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「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。山根治ブログ 2022年5月27日号(http://yamaneosamu.blog.jp/archives/14153718.html)から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
コメント・メール(52)です

 山根治さま

 貴公開メールの(57)に、テレ朝の三浦甲子二が、ソ連のスパイだったとあり、彼にはムーヒンのコード名まで、あったことを指摘され、文春の有森隆の名もありました。私は有森は知らないが、三浦甲子二に関しては、臭い男だと感じたので、彼の出自について調査し、知っている人に当たり、聞いた情報に関しては、『朝日と読売の火ダルマ時代』に、次の記事が残っています。
 
 「・・・F 朝日新聞の歴史を調べていた過程で、組織を内部から蝕む病理の問題として、朝日の政治部からテレビ朝日に、行った人物が浮かび、それについて調べる必要が生まれました。問題の人物はご存じの三浦甲子二であり、政治的なフィクサー役を演じたのですが、知られていることが意外に少ないので、先輩の立場で彼についてご存じの事柄について、今日はお話を聞かせて頂きたいのです。

 Z 三浦は秋田県の出身だと称していたが、実は長崎県の出身だと言うべきらしく、日本精工の社長の今里広記の遠縁の男で、自民党の代議士をしていた男がいて、彼が赤坂の芸者に生ませたのが三浦でした。

 F 今里は財界の突撃隊長と言われた男で、開発銀行総裁になった、小林中の子分として、財界資源派に属す便利屋だし、田中角栄を担ぎ回った利権屋です。それにしても、今里と三浦が親戚関係というのは、小林中の番町会と時事通信の組合せもあり、武藤山治との兼ね合いから、奇妙な因縁です。

 Z あなたが石油の本を出したのが時事通信社で、敵対的なコネクションを持っている点からして、番町会の小林が今里に関係した延長上に、三浦が位置するのは確かに因縁でしょう。それはともかく、三浦は血筋が梟雄の系列に属し、中曽根の先輩として、和歌山県から代議士になり、衆議院議長になった山口喜久一郎が、三浦の父親と親しくつき合っていました。そして、山口が三浦に「君は今里の親と芸者が実の両親だよ」と言っていたが、この三浦がどういうコネを使ったのか、朝日新聞に臨時雇いで発送係で入り、そのうちに社員になったのです。

 F 最初から社員で入社したのではなく、臨時雇いというのは、河野一郎と似ているが、それでどうして編集に移ったのですか。

 Z とても編集をやれる人物ではなかったのに、組合の関係で広岡が、取り立ててやったのでして、そこに三浦の奇妙な役割がありました。

 F 新聞社は情報で勝負する世界だから、編集がエリート意識を持って発言力が強く、現場や工場側が低く見られていますね。編集と現場の間の壁が高いといわれるのに、三浦はその壁を乗り越える才覚を持ち、記者になった理由は何ですか?

 Z 確かに、新聞はペンと頭で作る意識が強いから、印刷や発送を含めて販売などの営業は、職人の仕事として、低く見られていますね。だが、労働者として平等だという組合の発想ではこの壁が原則として無いと考えられるので、発送係で入社した三浦が工場を代表して、現場の側から書記長になった時に、編集を代表した広岡が委員長でした。

 だから、委員長と書記長のコンビといっても、広岡委員長は背広とネクタイの姿だが書記長は労働衣だった、という結びつきです。また、三浦は当局側から組合に送りこまれた、一種の犬だという噂もあったが、当時の朝日には組合が幾つもあって、会社が組合にカネをばら撒き、買収工作をする時に、それを担当したのが便利屋の三浦でした。組合対策の裏取引をやったのが三浦であり、彼は汚れ役がピッタリの男だったのです。

 F その頃は誰が社長だったのですか?

