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太鼓谷稲荷神社から見た津和野町


「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。 山根治ブログ2023年08月31日号http://yamaneosamu.blog.jp/archives/21467707.html)から転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
コメント・メール(77)です。

 山根治さま

 『韓国経済新聞』の李揆行社長は王家の末裔ということで、彼からは朝鮮民族の歴史を始めとして、韓国の極秘情報を学べたことは、私にとって実に大きな知的財産だった。彼からは他言無用ということで、朝鮮の極秘情報を数多く聞いたが、コリアンでも知らない国家機密に属すものは、『安倍晋三の射殺と三代の腐れ縁』に一部は公開してある。

 「・・・ここだけの話だから他言は無用だよと教えてくれた情報としては、韓国の財界のトップを始め軍隊の幹部の多くが、北朝鮮の出身者であるそうだし、彼らの祖地は満州から沿海州方面に広がっていた。しかも、北朝鮮系はツングースで騎馬民族に属すから、格闘術には優れて強靭であり、体力だけでなく頭脳でも優れている者が多いので、侮ったらいけないとの話だった。・・・韓国の小さな財閥とか軍隊の幹部層の多くが、北鮮系の人間だという話を始め、政府系に属す企業には師団長クラスが陣取るし、政府の局長クラスになるとシカゴ大のOBが多いとも聞いた。・・・しかも、この先は機密だから書いたらダメだと強調して、統一教会は保安部(KCIA)が反共工作の実行を看板に使い、仕事を担当している組織だし、米国内と南米においてCIAの裏工作を請負っている。それがコリアゲートであり、露見して失敗したために米国では商売に徹するし、韓国にはキリスト教があって淫猥な集団と別だから、韓国において文鮮明は単なるカルトの頭目扱いだ。・・・

 ある時の会話で私の祖先の話になり、父親は東北系の山師関係だが、母親は島根県の津和野の出身であり、西周や森鴎外と関係があると言って、次のような内容の話をした。

http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/mori01.htm

 すると李さんは我が意を得たという口調で、藤原さんの母方の本貫は百済だから、満州の扶余には行けなくても忠清南道扶余郡の泗沘は、ぜひ訪問して帰れと言われ私は目を丸くした。私の母の旧姓は吉田であり、この話に出てきた西や森から見れば、津和野藩には朝鮮族の帰化人で構成され、日本人のDNAを識別する秘密は、姓名の中に封印されていて、対称苗字に秘密の鍵があると知った。

藤原 : どうして漢字がDNAとして、姓名に結び付くのか分からないが・・・。

李 : この謎は分かってしまえば簡単で誰でもそうかと理解し、それが謎の持つ秘密であるが、秘密は一部の人だけが解くカギを持ち、それを世間には教えずに限られた人だけが知っているところに、暗号の持つ価値がある。だから、この秘密は他言無用だから、絶対に喋ったらいけませんよ。

藤原 : 喋らないと約束します。是非その秘密を教えてください。

李 : 約束は絶対に守って下さいね。分かってしまえば答えは簡単で、一瞥しただけでDNAが外から識別出来るが、外国人や愚鈍な人は見過ごして、見えていても見えない仕掛です。朝鮮民族が外国に出かけて行く時に、その土地の名前を名乗る場合には、左右対称の漢字を選ぶのであり、吉田を始め西も森も対称文字でしょう。

藤原 : なるほど、そんな簡単なことでしたか。分かってしまえば他愛がないですね。

李 : しかし、これには法則性がありまして、苗字は道教が関係しており、名前は儒教と結んでいるのです。苗字は日月火水木金土とか、黒青赤白や大中小を始め、天山岡谷川や東西南北などを組み込み、森、林、木、一、二、三、四などであり、名前の方には仁義礼知信とか、君臣民熙龍貴賢慧などの文字を入れます。

藤原 : そうでしたか。吉田とか山本や黒田などは、一目で対称文字だと分かります。

李 : そういう苗字の分布を調べれば、その人の本貫が識別できるし、西日本には対称文字の分布が多いはずです。


 起亜自動車の申会長のソウル大卒の息子を始め、多くの優秀な韓国人学生がシカゴ大に留学する理由は、教授にノーベル賞の受賞者が多いせいで、それが魅力の源泉だとの説明を聞いた。事大主義の韓国人にとっては、最高の憧れのノーベル賞を取るために、シカゴ大に行くのが最短距離だと信じられ、これが過酷な受験競争を生み、若者は猛烈な受験地獄に苦しむとかである。

 この話の真偽を李社長に聞いた時に、彼はそれを肯定した上で他の理由もあると言い、韓国の役人や軍人を始め財界のトップが、北朝鮮の出身者が多い理由として、地政学的な理由があると説明した。農業が主体の韓国は両班が君臨し、貴族として地主でもある両班階級は、役人や軍人として支配者になるか、彼らが価値を認める教育や芸術あるいは宗教の指導者を好み、手仕事や金銭を扱うのを軽蔑したので、北から来た騎馬民族系に出し抜かれた。

李 : 日韓併合で朝鮮が植民地になり、日本の皇民化政策の創氏改名で、多くの朝鮮的な血統に基づく金、李、朴、崔などの姓が、日本風の家名に姓を改めた時に、大量に新しい苗字が誕生しました。その時に仲間だけに分かるように、山本、金田、竹中、青木、岡本という具合に、左右対称の苗字の者が新日本人として生まれ、戦後は在日コリアンとして日本に残りました。松下村塾の吉田松陰を見ても、吉田は対称文字の苗字だし、塾生の多くは対称文字を含んでおり、大内にしても山口にしても、見る人には一目瞭然で、日本定住の朝鮮族のDNAが分かります。

藤原 : でも、ユダヤ人は血統やDNAでなく、ユダヤ教の信者だというアシュケナジもいて、民族的な因果関係はなく、その点で朝鮮族とは違いますよ。それにしても、崔が山本になった話とか、金子や金山という人には朝鮮系が多く、それを言うと人種偏見になるから黙っていろと小学生の頃に教わり、そんなものかと思っていました。だが、左右対称という目で見ると、吉田や田中は一目瞭然であり、確かに暗号解読の原則に従うならば、見る人の目には分かる点でコードの一種ですね。

