クレオール【Creole】
スペイン語ではクリオーリョcriollo。クリオーリョの原義は〈育てられた人〉で,16世紀には新大陸生れの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられた。その後,この言葉は拡大解釈され,ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人,とくにスペイン人の子孫に用いられたが,イスパノ・アメリカの大部分においては,やはり新大陸生れのスペイン人を意味していた。しかし,時の経過とともに,他国出身であっても,新大陸で生まれた者,新大陸に定着した者を指す言葉としても用いられ,アフリカから連れて来られた黒人と区別するため,新大陸生れの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあった。(コトバンクより引用)
このインタヴュー記事にある「作者の国籍が文学の国籍であるというのは、実は何の必然性も根 拠もないことです。それは後からある政治的な意図をもってつくられてきたフィク ションにすぎない。料理も同じです。フランス料理とかイタリア料理とかいう名前ができたこと自体、非常に新しい。そもそも料理を国籍に帰属させなければ食文化を分類できなかったということが、フィクションの始まりなんです。」との今福龍太氏(1955年9月生)の冒頭の発言にノックアウトされました。今福氏は、アイデンティティなどをもってしてはけっして歴史も社会も文化も見られないことを喝破しています。お見事です。「ある一所にいながら『ここではないどこか』別の場所を想像してしまう現代的な感受性」(『ここではない場所 イマージュの回廊へ』岩波書店 2001年)が、「世界料理の可能性」からも伝わってきます。表現者とそれを受け取る者の関係を問い、表現が生まれた所から遠く離れた受け手に想いを馳せる視力・脳力の存在を知りました。なお、クレオール語が移動する民が正確に獲得しうる唯一の「中立言語」であったことも今福氏の著作から知りました。
世界料理宣言
世界料理の可能性
今福龍太
…… 文学や音楽、映画など今福さんが批評の対象としている分野と同様、食も社会経 済のグローバル化によって急激に変化しています。たとえば最近の世界的な料理の傾 向として、異質な食文化を取り入れながら、よりいっそう素材主義、シンプル化に向 かうという点で、料理のスタイルが非常に似てきているように思えるのですが。
今福 「世界の料理」ではなく「世界料理」と言ってみる。まずそこから始めましょ う。文学でいえば、「世界文学全集」というのは世界各国の文学の寄せ集めで、「世界」は後でとってつけた名称です。この場合あらかじめ「○○文学」というナショナ ルな文学が自明のものとして前提されている。しかし考えてみればこれは非常に不思議なことなんです。作者の国籍が文学の国籍であるというのは、実は何の必然性も根拠もないことです。それは後からある政治的な意図をもってつくられてきたフィクションにすぎない。
料理も同じです。フランス料理とかイタリア料理とかいう名前ができたこと自体、非常に新しい。そもそも料理を国籍に帰属させなければ食文化を分類できなかったとい うことが、フィクションの始まりなんです。ある国から見て、何かエキゾチックな食べ物を○○料理というカテゴリーの中に配置していく。フランス料理や中華料理は体 系的な思想をもっているけれど、その名称が実態を指しているわけではない。今まで 私たちが「○○料理」と思い込んできたものは何だったのか、それをだれも問うてこ なかった。料理とその国籍認定という行為は根本的に違うということを、まず確認しておきたい。だから既存のカテゴリーの中で○○料理がこう変わってきたというだけでは、何も見えてこない。変化というのは常に継続的に起こっているからです。今の食の渾沌的状況は、私たちが幻想的な料理体系を一つの国籍に無理やり帰属させてきたという事実を、逆に露呈しているといえる。
…… 逆にいえば既存の料理の分類自体があいまいだということですね。
今福 「中華料理」は、広東、四川、福建など地域によって全然違う。さらに中国の周辺にはそれに似た無数のバリエーションがある。それがわかっているにもかかわら ず「中華料理」と言ってしまう。西洋料理も同じで、フランス料理やイタリア料理も無数の地方料理からなっているわけでしょう。
