう観点から、一部取り上げてみたいと思います。

   「飫宇(おう)の海の 川原の千鳥 汝(な)が鳴けば
     吾(あ)が佐保河(さほがわ)の 思ほゆらくに」     ( 371 )

 門部王(かどべのおほきみ)が、飫宇の入海の浜辺でうたった歌です。門部王は天皇家に繋がる貴公子でございまして、出雲国の国守をつとめた方です。これは、自分の生れ故郷の奈良を偲んでつくった歌です。ここの飫宇の海は中海のことです。
 飫宇の海にいる川原の千鳥よ、おまえが鳴けば、私のふるさとである大和の佐保河のことがしきりに思われてくることだ −。
 望郷の念にかられて、大和の貴公子がうたった歌です。阿太加夜(あだかや)神社の境内にこの歌の碑がございます。文人政治家として知られた先代の田部長右衛門さんの肝入りで、30年前につくられたものです。
 尚、この歌の解釈には異説がございます。松江出身の方で、現在、神奈川大学の教授をなさっている佐野正巳さんは「飫海」という万葉仮名を、「おほみ」と読み、先に出雲国風土記のところで説明しました「邑美の冷水(おほみのしみず)」の「邑美(おほみ)」ではないかとされ、奈良時代の景勝の地であった邑美の冷水に出雲国守であった門部王が訪れたときに歌ったものとされています。そのように考えれば、この歌は、邑美の冷水の浜辺に鳴く千鳥の声を聞くと、ふるさとの奈良を流れる佐保河のことが、しきりに思われてならない、という意味になります。佐野さんは、「おほみ」を現在の松江市大井町の大海崎(おほみさき)の地名に通ずるものと考えていらっしゃいます。
 もうひとつ、門部王の歌に、

  「飫宇(おう)の海の 潮干(しをひ)の潟の 片思(かたもひ)に
    思ひや行かむ 道の長手(ながて)を」     ( 536 ) があります。

 飫宇の海の引潮に現われる潟(かた)ではないが、あなたに片(かた)思いをしながら、長い道のりを歩いていこうか、というほどの意味です。
 門部王が出雲守として赴任してきたときに、現地妻をめとったものの、ほどなく、妻のもとに通うことがなくなった。ところが、何ヵ月かして、また愛情がよみがえったために、この歌を作って女性に贈った、このように万葉集の中に歌の説明が添えられています。
 国司は朝集使などとなって、一時的に上京する義務があり、上京する直前に、現地妻に贈ったものであろうと言っている万葉の研究者がいます。
 あなたのことを一人で思い続けながら、大和への長い道のりを歩いていきます、という意味でしょう。
 しかし、私には全く異なった意味が浮かんでまいります。この歌の添書を素直に読めばわかるのですが、現地妻をめとったものの、あきがきて見向きもしなくなった。ところが、何ヵ月かして、また気が向いたために、よりを戻そうと思って、この歌をつくり、女性に贈ったとは読めないでしょうか。
 長い間放っておいた女性に対する門部王の、男としてのバツの悪い後ろめたい気持ちが、「片思い」とか、「道の長手」という言葉に現われている気がします。いわば、女性のところに通うのに、敷居が高くなっているんですね。
 猫を主人公にしたマンガで「ホワッツ・マイケル?」(小林まこと、講談社刊)という本があります。私の好きなマンガですが、この主人公のマイケル君(猫です)は、一寸バツが悪くなると、「アラよっ」とばかりに踊りだすクセをもっています。マイケル踊りというやつです。私には、この歌を作っているときの門部王とマイケル踊りを踊っているマイケル君とがダブって仕方ありません。

  「もののふの八十(やそ)乙女らが 汲みまがふ
    寺井の上の 堅香子(かたかご)の花」     ( 4143 )

 大伴家持の歌です。大伴家持は万葉集を編纂(へんさん)した人ではないかと言われています。万葉集の中でも一番多くの歌を残しており、万葉歌人の代表的な人でございます。この歌も調子のいい歌で私の好きな歌です。「もののふ」は八十(やそ)にかかる枕詞で、「やそ」はたくさんという意味です。
 たくさんの乙女らがいり乱れて汲んでいる寺の井戸のほとりに咲いているかたかごの花よ −。
 「かたかご」は現在のかたくりと言われています。かたくりの花は、横田の船通山にあるそうです。加賀の山の方にもあると、最近教えてくれた方がありましたので、見に行こうと思っております。昔はかたくりの根からでんぷんをとったもので、全国あちこちにあったのでしょうが、取りすぎてなくなったのでしょうか。かたくりの花、後に出てくるかわず(かじか)等、全国的にも極めて少なくなったものが、松江の近辺ではかなり残っています。

  「あしひきの山の木末(こぬれ)の 寄生(ほよ)取りて
    かざしつらくは 千載(ちとせ)寿(ほ)くとそ」     ( 4136 )

 これも大伴家持の歌です。「あしひき」は山にかかる枕詞。「寄生(ほよ)」は、やどりぎのことです。「かざしつらくは」、髪に寄生木(やどりぎ)の枝を挿します。
 山の木の枝に生えている寄生木を取ってきて、私の頭に飾ったのは、今日おいでになった皆様方が千年までも長生きなさるように、という願いからです。このような意味の歌です。
 この歌を口ずさみつつ、宴会の席にカッコよく現われた貴公子家持の姿が目に浮かぶようです。寄生木は、木に寄生する植物で丸い形をしています。松江にはヘルン旧居の前の堀端の大きな木に7つか、8つの寄生木があります。県庁と博物館の間の大きな木にも10くらいの「ほよ」がついています。冬には黄色い可愛い実をつけます。この黄色い実がついたほよを挿したのでしょうか。ヨーロッパでも寄生木をめでたい、お祝いするときの植物として使っているようです。クリスマスの木として知られています。

  「直(ただ)の会ひは あひかつましじ 石川に
     雲立ち渡れ 見つつ偲(しの)はむ」     ( 225 )