李 : 植民地時代の朝鮮の産業地帯は北部で、北朝鮮には技術系の人間が集まり、南部の農民が日本に出稼ぎに行き、北の方が相対的に豊かだったし、人材的にも卓越していたのです。1960年頃に始まり1970年代末まで続いた、在日コリアンの北朝鮮帰還運動は、私が東京特派員だった頃のトピックスでした。だが、ベトナム戦争の特需で韓国が豊かになり、その後は衰えたが日本式の苗字の判別は、同胞の識別コードとして役に立ちました。北部出身の人には頭がいい者が多く、理想の国つくりをするプロパガンダに釣られ、旧帝大出の理論家肌の人が競って家族を連れて、北朝鮮に帰って行った時代でしたよ。

藤原 : あの頃はプロレスの力道山を始め、小泉純也や金丸信などが台頭していたし、佐藤栄作や田中角栄の待合政治が横行する、利権漁りで賑わう時代でしたね。

李 : そうでした。ところで話が変わりますが、日本では待合政治というが、財界人たちが藤原さんを食事に招き石油問題の話を聞くような時に、どんな高級料亭を使っていましたか。

藤原 : そうですね。赤坂見附の「清水」とか「龍村」だったが、ホテルの方が圧倒的であり、料亭を使うことは余りなかったのは、ぼくが若くアメリカで仕事をしていたし、会った相手が経済関係の人だったせいかも知れません。どうして料亭の話が出たのですか。

李 : 話のついでだから教えますが、左右対称文字がコードであり、「吉兆」や「金田中」が要注意であることは、教団や在日業界の手を通じて、南山(KCIA)のアンテナだからです。

藤原 : 「秘苑」という店がその筋で、近づくと危ないと聞いていましたが・・・。

李 : いや、それは大衆レベルの話であり、東声会や韓国大使館は表の顔でして、もっと重要な情報の世界は奥が深くその根は国際レベルで繋がっているが、それを知る人は余りいません。朝鮮の歴史は嘘で偽装されており、虚妄の歴史観が蔓延していて、南北両方が軍事独裁体制ですが、昔からの衆愚政策のせいで、誰も真相を語れないのです。

藤原 : 歴史にタブーが多い点では、日本も似たようなものです。どうして韓国や北朝鮮は独裁的で軍事政権を放置しているのですか。

李 : それは半島国家だからで、植民工作の対象として狙われたし、それで朝鮮戦争が起きて分断国家になり、緩衝地帯の悲劇に支配されて軍事政権が続いています。南北統一は民族の悲願だとはいえ、それ以上に重要な問題は統一国家を作るより、かつてはアジア大陸の満州からシベリアにかけて、朝鮮族が拡散して分布したように勢力圏を復活する夢の実現です。

藤原 : そんなことは誇大妄想であり、かつての大東亜共栄圏と同じで、「見果てぬ夢」に他なりませんよ。

李 : それは西欧のユダヤ人が手本で、かつては大陸に分散していたが、産業革命以降は新大陸や島に移住して地歩を築き、各国内に勢力圏を作り上げて影響力を発揮する方式です。そのモデルがユダヤ人のやり方であり、幾ら嫌われてもユダヤ人を手本にして、コリアン・パワーを諸国に根付かせることであり、日本には在日コリアンの拠点が既にあるし、米国にも各地にコリアタウンが出来ています。

藤原 : ロスだけでなくカリフォルニアやNYには、コリアタウンが続々と出来ており、新しい移民が住み着いて賑わっているし、シカゴ大やコロンビア大には韓国系が多いけれど、未だユダヤ人ほどの存在感はありませんよ。

李 : それは当然です。ユダヤ人は何百年も時間をかけて、それを実現して来たのだし、我々は僅か百年に満たない時間しか費やしておらず、これから未来への道はとても長いのです。だが、タルムードを読むことでユダヤ教の信者になれるし、そのノウハウを利用するだけで良く、ユダヤの教えに学ぶことだと財界人の一部では囁かれている。ノーベル賞の三割近くを取りユダヤ人には天才が多いから、タルムードに潜むDNAを受け継ぎ、韓国が日本を追い越すためにもシカゴ大や東大に行く学生が多い。こういった地下で進行する動きは、数十年後に成果を得るはずで、韓国の経済大国が実現した時に、私のホラ話を思い出して貰いましょう。また、この話はあなたに教えましたが、絶対に誰にも漏らしてはいけませんよ。


 李社長がこの話をして四十年が過ぎ、亡くなってから十数年経ったが、この説は余り愉快ではなかったから門外不出で書いたことはなく、その後はバブル崩壊で日本の没落が続き、相対的に韓国の経済飛躍が目立つようになった。確かに一時的な現象としては、ヒルズ族の七割が在日コリアンだし、自民党議員へのカルト教団の浸透が進み、新興財界人に対称苗字の人が増え、孫(安本)正義や楽天の三木谷浩史を始め、オリックスの宮内義彦などの動きが目立つ。

 これらの対称苗字の経営者は、源流に半島系のDNAを持つだけに、勇猛果敢な事業展開を実施してビジネスに成功し、中曽根バブル以降の日本の経済界で、時の人としての盛名を轟かせた。李社長による倭人の定義では、半島の南部から九州や中国地方の住民で、黄海の延長の瀬戸内海から大阪湾周辺で生活する、定住型の農民や漁民のことを指し、倭人は遊牧民とは性格が異なるそうだ。

 だが、済州島には北の騎馬系が多くて、倭人でも北方系が混じりこみ、「冬のソナタ」を口ずさむイケメンもいるが、ヒョットコ面の麻生(亜曽宇)に属す、仮装対称苗字を持つ倭人もいる。その仲間には堀江貴文がいて、堀江は対称苗字とは違うが、漢字ではなく片仮名ではホリエであり、対称苗字の一気通貫になるから、見て分かる人が一瞥すれば仮装対称苗字だと識別できる。

 縄文人は列島の東北部に住み、弥生人は西南部で生活し、それが混じり合う形で律令制の形で、日本列島の歴史が始まるが、その歴史に余りにも嘘が挿入され、多くのタブーに包まれ謎に満ちている。神話と歴史が混在した状態で、歴史に科学性が乏しいのは、明治以来の文部行政を支配したのが、偏執的な文教族だったからであり、その生きた見本が森喜朗だし、日本を神の国と信じた文部大臣だった。