 Z 戦後の民主化運動で村山社長が退任して、長谷部が社長になった頃だと思う。だが、三浦を雇ったのは業務の関係だから、長谷部には何の責任もないだろうし、その後の美土路社長も無関係です。多分、外部の誰かの口利きでの入社でしょう。結局は組合のルートで書記長になったが、広岡は汚いことを自分でやる男ではないし、エリートとしては、そんなことは出来ないから、汚れ役を三浦が買って出て恩を売った。そんなことから、広岡は三浦に借りが出来て、要望を聞いてやる関係になったので、発送係の男を編集に入れてやり、長野支局員に記者として出すことになる。その時の長野県警本部長が、原文兵衛だったから、原との関係で警察方面に強くなり、その後に原は警視総監に出世したので、そのコネが三浦の財産になるわけです。

 F 警察との関係が出来たということは、暴力団や裏の世界と結びつくわけだし、中曽根が警察官僚出身の政治家だから、至ってスムーズに結びつきが考えられますね。しかも、中曽根は児玉誉士夫の舎弟でもあるから、フィクサー人脈を築く足場の確保になる。

 Z その前に未だ幾つかの段階がありまして、長野支局の次に横浜支局に移ったのであり、その時に小田原が地盤の河野一郎に接近した。2人は同じ朝日の出身だというわけで、そのコネを使って使い走りをするようになる。共に裏の世界に深い関係を持つから、河野の子分の中曽根に繋がって行き、肩で風を切るようになったのです。

 F パターンとしては大野伴睦に接近して、裏の世界に深く結びついて出世した、読売の渡辺恒雄に良く似ているし、繋ぎ目に共通して、児玉と中曽根がいます。そこに戦後史で政治家とメディアが、裏の世界で結ぶ典型的な人脈が浮かび上がって来ますね。

 Z 三浦は相手の弱みに、食い込む特技があり、彼の交際費は編集からは広岡に出させ、営業からは永井大三の機密費を使ったから、三浦は銀座で若い者を連れて遊び歩き、派手なことを平然とやっていました。この永井は片目の永井と言う販売の名人で、読売の務台か朝日の永井かと並び称された、営業畑では神話的な大御所だった。三浦は元来は業務の仕事に雇われていたから、この永井にも取り入ることをしていたんですな。

 F 新聞はインテリが書いてヤクザが売ると言うし、組合活動の裏面に精通していたので、三浦は忍者組で出世した男だと言えますね。

 Z だから、朝日では編集と業務に、吸いついたわけだが、政界では河野一郎と藤山愛一郎に食らいつき、隠然とした力を築いて行きました。また、広岡は紳士だから汚いことに手は出さなかったが、その代わりに三浦が汚れ役を引き受けたので、広岡の存在が三浦の暗躍のバックに利用されたし、広岡は社長になり社主事件を片付けたのです。しかも、政治部長は一種の愧儡政権になり、三浦は平部員だのに政治部の人事を取りしきり、その頃の天野歓三や柴田俊男などの部長は、三浦の政治力に操られた愧儡だった。

 F 人事は人事部がやるのではありませんか?

 Z そうじゃない。人事部は辞令を出す仕事をしただけで、決めるのは部長とそれを動かす人物であり、その中には局長や重役も含まれている。だから、広岡や永井に取り入った三浦は、社主の村山家にも出入りしたので、ボタンの押し方を心得ていました。

 F 社主と社長の両方に裏で繋がって、フィクサーとして動いたと予想されるが、その背後に河野一郎の影が、見え隠れしていますね。

 Z 40年以上も昔の話になるが、村山家の次女が、運転手と駆け落ちした時に、三浦が運転手の所から、お嬢さんを連れ戻して、村山家に恩を売ったことがある。だから、彼は社内の全方向に顔が利いたから、出世したいと思う者は、三浦に擦り寄り、愧儡政権の部長も引いて貰おうとした。あの頃は真面目な記者で、辞めた人も大分います。

 F あれだけ大きな社主事件が、背後にあったので、色んな暗躍や謀略が行われたのでしょう。それを利用したのが、三浦のような人間で、そのせいで朝日の路線が歪んだのだろうし、それを隠したが故に、無理が蓄積したはずです。

 Z そんなことで、組織が動揺した隙を狙って、親ソ派とか親北京派が突出したのだし、情実人事と派閥争いが著しくなった。その流れの中で、一柳や中江という社長人事が、利権人脈の亜流として、浮上したのだから、朝日のOBたちは嘆き合ったものです。一般に、朝日新聞の歴史を論じる人の多くは、社主派と社長派の抗争について注目するが、目に見えない裏人脈が存在していて、これは三浦のような形で裏の世界と繋がり、なかなか姿を捉えるのが、難しいから見えない。また、知っている者は口を噤んで言わないのは、同和や天皇制のように、タブーが絡めば、日本では問題にするのが、非常に難しいから、これ以上は出てこないでしょうな。

 F ロッキード事件、グリコ森永事件、リクルート事件、佐川急便事件などの一連の件が、迷宮入りでウヤムヤになったのと同じで、この問題の解明は21世紀まで待たないと、何も分からないということでしょうか?   