 これは依羅娘子(よさみのいらつめ)、柿本人麻呂の奥さんの歌です。何人かいた奥さんの一人のようです。人麻呂が亡くなったときに、人麻呂を偲んでうたった歌でございます。「ただの会ひは」、顔と顔を直接向き合って、直接にお会いすることはという意味です。「あひかつましじ」、もうできなくなりました。「石川」というのは地名と言われています。
 直接にお会いすることは出来なくなってしまったあなたです。石川に雲となって現われてくださいませんか。私はその雲を見ながら、あなたのことを偲びましょう −。
 「直(ただ)の会ひ」、という言葉は当時よく使っていたようで、万葉集の中によくでてまいります。
 この依羅娘子の歌には想い出がございます。今から5年程前、当時、合銀の頭取でいらっしゃった深野和夫さんとゆっくり酒を飲みながらお話をしたことがございまして、そのとき深野さんから初めて教わった歌です。深野和夫さんがどういうことでお話になったかと申しますと、あの方は学徒出陣で戦争を経験なさっています。ご自身の東大時代の学友で、戦艦大和に乗り組んだ吉田満という方がいらっしゃった。戦艦大和の最期に居合わせた方で、その体験記が残っております。「戦艦大和ノ最期」(講談社)、格調の高い文語体で書かれた名著です。
 その話から、若い学生が再び帰らないことを覚悟して飛行機に乗って、敵に突っ込んでいった、という特攻隊の話になりました。阿川弘之という作家の作品に、「雲の墓標」という若い特攻隊員を描いた小説があります。この本をぜひ読んでみるように勧められたんですが、その中にこの依羅娘子の歌がでてきます。学徒出陣させられた特攻隊の若き学生が、ある日帰ってこなくなる。死ぬということですね。その場面で、残された学徒がこの歌を口ずさむ、というのが小説にでてきます。もう君とは、顔を合わせて、言葉を交わすことはできなくなった。せめて雲になって現われてくれないか。それをみて君のことを偲ぼうではないか、という意味で使われています。深野さんはトップクラスの経済人であるばかりか、非常に学識の高い方で、万葉集に限らず、幅が広く、奥が深い方です。5年前にお聞きして以来、私の好きな歌の一つになりました。ちなみに、柿本人麻呂は石見地方に役人として来ており、島根県に縁のある歌人です。

   「みもろの 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし
    繁(しじ)に生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに
    玉かづら 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ
    明日香の 旧(ふる)き都は 山高み 川雄大(とほしろ)し
    春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし
    朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に 河蝦(かはづ)はさわく
    見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば」     ( 324 )

 山部赤人の長歌です。調子のいい歌です。声を出して歌ってみるとよくわかります。
 神名備山(かむなびやま)にたくさん生えている栂(つが)の木ではないけれど、つぎつぎに、絶えることなくいつまでも、このようにして通ってみたい明日香の旧い都であることよ。山が高く、川は雄大である。春の日は山をいくら見ても見飽きることがない。秋の夜は川がすがすがしい。朝の雲に鶴は乱れ飛び、夕霧にはかわずがしきりに鳴いている。何を見ても泣けてくる。明日香の旧い都のことを思うたびに −。
 「かはず」は、かじかという「ル・ル・ル・ル・・・」と、玉をころがすようなきれいな声で鳴く蛙のことですが、当時の明日香のまちにはいましたが、現在の奈良にはいないでしょう。私は松江の次に仁多の町が好きなんですが、鬼の舌震いという有名な景勝地があります。そこにこのかじかがいて、これから夏にかけてきれいな声で鳴いてくれます。このかじかも万葉集の中にたくさんでてきますが、かじかが清流できれいな声で鳴いている。鶴(たづ)も乱れ飛ぶ、とありますが、当時は全国いたる所で、鶴が見られたと思います。現在、鶴こそ松江では見られませんが、近辺では、かわず、ほよ、かたくりの花が現実に野生で残っています。松江を中心とする出雲地方には万葉の時代、天平の時代が生きていると実感します。昔のものではなくて生きているんですね。