追補

 売春防止法で捕まった破廉恥男が、文相になったのが森喜朗で、日本の教育行政を荒廃させたことは、『愚者の天国とゾンビ地獄』の「まえがき」に、歴史の証言として記録しておいた。似たようなスキャンダルが発覚し、官僚の最高権力者の官房副長官が、売春禁止法の常習犯として、デリヘル(宅配売春婦)を利用しており、木原誠二は醜聞をまき散らしたのに、辞職もせずに重要地位に居座っている。

 買春行為に木原が使った偽名が、対称苗字の中北だったことは、警察の調べで明らかになったし、中北の意味する人物として、岸田文雄だということが指摘され、それがU-Tubeで拡散されている。

https://www.youtube.com/watch?v=cnyGkOI9mwc&t=32s

 中北という対称苗字の相手が岸田で、日本国の首相を指していたとは、ビックリ仰天の大珍事であるが、こんな不逞の輩が首相の知恵袋として、国政を動かしていたとは世も末である。
 
 対称苗字と非対称苗字の関係は、粒子と反粒子の存在形式に似ており、それはリーマン予想やフェルマーの定理式と同じで、対称性の破れ(CPパリティ) の問題だから、スピンして別の世界に現れるものだ。この対称性の破れの持つ神秘は、DNAの捻じれのメカニズムで、楕円回転は注連縄として神社に飾られるし、オイラーの公式が示すように、対称性の破れを象徴しているものである。

『ニューリーダー』 2005年2月号《衝撃対談》<上>
西原克成 西原研究所所長・医学博士
VS
藤原肇 在米・国際コメンテーター

猝声の大文豪畤慌外の隠された真実 「日本最悪の医者」としてその犯罪を裁く

津和野、養老館で繋がる狹世叛
藤原 西原先生の『内臓が生み出す」(NHKブックス)を読ませていただきました。生命活動においてミトコンドリアが非常に重要であり、口呼吸と骨休め不足と腸に良くない冷たい飲み物の弊害が、健康を損なう最大の原因だとよくわかりました。
 それにしても、西原さんが学位を取って30歳で東大の講師になり、それから30年間に、度も昇進しないで定年になったと知り、世の中には実に忍耐強い人がいると驚きました。私は神田の生まれの江戸っ子で、我慢強くないから、そんなひどい環境でいじめられたら腹を立てて、辞表を叩きつけて他所に移っていると思います.

西原 私が大学に勤めた目的は、20世紀に誰一人として、まともに研究することを考えなかった脊椎動物学を究め、「未知なるもの人間」の仕組みを明らかにすることでした。そして、その環境を整えることができるようになり、文部科学省の研究費で思う存分研究ができたうえに、驚くほどの成果があがったので、腹を立てる気はありません。

藤原 そうですか。私には騎馬民族の血が流れているようだし、江戸っ予で神田明神の氏子だから、祭神は平将門です。ところが、反乱を起こした将門を討ったのが藤原秀郷であり、どうやら秀郷の血が父方の祖先に繋がるみたいです。私の名前は肇で父親が一義という名ですが、私は戦時中だから一の代わりに肇国の字を使い、明治生まれの親父は一に儒教的な義をつけた。というわけで、長男がハジメを名乗るサンカ筋の家系らしい。そして、祖先をたどっていくと東北に住み着いた集団で、平泉に黄金文化を築いた藤原の家系に繋がり、その因縁で私は山師の筋の地質学の専門家として、世界中の山や富鉱地帯で仕事をしたのでしょう。

西原 それでは東北地方に陣取って牧畜や採鉱をしていた、遊牧民的な性格が強い奥州の藤原ということですね。

藤原 遠い先祖をたどればいずれは猿になるのだし、西原学説のネコザメも先祖の仲間になるわけだから、もっと身近な遊牧民族としておきましょう(笑)。親父は髭が濃くてアイヌ的な印象もありましたが、母方の吉田家は、どうも朝鮮系のような感じが濃厚です。というのは、吉田家は島根県津和野であり、叔父が老人になった時の顔が李承晩にそっくりだったんです。顔相から朝鮮系は間違いないと思います。

西原 島根や山口は朝鮮半島に近いから関係が深く、戦国時代の大内氏は朝鮮系だと言われています。多くの日本人には大陸や半島の血が混じり、系統発生から言えば猿やネコザメは言うまでもないが、円口類もホヤも進化の上でわれわれの祖先です(笑)。
 それに津和野といえば森鴎外の生まれた町です。明治の文豪だと祭り上げているが、彼はとんでもない医者で、間違った考えのために兵隊を大量に殺した点では、日本最悪の医者の一人だと私は考えています。

藤原 そうですか。大量殺人とはビックリ仰天の発言ですが、実は私の母方の祖父は養老館という津和野藩の藩校で、森林太郎と同じ時期に学んだらしく、亡くなった母や祖母から幼い頃にそんな話を聞いています。職務は津和野藩の馬廻りだったと言いますが、森林太郎だけでなく西周とも関係があったらしく、狎樟萓犬隆瓩噺討个譴申餮台が残っていたので、母が亡くなった時に津和野の郷土館に寄贈しました。

西原 ちょっと鴎外批判をしたら思わぬ方向に発展して、あなたのお祖父さんが鴎外と同じ藩校で学んだらしいと知って驚きました。世の中は実に狭いというか、奇遇ですね。

生涯一度も訪れなかった故郷と墓
藤原 でも、生き証人はもはや誰もいませんね。母や叔父が元気だった、6年ほど前に、その辺のことをはっきり確認しておきたいと考え、教育委員で郷土史家の池田潔さんや森澄泰文さんと一緒に、菩提寺の永明寺に行って過去帳を見たり、色んな過去の記録を調べるのを手伝ってもらいました。だが、祖父は死んだ年だけで生まれた年がはっきりしません。その母親が死んだのが慶応元年(1865)だったので、産褥熱で死んだのなら慶応元年生まれです。

西原 あの時代は産褥熱で死んだ妊婦が多くて、女性にとって死因の代表だったようですね。

藤原 祖父の父親は四人も妻を持っていたし、祖父も再婚して妻を三人も持つ人だったとわかり、母にそれを言ったら、「昔は子供を産むのは大変だったのよ」と笑われました。
 それはともかく、祖父が慶応元年生まれなら森林太郎より二歳若い。似たような年頃の子供として遊んだにしても、明治四年の廃藩置県で養老館は廃校になったから、七歳の祖父が養老館で学んだ期間はとても短かった。翌年に、森林太郎は東京に出発しているのです。

