…維新以後,徳川幕府の下で支配階級であった武士は既得権益としての禄を安価な政府公債と引換えにとりあげられて支配階級の地位を失い,旧藩士はわずかに〈士族〉という戸籍上の称号だけを与えられたが,この名目的称号も1914年には消滅した。旧大名は公卿とともに華族の地位を与えられ,華族には華族令によって一定の世襲財産・特権・貴族院議員たり得る資格が付与されたが,1946年,憲法によってこの華族制度も三分の二世紀ほどの歴史を閉じた。日本において貴族制度がこのように根づかず,貴族文化といったものの発展もなく,またイギリスのパブリック・スクールやオックスフォード,ケンブリッジ両大学のような貴族の子弟のための学校もほとんど発達しなかった事実は,ヨーロッパ社会との対比において特徴的である。… (コトバンクより)
徳川慶喜家当主・慶朝氏【1】「もし18代将軍になっていたら」
(yucasee media 2009年3月25日/ 2022年1月23日)
曾祖父、徳川慶喜公の面影が残る紳士
徳川慶喜家第4代目当主、徳川慶朝氏![]()
茨城県ひたちなか市にあるジャズバー、「サムシング」に待ち合わせ時間ちょうどに現れた、小柄な中年の紳士。写真で見た慶喜公の面影がどことなく思い浮かぶ、柔らかで優しい顔つきが印象的です。この方こそ、徳川慶喜公直系の子孫であり、徳川慶喜家第4代目当主の徳川慶朝(よしとも)さん。家康公の子孫であり、慶喜公の曾孫に当たります。
20年間東京の広告制作会社のカメラマンとして活躍後、フリーランスとなり、今は茨城県在住。世が世なら第18代将軍?という、慶朝さんの生活を伺いました。
―この店は行きつけですか?
「はい。週に2〜3回はここでジャズを聴いて、お酒を飲んでいますね。ウイスキーのボトルのタグにも『将軍さま』ってあるでしょう(笑)。数年前まで東京都内のマンションに住んでいましたが、茨城県に引っ越してきました。」
―徳川家に縁が深いから茨城なのですか?
「いいえ、水戸藩だったというのはたまたまです。一番の目的は自分で焙煎している『徳川将軍珈琲』の仕事に専念するため。茨城にあるサザコーヒーで『徳川将軍珈琲』を販売させてもらっています。それまでは東京から通っていたのですが、やはり近くの方がいいですし、仕事を通して仲間もでき、土地柄も気に入ったので。
元々私は筋金入りのコーヒー好きで、昔から色々な種類のコーヒー豆を買ってきて、飲み比べていました。コーヒー店に通いつめて、焙煎の様子をじっくり観察したりもして。興味を持ったらとことん凝るところは、慶喜公と似ているかもしれません。行きつけの喫茶店の方に焙煎からネイルドリップまで教えてもらったりしました。その後サザコーヒーの経営者の方と出会って、自分で焙煎したコーヒーを販売させてもらえることになったのです。」
―カメラマンのお仕事は?
「もう自分で写真を撮ることは少なくて、昔の写真を貸し出したり、写真コンテストの審査員をしたりしています。今はコーヒーに専念して、悠々自適な暮らしをしています。実は将軍珈琲はかなりの人気商品なんですよ。」
「もし将軍になっていたら速攻で大政奉還していた」
徳川将軍家・慶喜家略系図 〇内は将軍職、―は実子、=は養子
―曾祖父の慶喜公とお会いになったことは?
「慶喜公は大正2年に亡くなられているので、会ったことはありません。亡くなった伯母の高松宮喜久子妃殿下は、慶喜公に抱かれている写真があります。」
―世が世なら将軍様ですが。
「もしまだ江戸時代が続いていて、将軍になってしまったら。慶喜公のように、私は速攻で大政奉還していたでしょうね(笑)。政治や権力に全然興味がないんです。全国民の責任を負うのは大変だし、将軍は始終誰かに監視されて、食べ物も毒味が終わった冷めたものしか食べられません。それよりは、今の自由な生活の方がずっといい。」
―徳川家の資産はどのくらい相続しているのですか?