10.出雲弁
 次に出雲弁(注4)についてお話します。文化の重要な伝播道具である言葉、出雲弁が豊かに残っていることを特に強調したいと思います。私は、万葉集、古事記、風土記をひもとくときに、古典を読んでいるという感じがしなくなっています。現在書かれたとしてもおかしくない、今の私達の言葉、出雲の言葉でかなり理解できるという感じにさえなっています。
 文化は代々伝えられていくもので、伝えられていくためには、言葉が絶対に必要です。文化を伝承するためには、言葉は必要不可欠です。言葉によって、初めて文化が可能になります。1200年前に書かれた風土記、万葉集などが、出雲弁で理解できる部分があるということは、素晴らしいことです。読むたびに新しい発見があって、喜びを感じます。
 万葉時代に使われた言葉が、今の出雲弁に残っている。具体例をいくつか申し上げたい。私は言語学の専門家ではありませんから、ピントはずれもあるかもしれません。
 この地方では「さめ」のことを“わに”と言います。戦後、私が子どもの頃、母がわにの肉をよく料理してくれましたが、あまりうまいものではありませんでした。アンモニア臭を今でもよく覚えています。仁多の鬼の舌震(したぶる)いという谷の名前の由来は、出雲国風土記の仁多郡のところにでてきます。昔、斐伊川を一匹のわにがずっとさかのぼっていった。仁多に住む美しいお姫さま、玉日女命(たまひめのみこと)を恋慕ってのぼっていきました。お姫さまはわにのことを嫌って会おうとしなかった。大きな石で、海から斐伊川を伝って上がってくるわにをさえぎってしまったという話が出雲国風土記に載っています。わにがお姫さまを慕って上がってきたけれど、会うことが出来なかったということで、戀山(したひやま)という名前がつけられた。舌震いの上の山です。出雲国風土記はこれで終わりますが、地元の伝承として、鬼の舌震いという名前ができた経緯があります。わにが恋慕って上っていった谷、わにが慕う、「わ」が「お」になり、「おに」が慕う、「おにのしたぶる」、鬼の舌震いとなったといわれています。さめをわにと言う。1200年以前の言葉で、今もさめのことをわにと呼んでいます。
 出雲国風土記に年号まで出てくる物語があります。出雲国風土記が作られたのは天平5年、733年ですが、その60年ぐらい前の出来事、甲戌(きのえいぬ)の年、天武天皇の御代、西暦674年の7月13日に起こった安来の沖の出来事が記されています。語臣(かたりのおみ)猪麻呂(いまろ)という語りべの娘がさめに襲われて食い殺されたという事件があった。猪麻呂は非常に悲しんで、その様が風土記に生々しく書いてあります。語臣猪麻呂は天の神、地の神に訴えて、仇討ちをさせてほしいと言います。霊験あらたか、神が願いを聞き入れてくださり、百匹余りのわにが一匹のわにを囲んで、岸の方へそろりそろりと近付いてきて、犯人として差し出しました。それを狙って、猪麻呂は鉾で殺して、娘の仇討ちをしたという話でございます。これが、“わに”で、「さめ」のことです。万葉仮名で和爾と書かれています。一昨年でしたか、安来の9号線沿いに、猪麻呂のブロンズ像がつくられました。このように「わに」という言葉は、わたしたち出雲人には現実のものとして理解できる言葉です。
 また、出雲弁で“ごせ”、「呉れ」とか「下さい」とかいう意味ですね。もう少し丁寧に“ごしない” “ごさっしゃい”という言葉があります。これも万葉時代から使われてきた言葉のようです。挨拶の言葉で“ばんじまして”がありますね。これは最近はあまり使わないようですが、奈良時代から伝わっているものではないかと言われています。“ばんじまして”の「じ」という言葉は、万葉集にしょっちゅうでてきます。“ばんじまして”は真っ暗になってからは言いませんね。昼から夜に移る、暮れなずむ夕暮時の挨拶として言います。完全な晩ではないが、晩のようなころになりましたね、ということでしょう。万葉集では、「鹿じもの」鹿のようなもの、「鳥じもの」「馬じもの」「犬じもの」、鳥のようなもの、馬のようなもの、犬のようなものというように、でてまいります。万葉の言葉が出雲弁の中に現代も残っているということではないでしょうか。
 また、先程、「ほよ」(寄生木)は丸いと言いましたが、出雲では電球のことを電灯の“ほや”といいます。東北地方で取れる海の「ほや」も丸い、丸いものを「ほや」と言ったのでしょう。乞食のことを“ほいた”といい、若布のことを“めのは”といいますね。これも万葉の言葉です。向こうに行くことを、“来る”と言い“来るけんね”あるいは“くうけんね”は、「そちらへ行きますよ」という意味です。万葉では「行く」ことを「くる」とも言っているんです。私が東京に出たときに、大学の寮の友人にずいぶんからかわれたものですが、今は胸をはって、昔の貴族の言葉だと言って威張ってやろうと思っています(笑)。皆様も自信をもって“おまえさんとこへ、くーけんね”と言われたらどうでしょうか(笑)。
 出雲弁には、万葉の言葉だけでなく、平安の言葉、鎌倉、室町時代の言葉とか、江戸時代の言葉も豊かに残っています。たとえば、“をぞい”という言葉がございます。先程、城山に“をぞい”きんかの山番がいたと申しましたが、その“をぞい”です、「恐ろしい」、「こわい」という意味です。この言葉は、紫式部の源氏物語の中に足跡を残していますので、平安時代以前の言葉であったことが判ります。“そうだげな”とか“げなげな話はウソだげな”の“げな”は、「・・であったそうな」の意味ですが、江戸の言葉です。近松門左衛門の人形浄瑠璃にでてきます。“ほんそご”は「可愛い子供」という意味で、「奔走子」と書きます。もとの意味は、奔走する、走り回って子供の世話をすることで、江戸の言葉です。これも近松門左衛門にあります。私が考えますのに、当時、参勤交代で江戸を行き来していた侍が、花のお江戸の言葉を松江に持ち帰って自慢たらしく言っていたものではないでしょうか。それが今でも残っているのではないかと思います。

11.本庄工区問題
 今日、私が文化、出雲文化について長々と述べたのは、出雲文化、それを育んできたのは何かということを申し上げたかったからです。いろいろとあるなかで、最大のものとしては、飫宇の入海とよばれた内海、宍道湖・中海であるということです。ここでぜひ皆様に考えていただきたいことは、極めて生々しいことでございますが、中海の本庄工区の問題です。これは大きな問題ですが、中身については一般の方はあまりご存じないようです。こういう問題が、現実に私達の前にあるということを今日改めて認識していただきたいということと、できれば、いったいどういう問題なのかを理解していただき、更には私達はどのようにしたらよいのか、考えを進めていただきたい。
 この問題は、戦後、食糧難の時代に、お米をたくさん作ろうということで、まず出発したものです。中海・宍道湖を淡水にして、かなり広い面積の海を干し上げて、お米を作り食糧の増産をしようということで出発しました。40年くらい前のことです。それから延々ときたわけです。皆様ご存じのように、2つの湖を淡水化することについては非常に問題が多いということで中止になった。今、塩水が入っていますが、それを断ち切って淡水にすると、水が腐ってしまうのではないか。汽水という塩分のまじった水を、塩を止めて淡水にして、きれいになったところはありません。日本で淡水化をした霞が浦、岡山県の児島湖など、みんな水がメチャクチャになってしまいました。そういう前例があるので宍道湖・中海もそういうことになったらいけないということで、大きな反対運動が起こりまして、今から7年前、昭和63年に県知事が中断するという声明を出して、淡水化については中断されています。
 ところが、大きな問題が残っていました。もともとこの事業は、淡水化するということと、海を干し上げて農地を作るという2つの事業が柱になっていました。農地を作ることに関しては、すでに揖屋工区、安来工区、彦名工区、弓浜工区は工事が終わっています。海を干して陸地にしました。最後に残った予定地が本庄工区と言われている所です。これをどうするかまだ決まらずに残っています。行ってごらんになると分かりますが、ともかく、広い場所で、中海の約4分の1を占めるほどのものです。陸地にすることが、当初予定されていましたが、現在中断されています。陸地にするのか、あるいは、海のままで残すのか、県知事は決断を迫られています。
 本庄工区は、もともと本庄の海であり、先ほどから説明してきた飫宇の入海のきわめて重要な部分です。しかも、非常に広いもので1,700ha、干し上げる予定の土地は1,400haもあります。これをある一部の人たち、特に松江市長とか、一部の経済界の人達が旗振りをして、なんとか陸地にしようとしてしゃかりきになっています。いろいろな面で問題点が指摘されています(注5)が、今日の話の観点から申し上げますと、この場所は私達の誇りとすべき出雲文化を豊かに育んできた飫宇の入海の大事なところで、簡単に手をつけていいところではありません。出雲神話、日本神話の中でもきわめて重要な部分の神話、私達大和民族の心ともいうべき神話のど真ん中を傷つけることになります。そのようなことを軽々しく進めるべきではありません。 
 たとえば、萬に止むを得ない理由があれば、しようがないと私も思います。しかし、そのような理由が本当にあるでしょうか。干陸を推進しようとする人達は、もっともらしい理由(注6)をつけていますが、太古の昔から海であったものを、あえて陸地にしなければならないほどの理由ではありません。この問題は大きな問題をはらんでいますので、軽々しい判断をしてはいけない。
 アメリカの方で、ラトクリフさんという人がいます。ついこの間まで松江にいらっしゃった方で、現在は熊本で大学の先生をなさっています。ラトクリフさんは、ラフカディオ・ハーンと同様に、松江をこよなく愛してくださっており、とりわけ、中海の本庄工区について、これほどの景観は世界広しといえどもそうざらにあるものではないと言います(注7)。確かにその通りで、千年以上の文化を豊かに育んだところで、これだけのすばらしい景観をもっているところは、他にあまりないはずです。どうか、皆さん、改めて、この本庄工区、本庄の海を実際にご覧になって下さい。大根島から、あるいは、枕木山の上からご覧になって下さい。 
 ラトクリフさんは次のように語っています。 −「このように美しい海を、しかるべき理由があって干し上げるのは悲劇です。しかるべき理由がないのに干し上げるのは犯罪です。」