西原 森家と西家は従兄弟同士の親戚関係だったから、西家と吉田家が深い関係を持っていたのなら、吉田家と森家が親しくしていたかもしれません。

藤原 さっき言った西先生の机が伝わっていたことから、その関係で吉田家と森家に繋がりがあれば、郷上館にある書見台は縁を取り持つ机ですね。その机の裏面には丸文字が墨で書いてあった。「読書百遍而義自見」(読書百篇にして義おのずから現わる)という漢文で、郷土館の学芸員が西周の筆跡だと鑑定してくれました。そんなこともあって、私は中学生の頃に西周の『百一連環』を読んだし、ライデン大学への留学にも憧れた。西周が徳川慶喜のフランス語の家庭教師だったから、中学生の頃から独学でフランス語を学んだのです。

西原 津和野の森太郎に関して何か他に聞いていませんか。

藤原 森鴎外の作品は中学生の時に全部読んだので、子供の頃に聞いた話と彼の小説が一緒になって、どこまでが話か小説か区別できません。『ヰターセクスアリス』は中学生の時に読んだがよくわからず、森鴎外の秘密の自叙伝だと思っただけで、高校生になって読み直して興奮した。『肉布団』も読んだが、数年前に読んだら何てことなく落胆しました(笑)。

西原 一応あれは自叙伝みたいなものですが、格好をつけて上品に書いて誤魔化しているのです。

藤原 そうですか。あの作品の中にだけ津和野のことが書いてあり、私の祖父を感じさせるものがあるかと思い熟読したが、何もないのでがっかりした記憶があります。祖父は武士の子で廃藩置県と廃刀令で挫折したらしく、若い頃は山で鶯を取って、自分で鳥篭を作り、世をすねた一種の風太郎だったらしい。何度か結婚して家屋敷を古橋という造り酒屋に売り、子供の教育のために中学のある浜田に出て、祖母が活版印刷屋をして一家を支えたのだそうです。

西原 じゃあ、森林太郎が津和野を出て一度も戻らなかったように、あなたの母方の家は津和野には残っていないわけですか。

藤原 江戸時代の吉田家は面倒見がよかったらしく、永明寺には永代寄進した広い墓地もあります。そこに30くらいあった墓石を整理して1つにしたが、その中には切腹した三剣士の墓石もあり、叔父が死ぬまでは永明寺の檀家総代でした。それに、観光の名所として造ったのでしょうが、森林太郎の墓も永明寺の中にあります。

西原 しかし、森鴎外は一度も故郷の津和野に戻っていないし、墓地は確か東京の三鷹にあったように思います。故郷に対して何かこだわりがあったとすれば、津和野の墓には骨は入っていないかもしれませんね。遺言に残した「余は石見の人、森林太郎として死せんと欲す」という有名な言葉が、勝手に独り歩きしているかもしれませんよ。

藤原 その可能性はあります。永明寺の山門をくぐってから左手にある鴎外の墓は、いつも観光客の姿で賑わっているのですが、何となく違和感を漂わせているようです。

西原 彼は上京後に一度も津和野を訪れていない。その違和感は、故郷を捨てたことに関係しているんじゃないかと思います。

藤原 賛成です。喜寿になって知恵がついたらそれを主題にして、小説でも書こうかと考えたことがあるのですが、今の私は未だ若すぎて考えが発酵しておらず、そのうち熟す時が訪れてくるだろうと思っています。

西原 それは楽しみですね。

「日本兵食論」が犯した最大の悲劇
藤原 森鴎外は明治の文壇を夏目漱石と分かち合い、日本最高の文学者としての栄光に輝いており、医者として最高位の軍医総監にまでなっています。そこで気になるのでお聞きしたいのですが、先ほど西原さんがちょっと指摘しかけたことで、軍医としての森林太郎が最悪の医者の一人であり、多くの兵隊を殺したということについて、具体的な内容をもっと詳しく教えていただけませんか。

西原 具体的には、脚気に対しての森林太郎の偏見で、それに基づいて彼が実施した『日本兵食論』の誤りです。脚気の問題で森林太郎が犯した致命的な過ちは、日本の医学史において恥ずべき汚点であり、脚気は陸海軍で日清戦争直前に克服されていました。ところが、白米中心の陸軍兵食にこだわった森軍医は、軍医部長の麦飯給与の進言を退けた。それで、戦闘で死んだ者よりも脚気で死んだ者のほうがはるかに多い、という大失策を犯したのです。

藤原 平時の陸軍と海軍で解決していた脚気が、戦時の陸軍で森の誤った指導で大量病死者を出した――これは、森が固執した白米だけの兵食のせいだとは驚きです。それに、脚気はビタミンBの不足による病気でしたね。

西原 そうです。だが、鈴木梅太郎がビタミンBを発見するのは、米糠からオリザニンを抽出した明治の末だったから、時代としてははるかに後のことです。19歳の森林太郎が東京大学の医学部を卒業して、陸軍の軍医になったのは明治14(1881)年のことですが、西南戦争(明治10年)以降、兵士の24パーセントもかかっていた脚気患者が、明治18(1885)年に麦飯の給食が始まったので、激減して、1パーセント台になっていたのです。
 問題は、森医務官が同じ明治18年にライプチヒで書き始めた『日本兵食論』で、「米食と脚気の関係の有無は余敢えて説かず」として、栄養面のみから兵食問題を論じていることです。当時の彼は文学評で、識者から「軍扇片手の張り三昧線」と囁かれていたが、実はこのように科学論文にも及んでいたのです。彼の論文がいかにいい加減かは、坂内正の『鴎外最大の悲劇』(新潮選書)に詳しく出ています。

藤原 留学中に学術論文を発表するというのは、私の留学体験からして凄い実績だと思います。しかし、ドイツ語能力は大したものだが、論旨が間違っていたのでは誉められません。森林太郎が地質学者のナウマンの講演を聞いて、森林太郎が批判の発言と記事を書いたのは有名ですが、彼は反対意見を言わずにはいられないという、ちょっと変わった性格の持ち主だったような感じもします。坪内逍遥とも激しい文学論争をしていますね。

西原 森は論争好きで言葉がよくできるから利用され、海軍潰しの手先として使われたという説もあります。というのは、海軍の高木兼寛軍医監は日本食をやめてしまい、西洋式の食事に切り替えていたこともあり、それが陸軍にとってコスト高を招いては困るし、伝統的な食習慣に反するので阻止する必要があったようです。