「父は徳川家、母は会津松平家出身で、2人とも裕福な家庭に育ちました。しかし私が生まれた時点では徳川家の資産なんてほとんど残ってなくて、私はただの庶民。ずっと一般的なサラリーマンでした。何も知らない人には、相続した莫大な財産があると思われたりもしますが…。あと徳川埋蔵金などとテレビで放送されたりしますが、そんなものはないと思います。
江戸時代に慶喜公は将軍という高い地位にいたため、明治新政府にそっくり資産を取られてしまいました。かえって地方の大名の方が、財産がそのまま残って、子孫は今でも資産家だったりします。慶喜公は明治になってから公爵の地位を与えられ、東京・小石川の小日向第六天町に3000坪ほどの屋敷がありました。しかしそれも戦後、莫大な税金を課せられて手離すしかありませんでした。」
―そのお屋敷に住んだことは?
「私はありませんが、両親はそこに住んでいました。母は小さい頃からずっとお姫様のように育てられて、料理もしたことがなかった。だから戦後に小石川の屋敷を出た後は、かなり苦労していました。自分で家事をするようになったのもそれからですから。でも、元々資産家だったのが没落していくより、生まれた時点で普通だった方が幸せではないでしょうか。私は普通の庶民に生まれて良かったと思っています。」
薪を割り、かまどでご飯を炊く生活
―食にはかなりこだわりがあるそうですが。
「はい、自分で料理をすることも多いですよ。朝ご飯は毎日自分で作っていますし。今の家には玄関を入ってすぐの場所にかまどがあって、薪で火をつけてご飯を炊いています。家を建てる時にシステムキッチンではなくて、かまどと煙突をつけてもらいました。かまどで炊くご飯は本当に美味しいですよ。朝ご飯のおかずは、松花堂弁当のような9つの仕切りがある漆の器を買ってきて、そこに9種類入れて食べています。味噌汁とご飯は別で。贅沢な気持ちになれるし、その方が楽しいでしょ。
独身で1人暮らしが長いので、家事は何でも自分でできます。今の生活は気楽で、何も不自由なことはありませんし、寂しくもないです。もし今後、生涯一緒にいたいと思えるような女性に出会えば、変わるかもしれませんが…。
将軍は周囲の人に常に見られながら食事をしていましたが、私は作るのも食べるのも1人。もしいきなり倒れても誰にも騒がれないし、そう考えると江戸時代から随分時間が経ったんだなぁとは思いますね。」
「徳川将軍珈琲」でモンドセレクション金賞を狙う!?
―旅行には行くのですか?
「旅が好きで、昔から国内旅行には行っていました。海外に行き出したのは3年ほど前から。今まで訪れたのはイギリス、フランスのパリ、アメリカ西海岸やNY、ハワイなど。ほとんど1人旅です。私は英語は全然話せませんが、現地に行けばいつも何とかなりました。
飛行機は全部ファーストクラス。資産家ではプライベートジェットで移動している人もいますが、エアラインのファーストクラスの方がずっと居心地が良いし、私はこちらの方が好きですね。往復200万円くらいかかりますが、ファーストクラスの世界一周切符もあって、それは100万円くらいでお得です。今後旅行するならそういうのを利用するのもいいなと。
イギリスではロンドンの高級老舗ホテル、クラリッジスホテルに宿泊しました。ここは慶喜公の弟、昭武公が渡欧の際に宿泊したホテルで、私も一度泊まってみたかったのです。宿泊費は一泊15万円くらいで高いですけど。あと私は『くまのプーさん』が好きなので、物語の舞台になった森にも訪れました。イギリスは食事も私には合うし、好きな国ですね。
今年は、上手くいけばイタリアに行けるかもしれません。実は、徳川将軍珈琲をモンドセレクションに出品しているのです。今審査中で、結果発表はこの4月。もし金賞がとれたらヴェネツィアで授賞式があるので、それに参加できます。このためにタキシードを新調しようかと考えているところです(笑)。」
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徳川慶喜家当主・慶朝氏【2】華族の末裔たちの今
(yucasee media 2009年3月26日/ 2022年1月23日)
元華族の人々が集う霞会館はどんな場所?