12.おわりに
 今から1200年あまり前の天平時代に、宍道湖と共に飫宇(おう)の入海と呼ばれ、地域に多大な恩恵を与え続けてきた中海がまったく姿を変えてしまう −。これが本庄工区干陸問題の本質です。
 いったん海を干し上げて陸地にすれば、再び海に戻すことはできなくなります。貴重な自然と共に、そこにきざみこまれた歴史が消滅いたします。
 自然は、現在生きている私達が自由にしていいものではありません。私達の子、孫と続く後世の人々から、現在の私達がその管理を委ねられ、預託されているものでもあります。平成に生きる私達は、後世の人々から非難されるようなことをすべきではありません。干陸についての判断は、21世紀以降の人々に委ねてもよいのではないでしょうか。
 かつて、ある中国の指導者は、次のように語っていました。
 『私達が判断できかねる難しい問題は、より賢い智恵を持つにちがいない次の世代の人々にまかせようではないか。』
 結論を急ぐあまり、千載に悔いが残ることのないようにしたいものでございます。
 もう一度繰り返しますが、私達の誇りとも言うべき松江の文化を育んできた飫宇の入海のきわめて重要な部分を、これといった大きな理由もないまま傷つけることは、私達の文化を傷つけることにほかならないでしょう。
 本庄の海が21世紀にきちんと傷つかない形で引き継がれるように心から祈りまして、この話を終えたいと思います。長時間、ご清聴ありがとうございました。(拍手)。

 (注1)P1 「モラロジー」。 昭和の初め、広池千九郎博士によって提唱された「道徳科学」のこと。財団法人モラロジー研究所及び学校法人広池学園が千葉県柏市にあり、麗澤大学を併設する。

 (注2)P5「文化」。『文化とは、知識・信仰・芸術・道徳・法律・慣習その他、人間が社会の成員として獲得したあらゆる能力や習性の複合的全体である。』
                        E.B.タイラー.“原始文化”
  Culture...is that complex whole which includes knowledge,
  belief,art,morals,law,custom,and any other capabilities and
  habits acquired by man as a member of society.
              E.B.Tylor : “Primitive Culture”  (1871)

  『文化とは、人間の生活の仕方のうち、学習によってその社会から習得したいっさいの部
  分の総称である。』
                                   (石田栄一郎)

  culture,the integrated pattern of human knowledge,belief,
  and behaviour. Culture thus defined consists of language,
  ideas,beliefs,customs,taboos,codes,institutions,tools,
  techniques,works of art,rituals,ceremonies,and other
  related components;and the development of culture
  depends upon man's capacity to learn and to transmit
  knowledge to succeeding generations.
             "エンサイクロペディア・ブリタニカ"より

 (注3)P15「枕詞(まくらことば)」。言葉をひきだし、調子をととのえるための言葉、
 とされ、意味はない、と教えられてきたもの(少なくとも受験用の古文では)です。しか
 し、序詞と共に枕詞は、とくに、風土記とか、万葉集の中にあっては大きな役割を果たし
 ているもので、むしろ、語り言葉とか、歌う言葉(和歌)の中核をなすものです。声を出
 して、読んだり、歌ったりしてみるとよく分かります。

 (注4)P28「出雲弁」。出雲弁のルーツについては、上山根茂著「出雲方言考」 −出雲
 ことばの源流をたずねて −近代文芸社刊より、多くの教示を受けています。

 (注5)P35「いろいろな面で問題点が指摘されています。」
  (1)  『造成する土地の利用目的が不明確です。』
      1,400haもの広大な海を干し上げて陸地にしようというのに、陸地にした後に、
     一体何に使うのか、その利用目的がはっきりしていません。特に、900haの他用途
     (農業用途以外という意味です)利用に供される土地については、当然のことなが
     ら、干陸してから埋立てなど地盤の整備をする必要がありますが、そのような造成
    費を考えに入れた土地の価格が最終的にいくらになるのか、現時点で積算さえされ
    ていません。
      土地の価格がはっきりしないような状態ですので、土地の利用目的がはっきりし
     ないのではないでしょうか。
      干陸を主張する宮岡松江市長は、『干陸することと、後をどうするかということ
     は、まったく別のことである。干陸することをまず決めてから、後で土地の利用に
     ついて考えればよい。』と公言しています。とんでもないことです。私達松江市民
     のみならず、日本の宝ともいうべき「本庄の海」をはっきりとした利用目的を決め
     ないで、破壊することは決して許されることではありません。