藤原 彼の直接の上司の石黒忠悳が脚気細菌説で、これを後押ししたのが森林太郎だった。高木兼寛といえば海軍始まって以来の秀才です。ロンドンの医学校に留学して常にトップになり、森有礼駐英公使が日本の誉れだと賞賛したし、海軍の医療体制を大改革したことで有名です。
 高木の前では森林太郎も小粒の留学生だし、そうなると、海軍の英国と陸軍のドイツの対立が影響して、森は陸軍の面目のために意地を張ったのでしょうか。

西原 森がドイツに留学したのは明治17(1884)年の夏ですが、海軍の高木軍医監は森が留守だった時に、米食から麦飯に替えることを提唱して、陸軍でも脚気の患者は激減していたわけです。だが、森がドイツで『日本軍兵食論』を発表したので、それに陸軍が引きずられたとも考えられますが、森を使い海軍に嫌がらせしたのかもしれない。その結果は実に悲惨で、森が主張した兵食論で帝国陸軍の兵士が脚気を患い、いかに大量に兵士が死んだかについては、坂内正の『鴎外最大の悲劇』を読めばよくわかります。

戦死者を4倍にした脚気死の元凶
藤原 そうなると、森鴎外が隠し続けた秘密は脚気問題ですか。

西原 そうです。森林太郎が医務官として出世したことにより、彼の兵食論に従って麦飯をやめ白米と沢庵に切り替えたために、明治27(1894)年の日清戦争の時には、4万人以上の脚気患者が陸軍で発生している。しかも、この戦争の戦死者が977人だったのに対して、脚気による死者はその4倍の4064人も出ている。戦没者の多くが脚気だという大悲劇を生んだわけです。

藤原 戦闘で死んだ者より脚気の死者が4倍とは……。死ななくていいものを殺している点で、今の小泉内閣がやる経済政策と同じであり、もはや支離滅裂というしかない。日清戦争の時の森は、ドイツヘの留学から帰って、軍医としてかなり偉くなっていたはずで、考え違いだったと訂正できたのではないでしょうか。

西原 日清戦争の時の森は陸軍医学校の校長でしたし、戦争中は第二軍兵站軍医部長だったから、陸軍の医者として五番か六番くらいです。しかも、この誤りが訂正されずに「白米万能主義」が横行し、日露戦争の時には25万名の脚気患者を発生させ、2万8000名の病没者を出している。
 しかし、脚気の病因論に関しては細菌説を強く押し進め、東大医学部と文部省のペルツ緒方の一派に対して、コッホの弟子である北里柴三郎(内務省)との対立があり、それがこの問題を一層複雑にしたのです。しかも、陸軍は東大を仲間にした文部省と組んで、北里の内務省や海軍と張り合ったわけです。

藤原 日清戦争から日露戦争までに、10年もあるのに、その間に脚気に対しての処置が変わらず、同じ失敗を繰り返していたというのは、実にお粗末だと言わざるをえませんね。森は日清戦争と日露戦争の中間の時期に、有名な小倉の第一二師団に左遷されていて、その時は師団の軍医部長だったわけでしょう。

西原 そうです。軍医監(少将)だから左遷ではないのに、彼は同級生だった小池正直に先を越されたので、それが自尊心を傷つけて屈辱的になっており、小池医務局長の人事命令を左遷だと反発したわけです。要するにコンプレックスによる妬みの心理です.また、森は「白米万能主義」の欠陥を意識したが、それを改めて自分の過ちを認めてしまうと、権威が傷つくことを恐れたに違いない。官僚特有の無責任主義で放置したということです。
 だが、平時にはそれほど大きな問題にならなくても、戦時という緊急な事態では簡単に破綻する。過酷な条件の中で病死者が続発するという結果になり、病死者が戦死者の4倍という悲劇になったのです。

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藤原 日露戦争の話になって思い出したのですが、かつて橋本龍太郎と石光真清が血縁だと聞いて、陸軍特務だった、石光の手記を熟読したら、日露戦争の初期に彼は第二軍で副官をしていた。その時に第二軍の司令官だったのが奥保鞏で、この間イラクで殺された奥克彦参事官の祖父です。彼は「日本一の戦上手」といわれた将軍だが、第二軍の軍医部長が森林太郎だったのです。第二軍は遼東半島に上陸作戦を担当して、南山攻略に続いて奉天会戦に移ったが、戦力の限界で敵の繊滅はできないで終わり、国力を使い果たした時にアメリカが仲介して、ポーツマス条約で停戦になり、助かった。

西原 陸軍は25万名もの脚気患者を出したというのに、森は責任を取るどころか凱旋して二階級特進し、中将相当である医務局長になったうえに、2年後には帝室博物館館長に任ぜられたのだから呆れる。日清戦争だけでなく10年後の日露戦争でも、陸軍では大量の脚気患者を出したのに、森が編集委員長になって『陸軍戦役衛生史』を編纂した。森はそれをことさらに膨大なものにしたので誰も読めなかった。それで脚気問題は注目されなかったのです。

藤原 それにしてもひどい話だ。

西原 大量の兵隊が脚気で倒れている事実に注目し、私は森林太郎が英国やドイツに操られて、スパイとして利敵行為をしたという仮説を立てました。

藤原 森鴎外がスパイだったという先生の仮説は、あまりに意外すぎて私には信じられません。ビクトリア女王の孫のジョージ五世を軸にすれば、ニコライ二世もウィルヘルム二世も従兄弟関係であり、王室が繋がっているのは事実だけれども、出世主義者で軍人でもある森林太郎が、なぜ外国のスパイになる必要があるのですか。

西原 日本がロシアに勝ちすぎて調子に乗るといけないので、そのために女癖の悪い森を取り込んだ恐れが十分にあります。女癖の悪い軍人を手なずけスパイにするのはわけないことです。戦後のフルブライト奨学生もそうだし、山本五十六の場合にもそれが言われています。二人とも女癖が悪くセックスにだらしなかったから、そこを付け込まれた可能性が高いのです。

藤原 確かに、ベルリン時代の森はドイツ娘と同棲していて、『舞姫』の主人公のエリスが日本まで追いかけてきたし、この事件で多くの人に迷惑をかけています。だが、森がスパイでスリーパーとして陸軍に植え込むなら、ドイツから女が追いかけてくるというのは奇妙で、スパイ工作としてはあまりにも幼稚だと思いますね。

