Scuola di Atene

「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。山根治ブログ 2023年1月5日号http://yamaneosamu.blog.jp/archives/17395287.html)から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
コメント・メール(67)です。
 山根治さま

 緊急公開した『安倍晋三の射殺と三代の腐れ縁』に対し、高評して頂き有難うございます。緊急出版をした理由は、以下の梗概の抜粋に書いた通りで、安倍内閣を引き継いだ岸田政権が余りに酷すぎるからでした。

 「・・・岸田内閣の暴走があまりにも酷くて、売国政治の現状は安倍内閣に匹敵するし、もはや国賊だというしかない状態を呈すが、それを実証的に糾弾する言論が国内に不在だ。それは同調圧力が強く働き、批判の声は抹殺されて、ニュースピークに置き換えられ、George Orwellの『1984年』の世界が君臨することにより、国民の言論の自由は制圧されたからだ。
 カルトに蝕まれヘドロ化したゾンビ政治は、蔓延したカビに覆われ異常発酵で黴菌の温床になり果ててしまい、腐敗紊乱の現状を描くのが憚れるほど、無惨な状態を呈している。それを亡国現象と名付けるほどに、日本の現状は悲惨な状況であり、もはや国として態をなさない状態を呈し、魑魅魍魎に食い荒らされた惨状は、悲劇的だとしか形容ができない。
 ごみ溜めや『タン壺』の中にいる限り、その臭気や汚れには気づかないものだが、一歩離れた「離見の見」の地から見れば、霊感商法で売りつけた統一教会の壺は、実は「タン壺」だと分かるのだ。日本の昔話に温泉に入ったと思ったら、「肥え溜」の中だったという話があるが、霊魂に誑かされた愚か者の物語の教訓には、ゾンビ政治が到達する究極のVirtueが潜んでいる。・・・」

 
 安倍のゾンビ内閣の酷さは『国賊を国葬した国』で総括し、徹底的に書いたつもりでしたが、ノー天気の日本人は黙殺をして、アマゾンの書評もゼロで、関心を示す気力もありません。そこで安倍三代とカルトの癒着が如何に日本をダメにし、反日カルトによる日本乗っ取り工作が行われ亡国を招いたかに関し、遠近法を使い歴史分析した次第です。
 学問は総合的な思想体系であり、社会学、心理学、政治学、経済学、人類学、宗教学、美学、数理哲学、幾何学など、いわゆる自由七科の総合です。だが、現代は余りにも知識偏重になって、アカデミーやジャーナリズムが専門化し深堀りする余り、日本人は大局観より微視感覚に慣れ親しみ、知識や数字の羅列を評価し、全体像を論じることに違和感を抱き、嫌悪し無視する傾向があります。
 
 だから、細部にこだわる科学特有の傾向で、部分に集中して知識の精緻を誇るが、これは現代病の一種かも知れず、それがルネッサンス人不在の理由です。それが私を日本のメディアが歓迎しない原因であり、本の出版を忌避されたり出ても黙殺と冷笑で迎えられ、書評の皆無が数十年も続きました。

 私は「アテネの学堂」が好きでラファエロの気分になり、本を書きたいといつも思い、奥行きのある遠景の中に近景を象徴的に散在させ、全体をメタファーで包み込み、読者の頭の中に浮かぶ像が「生きた象」になるように工夫します。私が愛読し手本にしている著者には、プラトン、ゲーテ、ニーチェ、マックス・ウェーバー、トインビー、ブロデール、AJPテーラー、ラカンなどがいます。

 彼らの本は一度全著作を読み、思想の全体像を理解した上で、二度目や三度目と読み返して、再びその一冊を読んだ時になって、味わいが分かるタイプの著者です。その愛読はフランスに留学した時に、叩き込まれた読書法であり、私も手本を真似て執筆し、編集者からは分かりやすく書いて、なぜ読者に喜ばれないのか、と文句を言われ続けてきました。

 それにしても、部分を幾ら細かく観察しても、象牙や革製品の傑作は作れるが、それは職人芸の世界で終わり、生きた像の全体は捉えられず、生命体は描けないと学びました。一言でいえば「群盲象を撫でる」の教訓で、日本で出ている本に共通である、欠陥への回避策なのでしょうか。

 さて、貴信の公開メール(79)の記事に、チョムスキーのことが書いてあり、懐かしい気持に包まれて読んだ理由は、彼について以下のことを書き、博士の仕事と成果を論じています。ただ、リニア的な統語法ではなく、同じ構造論を展開しているが、フランスに留学した時にド・ソシュールを学んだので、意味論を叩き込まれたから、私はミンスキー学派に属しています。

 「『ゾンビ政治の解体新書』に書いたが、言語学には二つの系統があって、チョムスキー派は統語学派でデカルトの流れに従い、論理を構築して文体を切り分ける。これは分析する手法を使い、数理的な理論展開を軸に全体の意味を理解する、リニア方式に基づいて組み立てるやり方であり、伝統的な西欧思考の主流である。

 もう一つはミンスキー学派で、これは意味論学派を構成し、文脈を理解し全体を捉えて理解するアプローチは、意味に重点が置かれており、これはゲシュタルト的である。私は藤井尚治先生とポアンカレに学び、この派の尻尾に連なっており、ヨーロッパで通用する議論がやれる人間として、辛うじて一人前になっていた。・・・」


 私の友人のスチュアートはアメリカ人で、チョムスキーの弟子の新聞記者だが、彼が休暇で帰米して恩師を訪ねた時に、私の『Japan’s Zombie Politics』を手渡し、こんなことを言ったそうである。「これは日本のチョムスキーの本で、献辞を書いて貰いましたよ」という言葉に、このMITの反骨のご隠居が、「太平洋の向こう側にも、ゾンビがいるとは厄介な話だな」と答えたそうだ。参考までにスチュアートと試みた、対話の記事を貼り付けておく。

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/NewLeader201204.htm

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