  (2) 『中海・宍道湖の水質が汚染され、大根島の地下水は塩水となって使えなくなるお
    それがあります。』 

      干陸予定の1,400haのうち900haは、埋立てが想定されており、その埋立てに
     は、コストの点から、良質の山砂ではなく、産業廃棄物とか、建設残土とか、ヘド
     ロなどをもって行うことが具体的に考えられています(宮岡松江市長の提案です。
     本庄の海にゴミなどを捨て、捨て賃を取って、利益をあげようという考え方で
     す)。
     さすがに、社会的な批判が強まって、市長の発言からは産業廃棄物は表面的には
     消え、建設残土で埋立てをする案に変わってきました。しかし、この3月15日に出
     された本庄工区土地利用懇話会の報告書によれば、全面干陸を考えている人達は、
     「建設残土、産業廃棄物を利用」して、埋立てを行うべきであると明確に主張して
     います。
      一般に建設残土というのは、最低でも10%位の産業廃棄物が混入しているとされ
     ています。一方、本庄の海の底とか、大根島の地下は、玄武岩という水を通しやす
     いスカスカの岩石から成っています。そのようなところに汚れたものを投げ込むと
     どうなるでしょうか。
      第一に、スカスカの岩石を通して、有害物質が中海の中に流出するおそれが十分
     にあることです。それは、当然のことながら、宍道湖にも影響を及ぼすでしょう。
     かつて昭和47年に松江松下が、PCBを使用してつくったコンデンサーを宍道湖畔
     の敷地に埋めたところ、PCBが地下水に溶け湖中に浸出して大問題になり、宍道
     湖のシジミの価値が大暴落したことがありました。その時数年間にわたって流出し
     たPCBの総量は、わずかコップ半杯程度だったのですが、プランクトンなどの生
     物を経ることによって濃縮され、シジミ中では水中濃度のおよそ3万倍にまでなっ
     たということです。
      900haの埋立てに、仮に建設残土を使うものとすれば、5,000万立方メートル程 
     必要とされます。したがって、この10%の500万立方メートルは産業廃棄物とみな
     ければなりません。不法投棄のおそれもあるし、この中にどのような有害物質が含
     まれているか、分からないのです。スカスカの多孔質の玄武岩を通して、徐々に湖
     の中に有害物質が流れ出すことは容易に考えられることです。そうなれば、シジミ
     とかあまさぎなど宍道湖・中海の魚介類は永久にダメになってしまいます。
      大阪湾のフェニックス計画がモデルになっているようですが、大阪湾は外海で、
     しかも潮汐差が数メートルもあるのに対して、中海の潮汐差は僅か20~30センチメ
     ートルに過ぎず、かつ閉鎖的な水域ですので、こと水質に対する影響に関しては、
     参考になるものではありません。
      第二に、大根島の地下水が塩水となり、利用できなくなるおそれがあります。    
     1,400haの干陸予定地のうち500haは農用地とされており、干陸してそのままの状
     態で利用することが想定されています。つまり、水面下5メートル程の500haの土
     地ができるということです。これは、本庄工区と中海との間に水位差が生ずること
     を意味し、中海側の塩水は大根島のスカスカの玄武岩を通って、500haの干拓地に
     出てくることが考えられます。大根島の地下を塩水が通ることは、現在地下に蓄え
     られている真水が塩水におき替わることを意味します。
      したがって、地下水を汲んでも塩水となり、飲用水としてはもちろん、農業用水
     としても利用できなくなるおそれがあります。
      これらのことは、島根大学名誉教授伊達善夫先生が指摘されていることです。
      これに関して、もう一つ懸念されることがあります。900haの埋立てに要する期
     間は、20~30年と考えられています。その間、搬入された建設残土とか産業廃棄物
     が、大雨とか洪水などであふれ出し、湖の中に流れ込むことは容易に想定されるこ
     とです。そうなれば、中海はもちろん宍道湖までも汚染されることになるでしょ
     う。

  (3) 『地元自治体の財政に大きな負担を残すおそれがあります。』
      第一に、500haと想定される農業用地については、まず払下げ価格が高くなると
     いうことで、県当局は10a当たり100万円の助成金を考えているようです。500ha
     ですから、総額で50億円です。更に、払い下げを受けて実際に営農をするものとし
     て、いかにももっともらしい収支見積もりがなされています(平成7年3月15日付、
     本庄工区土地利用懇話会報告書、7ページ)が、現実性に欠ける数字合わせのよう
     な気がしてなりません。
      ちなみに、公共団体がイニシアティブをとって実施された農業の大規模な開拓事
     業で営農に成功している例は、日本では極めて少ないという現実があります。昨今
     の異常な円高で、国内における畜産をはじめとする農業の経営は、よりいっそう厳
     しくなっているだけになおさらです。仮に、営農が破綻した場合、当然のことなが
     ら、そのツケは、地方公共団体にかかってきます。
      第二に、900haと想定される他用途利用地にについてです。干陸されたら、地元
     自治体(島根県)に払い下げられるようです。しかし、これが果たして最終使用者
     に転売できる見込みがあるでしょうか。
      ある調査(日本経済新聞社による調査、平成7年4月9日付同紙)によれば、今年
     の3月末現在で、道府県によって造成された全国の工業団地のうち、東京ドームの
     2,500個分に相当する11,800haもの用地が売れ残っています。しかも、これは道
     府県レベルのもので、市町村及び民間をも含めると、更に多くなるでしょう。
      予想外の円高が進行し、労働集約的な産業を中心として、工場の海外移転がしき
     りになされています。産業の空洞化といわれているものです。企業の設備過剰感が
     根強いうえ、円高で中国など海外に比べた地方の立地優位性が急速に低下していま
     す。このような状況のもとでは、新たに土地を造成しても売却できるメドがなかな
     かたたず、その分だけ、地元自治体の財政に負担を及ぼすことになります。