西原 でも、エリスはユダヤ系のドイツ人だったそうです。

藤原 ユダヤ系でもドイツ人であることは事実だし、森の先人としてドイツ女性と結婚した高級官僚には、ベルリン駐在の青木周蔵公使がいた。森はベルリンに到着してすぐに青木公使に会っているので、ドイツ人と結婚しても問題はないはずです。

西原 森を追いかけてドイツ娘がきた時には陸軍は困り、一家を再興しようと考えていた森の両親と協力して、大あわてで森林太郎を結婚させています。日本の文芸評論家や文壇は鴎外を崇め奉るから、一種の聖人としてドイツ時代の森を美化し、日本を代表した留学生として扱っている。しかし、彼の女癖の悪さは知る人ぞ知る事実でした。

藤原 でも、『ヰタ・セクスアリス』を読む限り、彼の品行は悪くなく、「とうとう女というものを知らずに大学を卒業した」とありました。
 鴎外自身がフィクションだと言っているけれど、『舞姫』の中で最初に彼がエリスに出会う描写では、とても真面目でロマンチストの印象が強くて、これは純愛物語だと私は思いました。だから、留学して外国娘と深い仲になって森の二の舞いになったら大変なことになる、と学んで私は慎重になり、プチタミ(彼女)を作らないように用心した思い出があります(笑)。

西原 藤原さんにそんな強い影響を与えたにしても、『舞姫』はあくまでも彼の自己弁明の作品であり、実際の生活と小説はあまり関係ないのです。現にエリスとは同棲して結婚の約束をしており、それで彼女は日本まで追いかけてきた。それだけではなくて、森は女癖が悪くてその道に通じていたから、東京からベルリンにきた軍人たちに女を世話し、後でそれを暴いて筆誅を加えて攻撃している。自分のえげつなさを隠して、他人のことをあばいて騒いだのです。陸軍の誰それはあれをしたこれをしたと暴き、自分はまるで聖人君子のような顔をした。日本人はその虚像に騙されてしまったのです。
(次号に続く)
『ニューリーダー』 2005年3月号《衝撃対談》<下>
西原克成 西原研究所所長・医学博士
VS
藤原肇 在米・国際コメンテーター

「軍医」森林太郎と「文豪」森鴎外
 捩れた人格 犁飾の栄達瓩箸修隷涅瓩妨る日本人の猖騰

乃木将軍は鴎外が殺したも同然
藤原 森鴎外が東京大学を卒業してドイツに渡ってから不品行になり、西原先生がいう女癖が悪くなったとしたら、軍隊という特殊な環境のせいかもしれません。『ヰタ・セクスアリス』の最後の部分にそれが現われていて、ドイツ各地の町を追想する描写があり、そこで出会った女たちのことに触れていますね。

西原 森林太郎軍医は女癖が悪いうえに人がとても悪い。文章を書いては秘密を暴いて筆誅を加える性悪な面があり、時には本心が現われてしまう破目にも陥った。

藤原 そういえば、最初の妻と離婚して独身だった時に、児玉セキという妾を囲って氷屋かなんかをやらせ、この妾の生活観察を『雁』のお玉に投影して、彼一流のロマンチシズムで仕立てて美化したとか。われわれは『雁」を読んで、学生の岡田に対して、若き日の森林太郎ではないかと思っているが、実は鴎外の立場は金貸しの半造だったのであり、高利貸が氷菓子のメタファーとはさすがですね。

西原 もし、『雁」を書いた背景にそんなことがあったならば、読者は完全に手玉に取られたということですが、そこまで読みぬく読者も少ないでしょう。いずれにしても、森林太郎は出世のために多くの人を裏切った。その代表が脚気で死んだ多くの兵隊であり、陸軍の衛生問題の責任者が持つ偏見と自己主張のために、戦死ではなく病死としたのだから気の毒な限りです。
 当時はビタミンについてはまだ知られていなかったが、ビタミンBが完全に欠乏すると細胞のミトコンドリアが働かなくなり電子伝達系が止まって、シアンや一酸化炭素中毒と同じように、心臓が停止して死んでしまう。それが森林太郎の「白米万能王義」の犯罪です。乃木将軍は森のベルリン時代からの親友で、この「白米主義」を信じたので兵隊が脚気で倒れた。乃木将軍は二〇三高地のまずい作戦による責任を感じて、明治天皇に殉死している。いうならば、結果として、乃木将軍は森が殺したようなものです。

『高瀬舟』にみる鴎外の倒錯した妄想
藤原 乃木さんの殉死のショックを契機にして、森鴎外は『奥津弥衛門の遺書』のような殉死を扱った作品を書き、その後は本格的な歴史物に手をつけた。また、評伝を書いたから鴎外は日本を代表する作家になり、文豪としての栄誉にも輝いたことになった。

西原 でも、彼が本当に文豪の名前にふさわしいかは疑問です。文学という狭い世界の中に閉じ籠もっていた若い頃の私ならば、森鴎外に感心して愛読することもできたが、本職の医学における彼の無責任さを知り、その人となりがわかった後は読む気もしません。

藤原 文学らしいものは明治になって始まったが、その代表が留学体験を持つ夏目漱石と森鴎外です。2人は時代を超えていたので高踏派と呼ばれたが、文学という面では日本は小説だけの国であり、バルザックはおろかトルストイやドストエフスキーもいません。だから、近代的な国づくりを始めた日本にとって、文学という領域で森鴎外が果たした貢献は、どうしても高い評価をしなければならない。また、それなりの仕事は残していると思います。

西原 だが、不毛な日本で文学としては一流だからといって、彼が人間として一流だったわけではないし、医師としても二流だった事実は確かだと言える。

藤原 森鴎外はそういう自分の実態を意識していて、それを『妄想』の中に自己批判の形で表現し、「自分のしていることは役者が舞台に出て、ある役を勤めているのに過ぎない」と書いている。だから、鴎外は自分がやっている仕事は仮のもので、その背後には何かがいて振り付けをしている。その脚本に従って芸を演じたのが自分だった、と慙愧の思いで意識していたと思います。

