Riga_-_Latvia

「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。山根治ブログ 2022年4月28日号(http://yamaneosamu.blog.jp/archives/13759811.html)から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
コメント・メール(46)です。

 山根治さま

 再びゾルゲに立ち戻って、彼の経歴を探求するため、この件に関し最も深堀りをしていた、皇室情報を参照するならば、舎人栗原説の核心部分に、興味深いヒントが散見します。そこにノーベル兄弟が、プロテスタントだのに、バチカンの姿まで登場して、西欧史の謎の露頭が現れ、私の好奇心を掻き立てて、この問題に深入りさせました。
 「・・・第二インターナショナルを主導した、ドイツ社会民主党が、ハンブルクで強い支持を受けるのは、プロテスタントが多数を占める土地柄からくる、というのが通説である。
 それと対照的な地域性を有するのが、内陸南部に位置するミュンヘン市で、多数を占めるカトリック教徒が、世界各国と大学ネットワークを通じて、枢軸を形成しているが、その中心にあるのが、イエズス会の存在である。
 稱吉がドイツに入った翌一八九〇年には、後藤新平がドイツに留学し、二年間滞在していた。帰国して長与専斎の推薦で、内務省衛生局長に就任したことは、前記している。
 帝政ロシアの辺境に位置し、カスピ海を臨むアゼルバイジャンの首都、バクーとドイツの首都ベルリンを結ぶ、当時の路線はごく限られた、一部の人間のみぞ知るいわば【けものみち】であって、ノーベル社に雇われていた、鉱山技師すなわち「山師」を名乗るゾルゲの父が、これを往還したのも故なしとしない。・・・」

 ベルリン五輪大会の時に、試みられた聖火リレーが、アテネ、ソフィア、ベルグラード、ブダペスト、ウイーン、プラハ、ベルリンのコースであり、これが山師の「獣道」です。バルバロッサ作戦では、機動師団の進路として、ドイツ軍は国境から東進し、ポーランドに侵攻して、ソ連に雪崩れ込んだのは、軍事作戦における大通りです。
 半世紀昔の1960年代に、博士課程で学んでいた頃は、パリの三井物産に頼まれ、資源開発の顧問として、日本からの視察団を案内し、西欧の炭田とダムを訪れました。スキタイや蒙古族から、ナポレオンや世界大戦で、ハートランドの戦いでは、丘陵地帯が戦場であり、日ロ戦争の旅順でも、203高地の争奪戦は墓場でした。
 1960年代の日本経済は、エネルギー源は石炭で、大型ダム工事で賑わい、高速道路の建設が始まり、先進技術を学ぶために、訪欧した視察団を案内し、自動車を運転したものです。炭田がある砂岩地帯は、丘陵地形で古戦場が多く、ダムは渓谷に位置する戦場も、兵用地誌を学ぶ上で、格好の修行の場であり、土地を読む目が肥えました。
 学位を獲た後の仕事は、水のシンクタンク員で、サウジの国土開発に従事し、そこで石油の価値を学び、水から石油に転じて、壮年期はオイルマン人生でした。石油産業の発展史は、拝火教の本拠地である、バクー油田から始まって、その権益に目を付けたのが、カザール人の末裔に属す、アシュケナジと共に、バイキングの子孫の北欧人です。
 パリのロスチャイルド家は、アシュケナジ出身だし、ノーベル兄弟はスエーデン人で、バクーで稼いだ資産を、ロンドンのロスチャイルドに売り、シェル石油が誕生しました。その間に英蘭のユダヤ人と、王室が複雑に結びついて、米国のロックフェラーを相手に、石油覇権を争う物語は、二十世紀を帝国主義が、君臨する上での大絵巻です。
 さて、ゾルゲ事件に戻りますと、ゾルゲが尾崎に会ったのは、コメント・メール(45)に書いた通り、1930年末から一年余りで、ゾルゲはスパイだったが、尾崎は朝日の特派員でした。ゾルゲの上海での任務は、軍事情報の収集と共に、経済に詳しい新聞記者として、紅軍向けの武器調達にも、関与しているドイツ人でした。
 当時の上海は蒋介石軍と、周恩来の紅軍諜報機関が、合作状態で共存しており、尾崎は反戦平和の立場で、軍国日本の姿勢に眉を顰める、特派員だったようですね。上海のゾルゲに関しては、学問的な考証が必要であり、それを行っていた人は少ないが、特筆に値する仕事には、『ゾルゲ事件』や『情報戦と現代史』を書いた、加藤哲郎一橋大教授がいます。

  ゾンテルのペンネームで書いた、ゾルゲの『新ドイツ帝国主義』の中で、ドイツには米国資本が流入して、復活した資本主義により、トロッキーやグラムシが言う、「フォーディズム」との指摘がある。ローザ・ルクセンブルクの思想で、マルクス主義を学んだゾルゲは、コミンテルンから派遣され、上海で工作を始めたと、加藤哲郎一橋大学教授は指摘します。
 しかも、ドイツ帝国主義は第一次大戦で、打ちのめされたために、欧米先進各国と対等に競争して、植民地へ進出できないが、アジアには進出ができ、その拠点が上海だったのです。そこで、ドイツの商品輸出の場として、中国を次の大市場に位置づけ、上海はドイツ帝国主義には、新しい生命線になり 第二次上海事件は日独戦争という、私の仮説が誕生したのです。
 また、コミンテルンが指導した、国際共産主義運動では、世界工作の重要な拠点として、あらゆる民族が結集する、特にウクライナ人が多い、米国の役割が重要でした。ソビエト革命の主役を演じ、共産主義体制を作った、アシュケナジの魔手を逃れ、米国に大量移住したのは、ロシアとウクライナ出身者だし、それがウクライナ戦争の今に、緊密に結び付いているのです。
 それは『VENONA』文書を始め、『ミトローキン文書』 を読んで、歴史の闇に迫ることですが、歴史感覚に乏しい上に、感情的な反応しかできない、日本人にはとても無理です。世界のネオナチを集めて、カザール王国の祖地である、ウクライナのナチ化を目指す、迷俳優ゼレンスキー演説に、拍手喝采した手合いが、国会議員の国には無理な話です。

http://netizen.html.xdomain.jp/home.html
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