  (4) 『現時点で、海を干し上げて陸地にしなければならない理由が見当たりません。』
     これも二つに分けて考えます。
     農地分500haについて。
      (a)島根県内で、減反政策が始まった昭和46年から平成5年までの23年間に、減
     反、あるいは耕作放棄がなされた田畑の面積は、13,000haに及びます。これは、
     500haの実に26倍に相当します。県内のいたるところで、これだけの農地が遊んで
     いる状況のもとで、一体何のために新しく農地を造成するというのでしょうか。
      (b)農業といっても、一体何をするかということについて、本庄工区土地利用懇話
     会の報告書によれば、トマト・メロン・キャベツ・ブロッコリー・ボタンの花の栽
     培とか畜産(牛)が考えられているようです。トマト・キャベツ・ブロッコリーと
     かボタンを何故貴重な本庄の海を干し上げてまで栽培する必要性があるのでしょう        
     か。酪農、肥育牛の経営を何故海を干し上げてまでする必要性があるのでしょう
     か。しかも、多額の補助金を(10aあたり100万円)を与えて農地を取得させ、営農
     させる必要性があるのでしょうか。
     他用途分900haについて。
      (3)のところで説明したように、現在日本全国で膨大な工業用地が売れ残ってい
     ます。今後は、産業の空洞化ということで、より一層の海外への工業移転が予測さ
     れますので、更に工業用地が余ることが予想されます。
      尚、島根県全域で、この35年の間に、企業誘致された工業用地の面積は、合わせ
     て500haほどにすぎません。しかも、先に述べた日本経済新聞の調査によれば、島
     根県の工業団地は造成済のもので47%が売れ残っています。このような状況のもと
     で、何のために土地を造成しようというのでしょうか。
      また、宮岡松江市長は、ゴルフ場でも造ったらよいと言っていますが、貴重な本
     庄の海を埋めたてて、ゴルフ場を造るというのは一体どういうことでしょうか。市
     長の見識が疑われます。
      参考までに、マスコミによる中海本庄工区の利用問題についての世論調査を紹介
     しておきます。 
      『「中海本庄工区を知事はどうしたらよいと思うか」の質問に対し、「現状のま
     ま」が31%で最も多く、すべての世代で男女ともトップだった。次いで「部分干
     陸」が20%、「全面干陸」は10%だった。一方、「その他、答えない」は39%あっ
     た。』(平成7年4月6日付、朝日新聞)。
      この調査結果は、地域の有権者の3割が、「現状の海のままであって欲しい」と望
     んでおり、かつ、「海を全面的に干し上げて陸地にして欲しい」と考えている人の3
     倍に達していることを示しています。
      同時に、当初決めた通りに全部を干し上げるのではなく、大幅に修正を加えて事
     業を完了すべきであるとする部分干陸を望む人を加えると、51%になり、有権者の
     過半数を超えることになります。
      尚、同様の世論調査は読売新聞によってもなされており(平成7年4月5日付)、
     朝日の調査と似たような結果が示されています。
 
  (5) 『観光面でマイナスになることが懸念されます。』
      松江における観光のウエイトは極めて大きなものがあります。本庄の海は太古の
     昔から愛されてきたもので、かつて大町桂月が枕木山から眺めて「天下の絶景」と
     称えたところです。現時点でこそ十分に観光開発されていないものの、本庄の海
     は、これから21世紀に向かって、全国的に美しい水辺の景観が消滅していく中に
     あって、観光産業にとって潜在的な可能性に満ちているところです。
      干陸した場合、このように物理的に観光産業発展の可能性を損なうばかりか、現
     時点での観光都市松江のイメージを著しく傷つけることになります。埋立ての期間
     は、20年以上と考えられているようですが、その間、松江の近辺は、産業廃棄物混
     じりの建設残土を積んだ大型ダンプが走り廻り、本庄の海は無残な姿をさらし続け
     ることになります。水郷水都松江といくら宣伝しても、少なくとも工事中の20年以
     上の間は、イメージの大幅な低下は避けられません。米子空港から松江に向かう最
     短コースにあるだけに、想像以上のマイナスが考えられます。
      地域振興の名のもとに海を埋立てても、観光面だけでもそれ以上のマイナスが地
     域に及ぶおそれが十分にあります。