西原 軍医としての森林太郎は演技の中で生きた男であり、先進国のドイツに留学して最新知識を学んだので、自分には権威が備わっていると思っていた。だが、実際の彼は非常に視野が狭い医者であり、語学の能力が優れていたので文章は上手だが、人間的には性格が捻じ曲がっていた。そのために、次々とトラブルの種を作る気の毒な人でした。

藤原 彼の性格が捻じ曲がっていたのではなくて、ラジカル(根源的)にものを考えたせいで、それが天邪鬼のように見えたのだと私は思いますが……。

西原 しかし、そうはいっても性格的に素直ではない。彼は弟の縁談を妬みのためにぶち壊したこともあるし、次男が悪い百日咳で死んだのに感染して、長女が喘息で苦しんでいるのを見て、安楽死させようとしたこともある。それを、舅の荒木博臣に強く叱られた事実もあるのです。その時の経験を捻じ曲げて小説にして、自己弁護のために『高瀬舟』を書いている。自殺して死にそうな人を幇助して罪人となった男が、小説では高瀬舟で牢屋に入ったことを感謝していると言わせて、実に倒錯した筋に仕立てているのです。

藤原 そうでしたか。『高瀬舟』は安楽死についての問題提起だとして、この作品を高く評価している人もいるが、先生は逆に屈折した鴎外の性格を読むわけですね。

西原 鴎外は罪人の口を借りて、「牢屋に入ったら、こんな良い生活ができた」と言わせているが、江戸時代の牢屋には阿漕な牢名主がいて、よほど丈夫な者しか生き残れなかったのです。それを「牢屋では食事も出た上にカネまで貰った」と感謝させている。これは倒錯した妄想が作り上げたフィクションであり、森林太郎は医する心を失った無能な医者として、心の中に鬱屈した劣等感と憂欝があったのでしょう。

藤原 精神分析に基づいた文芸批評をまとめて、森鴎外の秘められた伝記を書いたら面白そうですね。夏目漱石までは民間人だから試みられているが、森鴎外に関しては小倉の左遷を論じる程度です。
 同級生だった小池正直や海軍の高木兼寛に向けた、森林太郎のコンプレックスを主題にして明治の軍事史を書いたら、画期的なものが書けそうですね。

西原 森鴎外がいかにろくでなしだったかという、『鴎外外伝』でも書きましょうか(笑)。

山県有朋にすりよったのは何故か
藤原 先生がそれを執筆する時に忘れないでほしいのは、あれだけ反骨姿勢を取った森林太郎が、なぜ権力の権化だった山県有朋に擦り寄り、卑屈な態度で晩年を過ごしたかについてです。確かに、山県は陸軍のボスとして君臨しており、そのうえに枢密院から貴族院や警察まで支配して、森林太郎にとっては雲の上の人のはずです。また、通説では友人の賀古鶴所に誘われたというが、日露戦争が終わって戦場から帰ってきた森林太郎は、和歌を通じて急速に山県有朋に接近して、まるで幇間のように身を屈めて追従している。

西原 それは同じ長州の軍人としての連帯意識から、自分の立場を守る強力な庇護を期待したせいでしょう。それでも彼は長州閥の中心にいながら、爵位が与えられなかったのは何故でしょうか?

藤原 森林太郎が生まれた津和野藩は長州藩の隣ですが、小さいけれど長州藩とは別であり、自己の思想で独立した立場を貫きました。だから、森が陸軍省に確固とした立場を作るために、個人的な利益で山県を利用しただけです。ところが、軍医としての森の失敗は脚気問題が致命的です。それを知っている人は森軍医の責任を熟知していたから、爵位に関してはそうスムーズではなかったはずです。
 むしろ、私は「和歌」に問題の鍵が潜むと思っている。それをいつか小説に仕立てようと考えたことがあって、祖父にまつわる情報を集めたのですが、私が若すぎてテーマが未だ熟していないために、もう20年以上も放置したままになっています。

西原 それはどういうことですか。

藤原 しゃべってしまうと発酵しないで終わりそうだが、せっかく今日は鴎外について議論をしたから、ちょっと脇にそれるかもしれないが、私が暖めてきた筋書きを披露することにしましょう。
 祖父は森林太郎の後輩として藩校に学び、廃藩置県と廃刀令で挫折してぐれたらしい。それで、鶯を取り竿で捕まえるような人生を送り、世捨て人だったことはさっきしゃべりました。祖母や母から聞いた話だと祖父は拗ね者で、武士の子として刀を振り回すガキ大将であり、近所の子供たちに恐れられていたが、5歳の時から百人一首を取って歩いたことから、「小倉山の謙助」と呼ばれていたそうです。だから、医者の子供で頭がよくてガリ勉タイプの森林太郎は、年下の私の祖父にいじめられた可能性があり、若い頃の西周は 吉田家で勉強した形跡も残っているし、西家と森家は藩医として姻戚関係があります。

西原 そのへんの時代考証をしっかりやることが、小説を書くうえで非常に重要な作業になりますが、米国に住んでそれをこれからするのは大変ですね。

少年期のトラウマと隠し続ける死因
藤原 物語が入ったビンの栓を抜いてしまった以上は、誰かがこの話を作品に組み立てればいいのです。松本清張が『ある小倉日記』で芥川賞を取った時に、私は森林太郎が故郷に近い小倉に3年も住んでいたのに、なぜ津和野を訪れなかったのかについて、松本が触れていないのを不思議に思った。小倉から津和野までは半日で行けたが、小倉という嫌な語感に繋がる町に駐屯しているし、幼い頃の屈辱感の原因だった「小倉山の謙助」がいるから、津和野は森林太郎にとっては鬼門になる。だから、結局はその後も津和野には行かなかったし、遺言に「石見の人森林太郎」と書いても、「津和野の人」と書かなかった理由もわかる。津和野には子供の頃の嫌な思い出があって、それが彼にとって生涯のわだかまりになっていたのではないか。自尊心を傷つけた古傷のせいで津和野を嫌い、生涯にわたって故郷を訪れなかったのであれば、私の爺さんは森林太郎にとって悪夢的な存在です。

西原 子供の頃に受けた心の傷(トラウマ)は劣等感になり、その人の一生に付いて回ることは確かです。しかし、何が森林太郎の心を傷つけたのでしょうか。

藤原 鴎外の評伝を書く人は「浦上崩れ」に注目して、乙女峠のキリシタン弾圧と処刑のせいで、森林太郎は津和野を嫌ったと主張しているが、これは幕府の命令に従った追害だったから、津和野藩を恨む理由としては弱すぎる。しかも、森林太郎にとっては間接的な経験だし、彼が直接に受けた屈辱感として封印したのは、秀才少年に対してのいじめだと思うのです。