―元華族の方との交流はありますか? また、旗本の子孫の会などもあると伺いましたが。
「旗本の子孫の会に呼ばれたことはあります。そういう会合では先祖のことを誇りに思っている方が多いし、歴史に非常に詳しい方もいらっしゃいます。でも、私自身は歴史にそれほど興味がないのです。もちろん、祖先のことは大切に思っていますよ。
世界一慶喜公に詳しいのは、私ではなく松戸市の戸定歴史館の学芸員の方です。ここに慶喜家の資料は全部預けてあるし、国内外様々な問合せに対応していただいています。全部お任せしているから、こっちも安心して楽に暮らせているわけです。」
―元華族の方が集まる「霞会館」というのが霞ヶ関にありますが、どんな場所なのですか?
「私も会員なのですが、ほとんど行っていません。ネクタイをして行かないといけないし。霞会館は昔のイギリスのクラブを真似て作ったもので、元華族の当主とその後継者が会員です。昔は男性しか入れませんでしたが、今は女性も入れます。でも、バーカウンターに座れるのは男性のみです。
霞会館は毎日開いていて、ビールなどのお酒が普通の居酒屋よりずっと安く飲めるんです。1000円分も飲んだらべろべろですよ。カウンターの他に、奥にはビリヤード台があります。でも、霞会館は定年退職した人が家にいてもつまらないから来るという感じでもあるので(笑)。最近はあまり足は向かないですね。でも毎日通う人もいるそうですよ。」
慶喜公が書いた家範は、慶喜家運営マニュアル
「慶喜家には、慶喜公が子孫のために書いた家範があります。これは当主とその家族だけのためのもので、一族でもそれ以外の人は見ることはできません。家を運営していく際のマニュアルで、“財産の何割はどう管理しなさい”とか“経済的なことは相談役をつけなさい”、“子孫は自分と同じ墓に入りなさい”など様々なことが書かれています。家範は、昔は内務省に届ける義務がありました。」
―普通の家庭には家範などないですから、興味深いですね。
「そういう書類や遺品、古文書を受け継ぐというのは面白いです。でも資産を受け継ぐのは大変ですので、受け継がなくてよかった。幕府の資産そのままということなら、財産だけでなく負債も同時に背負うことになりますし。
両親は、そういう意味では苦労していました。住み込みのお手伝いさんや料理人がいるような生活から一転して、母も家事をして勤めに出るようになって。お金持ちからそうでなくなる方が大変だし、最初から普通の方がいいです。それは私の性格、好みの問題でもあるけれど。」
事業継承は血よりも有能さを優先するべき
―家や事業を引き継ぐことに対してはどうお考えですか?
「江戸時代は家業とか家が、現代よりずっと重い意味があった。継承しないと断絶してしまうわけですから。でも商家の場合、継ぐのは必ずしも長男でなく、従業員の中の優秀な人、有能な職人に継がせました。だからずっと続いたんですね。今は単純に長男に継がせるからダメなんだと思います。他の従業員もやる気がなくなるし、もし子供に二代目を継がせるなら冷遇しないといけない。外で勤めさせて、修行させてから継がせたりしないと。
私はかなり国産主義で、車から何から、商品は何でも国産が好きです。あ、ウイスキーは輸入品ですけど。外国製より国産の方が性能がいいと思うし、海外でわざわざブランド品を買う人の気持ちはわからないな。若い頃はアメリカかぶれだったけど、やっぱり日本の方がいいね。」
徳川慶喜家の5代目後継者は?
―徳川慶喜家の後継者はどうなっているのですか?