 (注6)P35「もっともらしい理由」
  貴重な本庄の海を干し上げて、陸地にすべしと主張している人達は、おおむね、(1)地元
 経済の活性化のため
、及び(2)財政負担回避のため、という2つの理由を挙げています。
  (1)  地域経済の活性化のため、 −『新しい土地ができれば、停滞している地元経済を
    活性化させることができる。人口の流出が続いている島根にあって、人口減少をくい
    とめるためには、新しい雇用の場をつくらなければならない。3~4万人のニュータウ
    ンを埋立地に創ることによって、それは達成される。』
       −はたして、そうでしょうか。以下、吟味してみます。
    第一に、土地を造成したとしても、一体どのような企業が来てくれるのでしょうか。
    海を埋立てて、せっかく土地を創っても、ペンペン草が生えるだけの荒地となるので
    はないでしょうか。(注5)で、急激な円高等によって、地方の立地優位性が急速に
    低下していることを指摘しました。ここでは、簡単な計算をして考えてみましょう。
     3~4万人のニュータウンを創るという考えのようですが、そのためには、少なくと
    も1万人の雇用の創出が必要となります。仮に、1人の人件費を年300万円とした場
    合、1万人で300億円となります。民間ベースで考えますと、この他に、償却資産の
    償却費、借入金の金利、その他の諸経費を消化したうえに、利潤を見込みますので、
    少なくとも年1,000億円の荒利益(粗付加価値)が確保されなければなりません。
    再生産を保証する基本的な条件です。
     現在の日本で、しかも、軟弱地盤の山陰の埋立て地を活用して、合計で年間1,000
    億円の荒利益を新しく生み出す業種があるでしょうか。疑問と言わざるをえません。
     ちなみに、年1,000億円の荒利益というのは、宍道湖の漁師さん達の水揚げが、年
    間30~40億といわれていますので、その約30倍の生産力に匹敵するものです。
     第二に、百歩譲って、十分な雇用の創出がなされ、3~4万人のニュータウンが可
    能になった場合のことも考えてみましょう。 
     この場合でも、地域経済にとって必ずしもいい結果になるとは言えません。島根県
    の場合、それでなくても、石見部から出雲部への人口の流出があり、中山間地域から
    都市部への人口の流出があります。松江に大規模なニュータウンができた場合、この
    流れは加速され、それぞれの地域で過疎の問題がより深刻な形で生じてくるでしょ
    う。
     更には、松江市の中でも、現在さびれきっている旧市街地の空洞化が加速されるお
    それがあります。
     地域の振興は、単に特定の地域だけがよくなればよいというのではいけません。県  
    全体のバランスのとれた発展、あるいは松江市全体の調和のとれた発展こそ目指すべ
    きであり、バランスが極端にくずれ、ひずみが大きくなると、結局は松江市自身にマ
    イナスとなってはねかえってくることになります。豊かさを求めた結果が、かえって
    住みにくいみすぼらしい街になってしまうおそれがあります。
     第三に、根本的な問題について考えてみます。島根は貧しい、遅れている、なんと
    か東京などの先進地域に追いつかなければいけない、そのためには、地域経済の活性
    化を図らなければいけない。 −これが開発推進をとなえる人達の言い分のようです
    が、本当に島根はそんなに貧しく悪い県なのでしょうか。
     経済企画庁は、毎年、生活の豊かさを総合的にとらえる目安として、「豊かさ指
    標」というものを作成しています。今年の分は、この5月1日に公表されています。
    これは、「住む」、「働く」、「育てる」、「いやす」、「遊ぶ」等の8つの項目に
    分けて、全国の都道府県をランク付けしたものです。
     島根について見てみますと、「費やす」が40位、「遊ぶ」が30位と下位にランク
    されているものの、「いやす」では3位、「交わる」では4位、「育てる」では5位に
    ランクされるなど、総体的に見て悪いどころか、「豊かさ」という観点からすると全
    国でも上位の県に位置しています。
     反面、東京はどうか見てみますと、「費やす」と「遊ぶ」で、1位にランクされて
    いるものの、「住む」では最下位の47位、「育てる」では44位、「安心・安全」で
    は42位にランクされるなど、総体的に見て決して良い評価がなされていません。
     今一度、本当の豊かさとは何か、改めて考えてみたいものです。
  (2)  財政負担回避のため、 −『干拓事業を中止とした場合、島根県は国に対して、
    300億円ほどのお金を返さなければならない。干拓事業を完成させれば、返さなくて
    もすむので、県の財政負担の上からいっても、ぜひとも干陸しなければならない。』
       −はたして、そうでしょうか。以下、吟味してみます。
     第一に、本筋論から申します。事業に着手したものの、社会情勢の大幅な変更によ
    り、農業政策が変わってきました。当初考えられていたような干拓をして、米を増産
    する必要がなくなったのです。農業政策が変わったわけであり(減反政策)、政策に
    ついての責任は島根県にあるのではなく、国にあるわけで、支出済みの事業費は当
    然、国が負担すべきものです。これが本筋論の一つです。
     今一つの本筋論は、現在、全面干陸を打ち出している松江商工会議所が7年前に公
    式に表明した見解です。現在でも変わってはいないでしょう。つまり、同会議所は、
    必要のなくなった淡水化とか干拓事業をまず中止すべきであって、財政の問題は後か
    らしかるべく考えればよい、と明言していたのです。全面干陸をする理由に、既支出
    済分についての財政負担の問題を持ち出すべきではないと言っていました。筋が通っ
    ています。
     第二に、諸般の事情から最悪の場合、島根県が事業費の一部を負担することになっ
    たとしても、それを回避するために、当面必要性の認められない干陸をすべきではあ
    りません。なぜなら、(注5)の(3)で申し述べましたように、干陸を強行した場合
    には、かえって、県の財政により大きな禍根が残る可能性があるからです。
     第三に、すでに支出した事業費を誰が負担するかという問題は、よく考えてみる
    と、国が負担するのか、あるいは県が負担するのかということであって、いずれにせ
    よ、国民の税金によってなされるものです。
     確かに、300億円は大きな金額です。しかし、かけがえのない国民の宝ともいう
    べき本庄の海を破壊する代償としては、余りに小さいものと言わなければなりませ
    ん。これは、冷静になって考えればよく分かることです。私達の命を支えてくれるお
    米をつくるためにやむなく海を干し上げるというのならともかく、300億円程のお金
    の為に、本庄の海を売り渡すことができるでしょうか。

 (注7)P35 ロバート・ラトクリフ.「日本の面影の破壊」(「そうけん情報−特別号」
 特集;中海本庄工区の問題−干陸の是非を問う− 財団法人島根総合研究所刊、所収)