西原 藤原さんの祖父が町のガキ大将だったから、狎弔覆衂暫臭瓩凌肯啾析困鬚い犬瓩慎憶のために、鴎外が津和野を嫌ったとしたら新説でしょうね。

藤原 それ以上に重要だったのは百人一首の話であり、森少年は「四書五経」を学んで漢籍に優れていたが、年下の吉田謙助が百人一首の取り手だったので、和歌においてはとても太刀打ちできなかった。だから、その劣等感が潜在意識に定着していて、それが山県有明の和歌を詠む会に森が参加したのだし、古い傷を癒すうえで、役に立ったのかもしれません。

西原 その線は説得力の点でちょっと弱い感じがします。しかし、森林太郎の性格として、嫌なことは絶対に伏せている。
 彼の死因は一般には萎縮腎だとされているが、実は伝染性が強い左肺の結核だった。当時の結核は死の病として嫌悪されており、残された家族が周囲から嫌われるのを恐れたので、自分の病名は親友の賀古だけに教えたが、後は主治医と医者である義兄だけが知っていた。それで、死後30年以上も秘密は保たれていたのです。

藤原 それに関連して知っておく必要があるのは、森の親戚で世話になっている西周のことです。西と一緒にオランダヘ行った幕府の留学生の中に、赤松大三郎(則良)と榎本釜次郎(武揚〕がいた。赤松則良は造船学の大家として海軍で栄達し、榎本武揚は名外交官として活躍したが、オランダ仲間の赤松と榎本の妻は姉妹でした。しかも、森が無理矢理にエリスと別れさせられて結婚した相手は、赤松則良の長女の登志子だったのです。西が仲人をしたが、一年余りで離婚に終わっており、西周との関係にも屈折したものが残ったのです。

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西原 若気の至りで脚気を伝染病と考えた森は、ドイツ語で論文を書いたことを得意に思って、せっかく陸軍が麦飯を採用したというのに、「脚気が減ったのは伝染病の流行が終わったからだ」と言い張って、「白米至上主義」を無理強いし続けた。また、日露戦争の時には前線の軍医や将校たちによって、麦飯による給食の提案があったにもかかわらず、森は海軍に対して反発する気持を抱いていたし、最先端のドイツ医学を学んできた自負のために、強引に問違ったやり方で多くの兵隊を殺した。だから、次には自分の誤りの隠蔽に終始したのです。彼の人生の後半が後ろめたさを伴い、爽やかな気分になれないのは当然です。鋭敏な人にはその暗い影が読み取れるのです。

藤原 しかも、それに少年時代のコンプレックスが加われば、どうしても爽やかな気分にはなれませんよ。

西原 そうです。しかも、乃木将軍が殉死したことにショックを受けて、森林太郎は歴史小説を熱心に書き始めた。
 また、若い頃から上昇志向が強烈だったこともあって、その後は最高位の軍医総監にと栄達した。森林太郎が、脚気問題の隠蔽の工作をし続けたのは当然ですね。

藤原 森鴎外の文章は上手だというほどでもないし、考え方において思想の独創性はない。だが、低俗を排して文体と言葉遣いが端正だから、今頃の作家の幼稚な文章とは風格が違う。それが多くの読者を満足させているのです。最近の日本の作家は饒舌になり過ぎたために、トルストイなら「彼はその日の午後に放蕩した」と書き、わずか一行の記述ですませてしまうことを一冊の本にして、その売り上げで食う薄利多売主義に走っている。その点では森鴎外は日本的なタイプの大文豪ですよ。

西原 まあ、それはそれで各人の好みだからいいでしょう。ただ、私は医者として人々の健康を守るのが仕事だと思うから、自分の診断や処置が間違っていたとわかれば、間違っていたところを明らかにして訂正するし、それがプロとして守るべき倫理だと考えます。ところが、軍医としての森林太郎にはそれが欠けていて、文豪という虚飾に逃げ込んでしまっている。この誤魔化しを日本人が放置しているので、私は医者の立場からの批判を加えてみたわけです。 そうしたら藤原さんがお爺さんの話を持ち出し、ガキ大将にいじめられたことが森少年のトラウマになり、百人一首を取って歩く故郷の子供のイメージが、森鴎外の和歌に対しての傾斜を生んだという。世の中は実に面白いと痛感した次第です。

藤原 森鴎外は確かに日本における文豪だが、彼の歴史評伝が優れているといったところで、注目に値するのは『渋江抽斎』だけであり、『井沢蘭軒』も『北条霞亭』も実に退屈な作品です。森鴎外が書いた史伝小説の中身よりは、彼の言う「歴史離れ」ということのほうが、文学的にははるかに興味深いと私には思えます。
 また、彼が言った「普請中」とか「かのように」という表現が、森林太郎が生きた時代精神を表現しているし、現在にも通用する優れた洞察を含んでいるので、文明評論家としての側面は非常に興味深いです。

西原 でも、脚気を医学的に間違った理解をしたことで、たくさんの兵隊を殺したのに口を噤んだことは、文明における医学史上の大失敗と言うべきです。

藤原 それに、彼は爵位をもらえなくて反発したらしいが、そこに木っ端役人的な名誉欲が読み取れるし、人間的には官僚的な反動主義者だった。いくら日本の他の作家が戯作者に属すとしても、鴎外を安易に「高踏派」とするのはよくありませんよ。

西原 一言で要約すれば「紳士の仮面をつけた俗物」です。彼は外国語の能力があったから優れた翻訳者であり、言葉の面では比較的に誤訳が少なかったが、概念の理解はかなりいい加減だった。その点で、日本文学の本質と繋がっているのでしょう。

藤原 それは文学に限らず日本の輸入品の特徴であり、科学や芸術をはじめ医学も技術もすべてが舶来物です。独創的な発想をする人は西原先生のように、黙殺とか村八分にされてしまうのが日本です。だから、学問の多くが未だに横のものを縦にしたに過ぎず、現在に至っても「普請中」ということになり、森林太郎の青春時代は今に続いている。
 ということで、どうやら結論が出たような感じですね。興味深い議論ができて、どうもありがとうございました。

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