「アメリカインディアン」には無数の部族的な文化ユニットがあるのを知っているにもかかわらず、いまだに一つの集団であるかのように「インディアン」と呼んでいる 。これはすごく暴力的なことです。私たちは近代以降、文化をカテゴライズする際に同じ落とし穴にずっと陥っているわけです。
…… ただ最初の文学の例と、食の場合は違う部分もあると思うんです。食はもっとプリミティブで、たとえば素材と密接に結びついている。
今福 そうですね。まったく同列には論じられないかもしれない。食べ物は植物も家 畜も魚もその土地の産物で、料理の体系とその土地とは密接な関係をもっているとい っていい。
しかしです。たとえばイタリア料理にトマトは欠かせない素材ですが、そのトマトはたかだか500年前の新大陸発見によってもたらされたにすぎない。だからイタリア 料理の伝統といっても、せいぜい200〜300年にすぎない。朝鮮ととうがらしの 関係も100年かそこらで、辛いキムチが伝統といえるかどうか。そこには無数の素材の出入りがあり、しかもその移植された素材が、トマトやとうがらしのようにその土地の料理の体系を根本から変えていくということが無数に起こってきたわけです。 では料理の本質とは何なのか。何もないということになりかねない。私たちには常にそうした幻想があるのです。料理の基本は素材だといっても、それは今言ったように借り物かもしれない。では調理の方法はどうか。「料理」というのは意外に新しい言葉で、そもそもどの伝統社会にも料理したもの一般を指すような概念はなかった。日本では「調」が料理を指し、また中華料理では焼く、煮る、蒸すなど火のかけ方以外に料理を表す言葉はなかった。たとえば日本料理の「割烹」という言葉は、割は切る、烹は煮るという意味です。「包丁」はもともと男性料理人のことで、いわば割は男性的原理、烹は家庭的、女性的原理を指す。いわゆる日本料理は切るを洗練、煮るを野蛮として疎外し、切るという男性原理にどんどん特化していった。日本料理のアイ デンティティをつくっていくうえで、そうしたフィクションが働いてきたということです。そういう何らかのフィクションが、世界各国の料理を形成する過程で働いてき たという可能性は十分にある。
切るというのは、つまり分節化することで、言語的分節化の論理に等しい。たとえば 今の世界的な素材志向は分節化の論理で、それが世界的な料理の傾向を支配しつつあ るとみていいのではないか。逆に、煮るという女性原理を各国料理からどう掘り起こ していくかということは、食文化の非常におもしろいテーマになると思いますね。
…… その素材志向ですが、最近の料理は素材と素材をストレートにぶつけて味わわせるような傾向がありますよね。
今福 原形がわからなくなるような形ではなく、素材が見える形でということですね 。思いがけない素材同士がぶつかっている。つまり概念としておもしろく見せるとい うことで、料理はいまや明らかに言語化しつつあるわけです。たとえばわさびと西洋の素材を合わせる。それを味覚として味わう前に、素材同士の衝突を概念としてインパクトを与えようとしている。つくる側は舌が十分に言語化しているということを想定し、それをさらにくつがえすような分節化を行った料理を見せる、つまり概念の衝突として目で味わわせる、ということです。われわれの舌は細かく分節化していて、 味を言語的な意味論の中にすっと統合させるようなやり方を学んでいる。その中で料理がつくられている。
つまり料理は、われわれの舌がいかに言語的に分節化されてきたかを見せている。お そらく皿の上にのっているものは、ぼくらの舌そのものですよ。そこに奇妙な素材が二つ並んでいるとすれば、それはぼくらの舌そのものの形になっているんです。自分のタン料理を食っているようなものだ(笑)。
…… 鏡のように、自分の舌を見ている(笑)。
今福 そうそう。実はぼくは分節化される以前の舌がどんなものだったかということ をずっと考えているんです。以前メキシコのある村に滞在したときに、日本人の感覚からすれば味覚を何ら刺激しないようなものを毎日食べ続けるという経験をした。ト ルティーヤと豆。それ以外には何もない。栄養的にはもちろん問題はないけれど、最 初は苦痛以外の何物でもなかった。それが1カ月、2カ月と経つうちに、驚いたことにある種の快感に変わってきた。そして今まで押し殺してきた別の舌が目覚めてきた 。それは「主食の舌」です。料理というのはおかずのことで、主食の舌を無視してい る!(笑)。ぼくは今主食の舌にしか関心がないんです。