「誰かに家を継がせたいという欲はないです。歴史や過去は変わらないですが、現代を生きる私たちは、私たちの好きなように人生を生きればいい。家に縛られる必要はなく、自分の幸せだけを考えて生きていけばいいんです。人はいくら長生きできたとしても、本人が死んだら終わりなのですから。だから慶喜家は自分で終わりになっても、惜しいとか残念とは思いません。」
過去は過去、今は気ままな日々の生活が幸せ
―自分の祖先が何百年も前からわかっていて、しかも有名人というのはどういう感覚なのでしょうか。
「人によって違うと思いますが、普段実感することはないですよ。家康公、慶喜公の血とかも、意識しないし不思議な感覚もない。周囲の人は意識しているかもしれないですが。昔のことなんて、どうでもいいじゃないですか。私はそういうスタンスです。先祖がわかっていたって関係ない。過去は大切に思うけど、それに縛られないで生きていけばいいのです。
でも、慶喜公の子孫として生まれて良いことは、もちろんたくさんありました。例えば、自分の家のことを本に書けば売れるなんて、普通はないですから。『徳川慶喜家にようこそ』は10万部以上売れています。コーヒーと本の印税のおかげで、1人で暮らすには十分な収入があるし、そういう意味ではありがたいですね。
幸せって何か。
お金を使って贅沢するのもいいけれど、他にもいろいろありますよね。料亭のご馳走は毎日食べていたら飽きてしまいますし。今は、ただのんびり暮らしたいだけです。好きな旅行に行って、好きな音楽を聴いて、ウイスキーを飲む。
私の家の周りは農家が多いのですが、みんな仲良しでよくしてくれます。5月、6月になると採れたての空豆を家に届けてくれたり。その日はすぐにお昼の献立を変更して、空豆を茹でて、ビールと一緒にいただきます。どこにも売っていないものですから、こんな贅沢はありません。あと、薪を使ってかまどで炊いたご飯が、すごく美味しかったり。私にとって、今はそういう瞬間が何よりの幸せですね。」
徳川慶朝(とくがわ・よしとも)
1950年、徳川15代将軍慶喜公直系の曾孫として静岡県に生まれる。東京の広告制作会社でカメラマンとして20年にわたって活躍後、フリーランスに。自ら焙煎したコーヒー豆を「徳川将軍珈琲」として販売している。著書に『徳川慶喜家にようこそ』『徳川慶喜家の食卓』(文藝春秋)など。
※2017年9月26日追記
インタビューは2009年に行われました。
徳川慶朝さんは9月25日午前5時12分、ご逝去されました。享年67。
ご冥福をお祈りします。
写真家・徳川慶朝さん死去 15代将軍慶喜のひ孫
(西日本新聞 2017/9/27 12:46)
江戸幕府15代将軍徳川慶喜のひ孫で、写真家の徳川慶朝(とくがわ・よしとも)さんが、25日に心筋梗塞のため水戸市の病院で死去していたことが27日分かった。67歳。静岡県出身。
茨城県内のコーヒー店と連携し、自らが焙煎した「徳川将軍珈琲」を販売した。
今年は、慶喜が朝廷に政権を返上した大政奉還から150年にあたる。
歴代将軍とは別の墓所
――慶喜家の墓所は、歴代将軍とは別なんですね。
山岸 15人の将軍のうち、家康公と慶喜だけが神道なのです。2代から14代の各将軍は、仏教なので寛永寺、増上寺、輪王寺に分かれて埋葬されております。慶喜は、家康公を大変尊敬していたこともありますが、明治天皇のご配慮で公爵を綬爵した事や大変信頼していた有栖川宮様との関係から、神道に改宗し、皇室にならい神式で葬儀を行なうように遺言を遺しました。
ですから徳川家の墓所は寛永寺の中ではなく、谷中墓地の中にあって、これまでずっと慶喜家が管理してきたのです。お墓は、一般の皇族と同じような円墳で、お参りも神道式に二礼二拍手一礼ですが、拍手の音を立てないと教えられていました。
墓所は300坪! 墓じまいの手続きは
――家じまいと墓じまいには、どういう手続きが必要ですか。
山岸 墓所は東京都の史跡指定を受けておりますが、300坪もあり、到底個人では管理できません。木を伐ったり壊れた部分を修復したりと、維持するのに大変なお金がかかります。いまも墓所を囲む塀の修繕が必要で、2000万円とも言われており、寛永寺とも相談をしておりましたが、宗教が違う墓地の事まではなかなか難しいかと思います。
墓じまいを決めたのは慶朝叔父なのです。こんな苦労はもう終わりにすべきだ、という決断は正しいと思っております。その遺志を受け入れがたい親族の存在もなきにしもあらずですが、今後は親族で守るのではなく、しかるべき所に寄贈し墓地そのものは現状維持していただけるよう、働きかけている最中です。
――慶朝さんがご存命中は、ご自分のお金で管理されていたんですか。
山岸 はい。叔父は叔父なりに、お金が無い時も常に責任を負い頑張って維持しておりました。

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