おはようございます。

昨日4月29日「昭和の日」は、昔の天皇誕生日。
また、「ナポリタンの日」でもあります。

ナポリタンは昭和生まれの日本を代表する洋食で、トマトケチャップなどの製造・販売を行っている創業1899(明治32)年のカゴメ株式会社(本社:愛知県名古屋市中区&東京都中央区)が「昭和の日」と同日の4月29日に記念日を制定し、一般社団法人日本記念日協会が記念日として認定。2018年のことです。ちなみに「ナポリタン」は英語だとJapanese Ketchup Spaghetti(日本のケチャップスパゲッティ)/ketchup-seasoned pasta(ケチャップの味付けをしたパスタ)です。ちなみに、ナポリタンは、1927 (昭和2)年に横浜・山下町で開業したホテルニューグランドが先の大戦後に提供したのが最初とされています。

当時、ホテルニューグランドは、1945(昭和20)年8月30日のダグラス・マッカーサーの来日直後から7年間GHQに接収されていました。そこで、進駐軍の米兵たちは持ち込んだパスタを茹でてケチャップを混ぜたものを食べていたそうです。当ホテルの二代目総料理長の入江茂忠氏がこれを見かねて、茹でたパスタに炒めたハム・ピーマン・マッシュルームを加え、生トマト・タマネギ・ニンニク・トマトペースト・オリーブオイルで作ったトマトソースで和え、完成させた料理が「スパゲティーナポリタン」の発祥。その頃はトマトソース自体を「ナポリ風」と呼んでいて、それが「ナポリタン」命名の由来のようです。しかしながら、ジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエ(Georges Auguste Escoffier:1846年10月〜1935年2月)の料理に傾倒していたといわれる初代料理長サリー・ワイル氏(Saly Weil:1897年〜 1976年)の時代に既にこのソースの原型があり、フランス料理の「スパゲティ・ナポリテーヌ」を入江氏がワイル氏から教わっていた可能性もありそうです。加えて、先の大戦中に入江氏は陸軍の厨房兵として従軍していますが、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名にヒントを得たのではないかとの説もあるようです。まあ、その辺の話は色々あって面白いですね。氏の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいませんが、7割がた茹でたパスタを冷ましてから5〜6時間放置したうえで湯通し、柔らかくするひと手間を加えることで麺のもっちりした食感を出し、親しみやすいものにしたのは入江氏の功績です。是非、ホテルニューグランドのザ・カフェでお賞味ください。
入江茂忠&Saly Weil


閑話休題(それはさておき)


蟹江一太郎

カゴメを創業した蟹江一太郎翁(1875年2月〜1971年12月)は1896(明治29)年、西南戦争(1877年)や日清戦争(1894〜95年)に従軍した歩兵第6連隊(名古屋)に入隊し3年間の兵役を務め上げます。除隊の際に上官の西山中尉より昼食の席で「これからの農業は、よくよく考えてやらんと暮らしは難しくなるばかりだ。どこの農家でも米や麦、大根や芋、人参ばかりつくっていたのではダメだ。人のやらんものを狙わなければいかん。西洋野菜などいいぞ。時代に応じた農業をやる。そうでないと農業は衰微するばかりじゃないか」(『蟹江一太郎』60頁)との助言に啓示を受け、1899(明治32)年にトマトなどの西洋野菜の栽培を始めました。

翁の生家は佐野といい、18歳の時に蟹江家の婿養子に。蟹江家は1町3反歩の田畑のほかに養蚕やみかんの栽培も行う大きな農家で、義父の蟹江甚之助氏は教養ある人物でした。「一太郎、日進月歩の今日、百姓だからといって安閑としていてはいかん。これからの農家は、よくよく考えてやってゆかないと、だんだん落ち目になってゆく。そう考えたからわしはみかんの栽培を始めたわけだが、これからは荒地を開墾して1坪でも畑を増やすとともに、野菜や果樹の栽培に力を入れることだ。米や麦だけに頼っている時代はもう過ぎたよ」(『蟹江一太郎』49頁)と諭され抱いた危機感も事業開拓のアクセルとなりました。

しかし、西洋野菜を販売するもトマトが全く売れず頭を悩ませます。しかしながら、トマトが欧米では生より加工しソースとして使われている事実を知り、1903(明治36)年にトマトソース(トマトピューレ)の製造販売を開始。1904(明治37)年、日露戦争の勃発に伴い徴兵された蟹江翁は満州各地を転戦します。途中で脚気を患い、野戦病院で生死の境をさまよったが奇跡的に命は助かり、1905(明治38)年、日露戦争の終結とともに除隊され帰国。1906(明治39)年には自宅敷地内に工場を建設し、本格的な生産をスタートさせました。村では、収穫したトマトをちゃんとした価格で買い取りさえしてくれれば、栽培したいという農家が出始めます。一方、7代続いた蟹江家の桑畑を工場に変えて加工に専念していることに対し、おとなしく農家をやっていればいいのにという近所の農家の評判には心を悩ませます。

1914(大正3)年愛知トマトソース製造合資会社を創立、工場生産に入り、農民から加工業者へと転身しました。1923(大正12)年カゴメ株式会社として社長に就任。また1928(昭和3)年、周囲に推される形で上野村村会議員に当選し、4年間つとめます。1939(昭和14)年からは県会議員として地方政治に2期8年間携わります。人目に付きやすい公務よりも裏方の仕事を好み、縁の下の力持ちとして議員の役割を全うしたそうです。1939(昭和14)年愛知県ソース工業組合理事長に就任しますが、66歳頃(1941年)に大東亜戦争がはじまると、事業を国のためのものに鞍替し敗戦までの間、軍需用の缶詰や航空機の部品などを製造することに。70歳(1945年)で、戦争終結とともに、元の食品加工を再開すべく経営再建を。翁の持っていた工場の多くは戦火を免れ、失ったのは満州と天竜工場の2つのみでした。上野工場をはじめとした工場をフル稼働させ、戦後の困難な食糧事情の改善に努めます。1957年、合衆国でトマトの栽培地や加工工場を視察、加工工場の持つ生産量と機械化の進展度に刺激され、今後のあり方を展望しました。1962(昭和37)年本社を名古屋に移し、社長職を後進に譲り、会長となりました。合衆国で学び掴んだ組織体制や工場の一切のあり方を改革した上でのことでした。

ところで、競合との競争が激化する中、42歳頃の蟹江翁は自社の商品を販売するときに商標が必要だと考えます。img_1917西山中尉とその助言の恩を忘れないために、陸軍の象徴である五芒星を商標として使いたいと願いましたが、イメージが陸軍と直結するということで許可されませんでした。このため、六角の星に改変するも「星型は認められない」という理由で却下。そこで、三角形を二つ組み合わせ六芒星にすることで、これが収穫時に使う籠を編んだときの目(籠目)印であるということで1917(大正6)年に商標登録を受けることができました。1963(昭和38)年4月1日には、社名をカゴメとし、商標は籠目のついたトマトマーク(下図左)に。1983(昭和58)年4月1日に下図中央のロゴが制定され、商標から籠目とトマトマークは姿を消します。2003年4月1日からはトマトが参加して下図右のロゴになりました。
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