なぜ人は主食というものをつくってきたのか。それは舌が主食を食べるという形でつ くられてきたからではないか。主食の舌は、おいしいかまずいか、ではない。同じものを延々食べ続けるときに働く味覚のあり方。唯物論的にいえばそれは栄養摂取でしかないけれど、そうではなく、ヒトが初めて食べ物を味わったときに感じるようなまっさらな舌のありさま。それは今、グルメの舌に隠されている。主食の舌は、少しずつ分節化していった。それには言語の影響が非常に大きい。
数年前、コメ騒動がありましたね。あのとき日本人がコメをどのように味わってきたかはっきりした。日本人はタイ米を拒絶して、今では味を細かく分類されたコメが出回っている。霜降り肉と同じ舌で米を味わっていたわけです。日本には主食としての米は存在しない。米をグルメの舌でしか味わうことができなくなっている。タイでは おそらく、米をひたすら食べ続けるという主食の舌が働いているはずです。
いかに近代、主食の舌が抑圧されてきたか。今の料理評論はおかずしか見ていない。 その評論はほかでもない舌の構造がつくっている。しかし主食の舌を含めなければ、 新しい料理論は生まれないんじゃないか。それが可能かどうかは今はわかりません。 しかし、たとえば異なる食が混ざり合うことによってグルメの舌が解体され、再び原点に戻って新たな食文化をつくり出すという可能性はあるかもしれない。それこそ2枚の舌を使って。
…… それは単にかつての栄養摂取に戻るという意味ではないですね。グルメの舌をも っているという前提のうえに出てくる、第3の舌。
今福 そういうことですね。
…… 先ほどの主食の舌とグルメの舌ですが、私たちはしばしばエスニック料理など、 ある意味ではプリミティブな料理に妙にひきつけられるところがある。それは別の舌が隠されていて、そこで常に別の文脈と接触しようとし続けているのかもしれない。
今福 まさにそうです。近代の舌は、別の舌を引っ張り出す力がなくなってしまったわけでは決してない。ぼくの経験のように、数カ月で違う舌が引っ張り出せるのです 。今の食文化論は、そのきっかけをつくることがまったくできないでいる。舌の構造を温存したまま、新しい味を受容するだけ、それを腑分けするだけではまったくつま らない。頭でっかちで、まず頭脳でそれを壊してしまう。私たちはそうした概念的な 文化とのしがらみをどこかで振り切れるはずなんです。
でも食の変化というのは、皿の上の料理だけに起こっているわけではない。ブラジル にアゼジーニャという食べ物があります。これは実は日系人がつくった「梅干し」なんですが、ブラジルには梅がない。そこで梅に味と食感が似たものを探していって、ブーゲンビリアの花の額の部分を発見した。それにブーゲンビリアの花で赤い色をつけてある。食べてみると見事に梅干しなんです。これが日系社会を超えて、ブラジル 人社会に広まっていった。人の移動が新しい食文化をつくり、土着の食を変えていく 。こうした例は無数にある。人の移動がノスタルジーを生み、それが食だけでなくさ まざまな文化をつくっていく。そうした動きが民衆レベルでものすごい勢いで起こったのが20世紀だった。
それを含めて皿の上の料理を見ないとダメなんです。今の料理評論は土俵の外で起こっているうねりとは結びついていない。料理に特化した評論が成り立つということ自体、不思議なことですよ。あんまり言うと、この特集の根幹をひっくり返しかねないですけどね(笑)。
…… いえいえ(笑)。でも異質な食の受容によって料理も確実に変わっていますね。
今福 料理が無国籍化していくこと自体は基本的には刺激的なことだと思います。ある料理に何か新しい要素が入ってきて、それが国籍では定義できないような変化を被っていく。その意味ではパシフィック・リムなどはおもしろい傾向です。ぼくは最近アメリカではパシフィック・リム系の日本料理店に入ることが多いんです。外見は日本料理店でも、中身は全然違う。パスタもあって、イタリア料理店よりおいしかったりする。そこでぼくがいいと思うのは、○○料理を食べにいくという感覚がないことです。料理を食べにいくときの変なプレッシャーを捨てている、捨てることができるというのはいいことです。普通料理を食べにいくときは、ある「構え」がある。○○ 料理を食べにいくぞという。しかし料理を食べる前に構えをしなくちゃいけないというのは、不幸なことです。頭の中にある料理体系の理想形みたいなものがあって、それが実現されているかいないかだけを求めてしまう。そのとき舌は機能せず、ただの 判定装置、測定器になっている。それは構えがあるからです。何が出るかわからなければ、舌を準備できない。それで食べたときに純粋に快楽があるかどうか。本来はそこで勝負していくべきです。無国籍料理がいいのはそこです。
