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「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。 山根治ブログ2023年8月1日号から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
冠省.   令和5年7月24日、731部隊の暗部を暴露した「悪魔の飽食」の作家・森村誠一氏がご逝去。公開メール−(103)において、島根における731部隊の暗部(注)を公表(パブリック・アナウンスメント)した直後にお亡くなりになるなんて、残念としか言いようがありません。森村誠一氏は、尊敬できる作家として安部譲二さんを知る以前から、敬意を抱いていた唯一の現代作家でした。言論の自由、憲法9条について氏と見解を共にしていた私だけに、島根における731部隊の実相について膝を交えての話し合いができなかったことが悔やまれます。誠実な人生を全うされた作家のご冥福を祈るばかりです。
(中略)
(注)島根における731部隊の暗部。23代田部長右衛門朋之と同年の従弟・田部邦之助は、731部隊の「留守名簿」のトップに記載されており、関東軍軍医中佐(昭和20年1月1日現在)の地位にある軍医将校。「留守名簿」には、田部邦之助を筆頭に、島根各地の医者が軍医将校として記載されている。これらの軍医将校は、戦後731部隊にいたことをひたすら隠し通し、多くが各地の医師会長となって医師会に君臨している。
(後略)
悪魔の飽食
森村誠一公式サイトより【著者解説 2002/8/1】
 全作品約300点中、これほど物議を醸した作品はない。関東軍第731部隊の戦争犯罪を告発したこの作品は、元隊員から提供された写真の中にインチキ写真が混入されていた。これを見分けることができず、グラビア写真に誤用したことから、マスコミに袋叩きにされ、右筋からも攻撃を受けた。
 抗議電話は鳴りつづけ、夜中、窓に投石された。仕事場のドアに赤ペンキをぶちまけられ、連日、抗議の手紙や脅迫状が配達された。右翼の街宣車が押しかけて来た。私は外出時、防弾チョッキを着た。神奈川県警が常に護衛してくれて、県外にはなるべく出ないようにと警告された。
 一時、絶版されたが、後に角川書店から復刊された。このとき、角川書店では、まず角川社長の身辺警護対策を講じたという。
 この騒動だけに限られず、『悪魔の飽食』は内外、各方面に影響を及ぼした。海外、中、台、韓、旧ソ、米、英、仏、蘭、東南ア諸国などからも多数のマスコミ、ジャーナリストが取材に訪れ、私とコーワーカーの下里正樹氏はホテルニューオータニのスィートを借りて、連日インタビューに応じた。また教科書裁判では、証人として出廷した。俳優座で演じられ、中国ではこれをベースにして映画化された。
 さらに、池辺晋一郎氏がこの作品をテーマに、混声合唱組曲「悪魔の飽食」を作曲し、「悪魔の飽食を歌う合唱団」によって全国縦断コンサート、および第2次中国公演が進行中である。いまでも私の許に内外からの取材者が訪れる。作家は作品を完成すると、次作に取りかかるために、前作を忘れようとするものであるが、この作品だけはいつまでも私をとらえて離さない。
森村誠一は『悪魔の飽食』への右翼の攻撃に一歩も退かなかった
(日刊ゲンダイDIGITAL)
【佐高信「追悼譜」】
森村誠一(2023年7月24日没 享年90)
◇ ◇ ◇
 2012年秋に私は『飲水思源』(金曜日、のちに『メディアの怪人 徳間康快と改題して講談社+α文庫)という徳間伝を出した。その出版記念会で森村は私と対談をしてくれたが、それが最後の顔合わせになった。
 経済小説の作家と評論家として知り合ったが、『悪魔の飽食』(光文社)への右翼の攻撃に対して一歩も退かなかったことが忘れられない。
 関東軍が731部隊に細菌戦の研究をさせていたことを森村は暴いたのだが、石井四郎率いるその部隊は中国人やロシア人の政治犯に人体実験をしていた。それをマルタと称してである。ハルビン郊外のその跡地に記念館めいたものが建っている。1997年に私は『石原莞爾』(講談社文庫)を書くためにそこを訪ねたが、あいにくその日は休みだった。しかし、簡単に諦めるわけにはいかない。その時、私は森村が『悪魔の飽食』で中国に絶大な信頼を得ていることを思い出した。ちょうど一緒に行ったのが光文社の編集者でもあり、私は森村と親しいと強調して特別に見せてもらえることになった。帰国して森村に連絡したら、中国から問い合わせがあったという。
 『悪魔の飽食』は中の写真が一部違っていたことを理由に右翼から森村への批判が殺到した。「近日参上」と赤いインクで書いた手紙が森村の家に届いたり、玄関に赤いペンキをかけられたりした。
 この事件で森村が忘れられないのは、当時の角川書店社長、角川春樹の勇気である。残念ながら光文社は攻撃に屈して『悪魔の飽食』を絶版にした。それを角川が拾ったのである。
 社長の身の危険も考えて、社内では反対する空気が充満しているのに角川は言ったという。
 「ここでうちがこれを出さなかったら、日本の表現の自由は後退する。ジャーナリズムの敗北である。一出版社の問題ではない」

 森村と私は何度か対談したが、『俳句界』 の2010年4月号のそれも忘れがたい。
 「今日は佐高さんにお礼を言いたくて」と切り出されたのである。山口誓子の旬「海に出て木枯帰るところなし」を教えられたからだという。
 「佐高さんが、これをいつも覚悟としているとおっしゃっていたので、知ったのです。 まさに、これこそ自由業の覚悟の句だなと思っています。自由業でない人は、めったに海には出ないですから。組織という陸地にいる。だから、私にとって、『海に出て』というのは組織や管理の枠から飛び出して、というイメージで作家たるもの、かくあるべし、こういう覚悟で挑むべし、という思いでおります」
 これは誓子が特攻隊を詠った句だといわれるが、森村は私など以上に深くそれを受けとめたのだろう。
 森村は句も作ったが、「行き着きてなおも途上や鱗雲」、あるいは「行く果ては枯野と知れど旅やまず」などの作品を遺している。(文中敬称略)
(佐高信/評論家)

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