 Z 21世紀の松本清張が登場すれば、原稿を書く能力がないのに、政治次長になったり部長にもならずに子会社のテレ朝に追放され、一生をフィクサーで終わった男の謎が、解明されるかも知れませんよ。


 あの頃は執念だったのか、私は三浦について調べ、モスクワ五輪に関しては、別の人からも話を聞き出し、それも対談の形式で、同じ本に記録があるのは、ソ連崩壊の影響かも知れません。当時の私は瀬島龍三が、ソ連のスパイだと考え、それを追っていたこともあり、三浦に注目したために、聞き込み調査したらしく、無駄な努力をしたものです。

 「F 朝日新聞のフィクサー記者の三浦が、テレビ朝日に移ってから、派手に動いていたことは、モスクワ五輪の独占放映権の入手で証明され、メディアでは注目を集めたそうですね。朝日新聞のOBの話によると、三浦は追放されて、今のテレビ朝日に都落ちしたそうですが、その辺の事情はどうだったのですか。

 Y 彼が移った頃は未だNET(日本教育テレビ)と言って、旺文社の赤尾好夫や東映の大川博などの経営者が、教育テレビの経営権を支配していた。ところが、NETの報道部を廃止する計画で、反対闘争が起きた時に、労働組合を潰すために、三浦が送りこまれ、報道本部長として、組合幹部の切り崩しをやった。それに続き報道部門を朝日新聞が引き受け、更に、大川や赤尾と喧嘩して、支配権を奪った朝日は、九州アサヒ放送の高野信を社長に据え、植民地化をしたのです。

 F それは朝日が労働組合対策に使いまくった、三浦を裏工作に活用したやり方です。それで三浦は、親会社に恩を売った形になり、テレ朝の法王として君臨したのですね。

 Y テレ朝で常務と専務をやったわけだが、三浦が仕切った頃の社長全員が、愧儡だと言われた背景には、実に異様といえる政治力があったのです。政界に食い込んでドロドロしたことをやり、実際に人事を握る能力は絶大だったし、河野一郎の後を継いだ中曽根と結んで、三浦は児玉誉士夫の人脈を使っていました。

 F 日本の闇の帝王の人脈を権力支配に使って、裏側から政治を動かした独特な手口は、中曽根の出世のパターンと共通ですね。

 Y 児玉の子分の『政界往来』の恩田貢と組んで、インチキ布団で問題を起こした男と一緒に、アントニオ猪木のスポーツ政治連盟とか、色んな形で政治工作をやっていたが、要するに、児玉の代理人をやろうとしました。だから、インチキ右翼の四元義隆や読売の渡辺と共に、中曽根の政治指南役をしていたし、色んな利権を動かす仲介をしてました。特にソ連関係の利権にとても強かったので、KGBのエージェントだと噂されたし、今里広記との独特な結びつきがあり、それがモスクワ五輪の独占契約の背景にあった。彼がテレ朝の専務だった時に、二つの秘密アジトを持ち、一つは榎坂にあるマンションであり、もう一つは六本木のテレビ朝日通りにあった、金谷マンションの11階の事務所です。彼は田原総一朗のデビューの面倒をみたり、電通と組んで、情報操作などもやっていたが、独裁専横が余りにも目立ち過ぎたので、朝日新聞は社会部長から編集局長をやった、田代喜久雄専務をテレ朝に送りこんだ。そして、2年間の時間をかけて、最終的には彼を孤立させ、三浦の権限を剥奪したのです。


 過去20年間も酷かったが、世紀末頃も支離滅裂で、日本は亡国に突き進み、社会は溶融状態になって、閉塞感が濃厚であるが、実に情けない限りだのに、国民には危機感がありません。また、これ以上こんな男の話は、論じても時間の無駄で、安倍の無能と同類だから、これで打ち切ることにして、もう少し時事問題に関わる、事柄に話題を移しましょう。

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