…… カリフォルニアはそういう状況に近いですね。
今福 完全にそうです。その典型がスシ・バー。日本のすし屋はしきたりに恐いオヤジ、お勘定まで、プレッシャーがすごい。アメリカのスシ・バーにはそれがない。イクラとうにを交互に注文する客とか、しょうゆにわさびを山のように入れる客とか、 めちゃくちゃだけど、見ていて楽しいし、リラックスできて、しかも安い。ここでは 日本のスシ屋がいわば冒涜されているわけですが、それはぼくにとっては非常にあり がたい。
料理というのは、思想やアイデアで変わるように思うけれども、それは違う。ファッションが変わるのは、身体の組成が変わってその皮膚であるファッションが変わるからです。それと同様に、舌そのものの変化が料理を変える。アメリカでスシ・バーが はやったとすれば、それはアメリカ人の舌そのものの変化なんです。
そういうふうに考えてみると、たとえばアメリカのジャンクフードに対する見方も変わっフードてくる。アメリカ人を萎えさせるにはジャンクを取り上げればいいというくらい、ジャンクフードはアメリカ人の舌の構造と密接に結びついている。だとすればそれは単なる通俗的な食べ物ではなく、アメリカというイデオロギーの根幹と結びついているのかもしれない。食を、文化‐料理‐人の間の構造的な関係として見ていく。これも料理論展開の一つの方向だと思います。そうすると、アメリカとジャンクフードの関係は、インカ帝国の人々がコカを儀礼的に飲んでいたということと、意外 に近いのかもしれない。アメリカ文化を根っことして、そこには共通構造がつくられ てきている可能性がある。
…… 最後になりますが、世界的な料理の傾向としてイタリア料理の影響が非常に大きい。今の構造という話でいうと、イタリア料理は非常にシンプルな構造をもっていて 、素材を変えることによっていくらでも料理のバリエーションができるという特徴をもっていると思うんです。
今福 それはサッカーと同じですよ。サッカーも非常にシンプルな構造をもっているがゆえに、世界化することができたという条件が似ているのではないですか。
…… 料理とスポーツは無国籍化という点で似ていると思います。たとえばどこかの国 で修業をして、帰国してまた「プレー」をするというふうに。
今福 まさにそのことをこの前ある雑誌に書いたんです。Jリーグのガンバ大阪にエムボマという選手がいます。彼はカメルーン出身で、今回のカメルーンのW杯予選突破の立役者ですが、実はフランス国籍をもっていて、日本に来る前はずっとフランスでプレーしていた。そこでもしW杯でフランスがカメルーンと当たったら、フランス は彼を呼び返すのではないかと(笑)。だいたい今のフランス代表の選手はアラブ系や アフリカ系をはじめ旧植民地の選手ばかりで、フランス国歌さえ歌えないのです。 サッカーは構造が非常にシンプルで、世界中どこでもやれる。サッカーというシステムさえ移植すれば、選手やプレースタイルはいくらでも変換できる。いまやサッカー はナショナルな文脈をほとんど捨てて、世界に向けて流れつつあるというのが現状です。
…… 料理においては、イタリア料理の洗礼を受けることによって、世界各国の料理がよりシンプルな自由なスタイルに革新していくという経緯が見られるように思います 。伝統的な料理体系の重い殻を、イタリア料理が打ち破ったというか。
今福 抑圧を解放した。もしそうだとすれば、それはイタリア料理というナショナルなものが拡大しているのではない。食そのものに内在するシンプリシティが再発見さ れたということかもしれませんね。
聞き手:佐藤真(アルシーヴ社)
http://www.cafecreole.net/food/interview.html より転載



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