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「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。 山根治ブログ2024年8月16日号(https://yamaneosamu.blog.jp/archives/25314059.html)ら転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
冠省.  貴兄はコメントメール(93)で、バイスタンダー(Bystander)という立ち位置を私に示唆して下さっただけでなく、新制一橋大学を立ち上げた上原専禄初代学長にも言及されており、私を一挙に60年前に引き戻してくれました。
 学部学生時代、前期を一橋(いっきょう)寮、後期を中和寮で過ごした私は、K.マルクス、I.カント、F.W.ニーチェ、古代ギリシャ、W.シェイクスピア、イギリスロマン派詩人P.B.シェリーにのめり込み、授業そっちのけで寮とか音楽喫茶でプータロー仲間との書生談義に明け暮れていました。安保闘争に挫折した貴兄が日本アルプスで思索を重ねられていた頃です。貴著『山岳誌』は“ガイア・ドクター(バイスタンダー)”としての出発点を明示する記念碑であり、私達と同じような懊悩を抱え二十歳を前にして自ら命を絶った原口統三の絶唱・『二十歳のエチュード』に匹敵するものと言えます。

 令和6年7月14日、“過激派の教祖”とも呼ばれた滝田修(本名 竹本信弘)逝去。享年84歳。一ト月遅れの令和6年8月15日付の各紙で報じられています。
 滝田修はドイツの社会思想史、特にローザ・ルクセンブルク(リヒャルト・ゾルゲの母親)の研究者として知られています。8月15日は終戦記念日ですので、因縁めいた思いを抱いたのは私だけでしょうか。
 思い返せば、学部学生時代に寮でくすぶっていた私は、K.マルクスの『資本論』が経済学及び歴史学の理論ではないことに気付き、ローザ・ルクセンブルクの資本蓄積論にのめり込んでいたことがあります。マルクス経済学の亜流と考えられていたものです。私と同世代の京都大学の滝田修が、東京大学の大内兵衛によるマルクス経済学に対して私と同じ疑念を抱いていたことに親近感を覚えます。旧制松江高校の教師であった福本和夫もK.マルクスをソクラテス−プラトンーアリストテレスという哲学者の系譜の中で捉えていた点で滝田修と同断です。滝田修福本和夫も、日本人としてフィロソフィー(愛知)の王道を極めた人物として再評価されるべきでしょう。
➡ https://yamaneosamu.blog.jp/archives/25314059.html
竹本信弘さんが死亡 「過激派の教祖」、実刑も
(東京新聞 2024年8月14日 17時55分 (共同通信))
 滝田修のペンネームで暴力革命を主張し、「過激派の教祖」とも呼ばれた元京大助手竹本信弘さん(84)が、京都市伏見区の病院で7月14日に死亡したことが14日、関係者への取材で分かった。死因は誤嚥性肺炎。1971年に陸上自衛隊朝霞駐屯地で自衛官が「赤衛軍」を名乗る過激派に襲われ、死亡した事件では、強盗致死のほう助罪などで実刑判決を受けた。
 事件は71年8月21日に発生。元日大生らが駐屯地に侵入、自衛官からライフル銃を奪おうとして包丁で胸を刺し死亡させた。
 竹本さんは強盗致死罪などで起訴されたが、一審浦和地裁(現さいたま地裁)はほう助罪を適用。竹本さん側は控訴したが、その後取り下げた。

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