「国引き神話」
意宇(おう)と(なづ)くる所以(ゆゑ)は、國引き(ま)しし八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)、(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲の國は、狹布(さぬの)の稚國(わかくに)なるかも。初國(はつくに)(ちさ)く作らせり。(かれ)、作り縫はな」と(の)りたまひて、「栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼(みさき)を、國の(あまり)ありやと見れば、國の餘あり」と(の)りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)(鰓) (つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(幡薄)穗振(ほふ)り別けて、三身(みつより)の綱打ち(か)けて、霜邀覦婆躇婆(しもつづらくるやくるや)(繰るや繰るや)に、河船(かわふね)の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來(くにこ)」と引き(き)縫へる國は、去豆(こづ)の折絶(たえ)よりして、八穗米支豆支(ほしねきづき)(杵築)の御埼(みさき)なり。かくて(かた)め立てし加志(かし)(杭)は、石見國と出雲國との(さかひ)なる、名は佐比賣(さひめ)山、是なり。亦、持ち引ける綱は、(その)の長濱、是なり。亦、北門(きたど)の佐伎(さき)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と(の)りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(ほ)振り別けて、三身(みつより)の綱打ち(か)けて、霜邀覦婆躇婆(しもつづらくるやくるや)に、河船の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來(くにこ)」と引き(き)縫へる國は、多久(たく)の折絶(たえ)よりして、狹田(さだ)の國、是なり。亦、「北門(きたど)の良波(よなみ)の國を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と(の)りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(ほ)振り別けて、三身(みつより)の綱打ち(か)けて、霜邀覦婆躇婆(しもつづらくるやくるや)に、河船の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來(くにこ)」と引き(き)縫へる國は、宇波(うなみ)の折絶(たえ)よりして、闇見(くらみ)の國、是なり。亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(みさき)を、國の餘ありやと見れば、國の餘あり」と(の)りたまひて、童女(をとめ)の胸鉏(むねすき)取らして、大魚(おふを)の支太(きだ)(つ)き別けて、波多須々支(はたすすき)(ほ)振り別けて、三身(みつより)の綱打ち(か)けて、霜邀覦婆躇婆(しもつづらくるやくるや)に、河船の毛曾呂毛曾呂(もそろもそろ)に、「國來(くにこ)、國來(くにこ)」と引き(き)縫へる國は、三穗(みほ)の埼なり。持ち引ける綱は、夜見嶋(よみのしま)なり。固堅(かた)め立てし加志(かし)は、伯耆國(ははきのくに)なる火神岳(ひのかみのたけ)、是なり。「今は國引き(を)へつ」と(の)りたまひて、意宇杜(おうもり)に御杖(みつえ)(つ)き立てて、「意惠」(おゑ)と(の)りたまひき。(かれ)、意宇(おう)と云う。
(い)はゆる意宇杜(おうのもり)は郡家(ぐうけ)の東北の(ほとり)、田の中にある(こやま)、是なり。(めぐり)八歩(ばか)り、其の上に木ありて茂れり。
「朝酌の渡り」
朝酌促戸渡(あさくみのせとのわたり)。東に通道(かよひぢ)あり、西には平原(はら)あり、中央(まなか)は(わたり)なり。則ち(うへ)を東西(よも)に(わた)す。春秋に入出(いでい)る大き(ち)さき(くさぐさ)の魚、臨時(とき)として筌の(ほとり)に來湊(あつま)りて、馬騃(おどろきはね)て、風のごとく(お)し、水のごとく(つ)き、或るは筌を破壊(やぶ)り、或るは日魚(ひを)と(な)りて鳥に(と)らる。大き(ち)さき(くさぐさ)の魚にて、濱譟(さわ)がしく、家闐(にぎは)ひ、市人(いちびと)(よも)より(つど)い、自然(おのづから)に(いちくら)を成せり。 
茲より東に入り、大井濱に至るまでの間の南北二つの濱は、並びに白魚(しらを)を捕り、水深し。
朝酌渡(あさくみのわたり)。廣さ八十歩(ばかり)あり。國廳(くにのまつりごとのや)よ海邊(うみべ)に通ふ道なり。大井濱。則ち海鼠(こ)・海松(みる)あり。又、陶器(すゑのもの)を造れり。
邑美冷水(おふみのしみづ)。東西北は山にして並びに嵯峨(さが)しく、南は海にして澶漫(ひろ)がり、中央(まなか)には(かた)あり、覽磷々(いづみきよ)し。男も女も、老いたるも(わか)きも、時々(よりより)に(むらが)り(つど)ひて、常に燕會(うたげ)する(ところ)なり。
               『出雲国風土記』 −加藤義成校注より。


「万葉集」より
飫宇(おう)の海の 川原の千鳥
        汝(な)が鳴けば
     吾が佐保河の 思ほゆらくに ( 371 )
                          門部王(かどべのおほきみ)

もののふの八十(やそ)乙女らが
        汲(く)みまがふ
     寺井の上の 堅香子(かたかご)の花 ( 4143 )  
                        大伴家持(おほとものやかもち)

あしひきの山の木末(こぬれ)の
        寄生(ほよ)取りて
     かざしつらくは 千歳寿(ちとせほ)くとそ ( 4136 )      
                        大伴家持(おほとものやかもち)

直(ただ)の会ひは あひかつましじ
        石川に
     雲立ち渡れ 見つつ偲はむ ( 225 ) 
                         依羅娘子(よさみのいらつめ)

みもろの 神名備山(かむなびやま)に 五百枝(いほえ)さし
繁(しじ)に生ひたる つがの木の いや継ぎ継ぎに
玉かづら 絶ゆることなく ありつつも やまず通はむ
明日香の 旧き都は 山高み 川雄大(とほしろ)し
春の日は 山し見がほし 秋の夜は 川し清(さや)けし
朝雲に 鶴(たづ)は乱れ 夕霧に 河蝦(かはづ)はさわく
見るごとに 音(ね)のみし泣かゆ いにしへ思へば ( 324 )
                         山部赤人(やまべのあかひと)

              (  )の数字は「国歌大観」の番号です。   

               − あとがき −
 本稿は、モラロジー「麗松会」主催の講演会(平成7年5月12日7:30PM〜9:45PM、於;松江生涯学習センター)で話した内容をベースに加筆訂正したものです。
 本庄工区問題についての私の考え方は、本文及び(注5)と(注6)で述べました。当然、異論のある方もおありでしょう。これを一つのタタキ台として、地域の皆さんの間で、賛成とか反対とかの議論が活発になされることを望んでいます。筑紫哲也さんのテレビ番組ではありませんが、「異論、反論、オブジェクション」をお受けいたします。特に、全面干陸を主張されている方々には、地域社会にとってプラスになるというのであれば、何故そうなのか、具体的に計数的なデータをもって、反論されることを期待しています。
                              (平成7年5月23日記) 
本庄工区問題をめぐって
文化の街 −松江−
発行日 1995年6月22日
著者   山 根 治
発行所  財団法人 島根総合研究所
     〒690  島根県松江市東本町5丁目16-9
         山根ビル1F
         TEL (0852)27-5679
          FAX (0852)27-6503 
印刷   有限会社 黒 潮 社 

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