真の「知の巨人」である松岡正剛氏(1944年1月〜2024年8月)が逝かれました。無事の昇天を祈願して止みません。
松岡正剛さん死去 80歳「編集工学」提唱
(東京新聞 2024年8月22日 07時12分)
「編集工学」を提唱し、情報や宗教、美術など幅広い分野で日本文化を論じた、著述家の松岡正剛(まつおか・せいごう)さんが12日、肺炎のため死去した。80歳。京都市出身。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
早稲田大を中退し、1971年に雑誌「遊」を創刊。既存の学問を横断した誌面や先鋭的なデザインが注目を集めた。
異なる分野を結び付ける「編集」の思考法を、出版の枠を超えて応用する「編集工学」を提唱し、87年に編集工学研究所を設立した。
2000年には、インターネット上で毎日1冊ずつ紹介する読書案内「千夜千冊」を開始し、1800冊を超えるライフワークになった。
東京の大型書店「丸善丸の内本店」の店舗内に約3年間、実験的書店を開き、無印良品の書籍コーナーに携わるなど、出版環境が変わる中で読書や書店の可能性を探り続けた。帝塚山学院大教授や、20年に開館した文化複合施設「角川武蔵野ミュージアム」(埼玉県)の館長を務めた。
独自の日本文化論を展開したほか、幅広い分野の研究者やアーティストとの交友で知られ、対談本や共著も多く残した。編集や監修を手がけた書籍に美術全集「アート・ジャパネスク」や「情報の歴史」、著書に「空海の夢」「知の編集術」「日本という方法」など。
〈知の巨人・松岡正剛さん死去〉脳の編集力の秘密「編集的情報圧縮」 不得意な分野ほど情報の「地」と「図」の関係が曖昧に
知の編集工学 #2
2024/08/21/ 16:34
松岡正剛
「知の巨人」と呼ばれた著述家の松岡正剛さんが亡くなった。80歳だった。故人を偲び、著書の一部を抜粋して再編集し、その思考の一端を紹介する(この記事は2023年11月4日に配信した内容の再掲です)。
報告書や提案書など、日々の仕事で多くの人が必要とされている編集力。それには情報を整理する能力が必要だ。我々は情報を整理するとき、どのような道筋で「考えて」いるのだろうか。編集工学研究所所長の松岡正剛氏が『[増補版]知の編集工学 』 (朝日文庫)から一部を抜粋、再編集して解説する。
私たちはだいたい一日十四、五時間を起きて生活している。いま、そのきのうの一日を思い出してみる。たとえば「朝起きて、顔を洗い、新聞を読みながらトーストを食べ、ちょっと雑談をして学校や会社へ行って……」というふうに。
一日を思い出すのに、きのう一日ぶんの十四、五時間がかかるわけではない。一日ぶん思い出すのに一日をかけていたら、たいへんだ。マルセル・プルーストやポール・オースターの小説の登場人物のようにいつまでたっても思い出の中に生きていることになる。だから、誰もそんなことはしない。もっと速く思い出す。けれども、じつは一時間をかけて思い出すことも、ふつうの人には耐えられないものなのである。せいぜい五分か六分で、思い出すことになる。
これは私たちのアタマの中で、一日の出来事が五、六分程度にダイジェストできることを示している。すなわち、十四、五時間の情報は、たかだか五、六分の情報に短縮できるのだ。
これを〈編集的情報圧縮〉という。ついつい体験を圧縮編集してしまうのだ。じつに不思議なことである。そして、この能力こそが脳の編集力の秘密のひとつなのである。これは、私たちのアタマの中がおよそ九〇〇分対五分、もっと数字的にいえば、およそ二〇〇対一の情報短縮比率によって整理されたがっているということを示している。すなわち、大半の情報は情報圧縮された状態で脳の中にしまわれているものなのだ。なぜこのようなことがおこるのだろうか。
机の上にコップがある。
コップを見ているということは、そこに注意(attention)を向けているということである。この「注意を向ける」ということが、編集を起動させる第一条件で、そこに注意を向けないかぎり、どんな編集もおこらない。
編集工学では、この「注意を向ける」という行為を「注意のカーソル」を動かすというふうに言っている。まさに「意を注ぐ」ということで、その矢印が向くところに「注意のカーソル」があるわけだ。
注意とは、わかりやすくいえば、その対象にイメージの端子をそそぐことである。コップならコップという区切りを自分に対応させるのである。コップから注意を離すことも可能だ。机の上のコップの隣にケータイがあれば、そこに注意をすばやく移すことになる。そしてコップとケータイだけに注意が向けられたという記録が残る。それ以外の、空気とか机とか、机の上にのっているものとか、埃とか色とかは、背景に消し去られる。
ひるがえって情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。「地」は情報の背景的なもので、分母的だ。「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。こちらは分子的だ。
私たちは、おおむね情報の「図」だけに注意しながら日常生活をしているといってよい。背景はあまりにも連続しすぎているので、それを省いてしまうのだ。だからこそ、きのう一日のことを思い出すばあいは、総計九〇〇分の情報の「地」から、圧縮した五分ぶんだけの情報の「図」を取り出せる。
私は一時期、ある高名な精神医学者と仕事をともにしたことがあるのだが、そこでずいぶん興味深い現象を観察させてもらった。いまおもえば、貴重な体験だった(亡くなられた岩井寛さんである。岩井先生の最期について『生と死の境界線』という一冊をまとめた)。
ある患者は「この机の上にあるものを言ってください」という医師の質問にたいして、コップやケータイだけの情報の「図」をまったく抽出できない。「ええっと、机の端に黒い盛り上がったものがありますね。それが少し曲がっていて、紙のような文字が書いてある平べったいものとつながっていまして、そこから少し離れているんですが、白くて丸い明るいものがじっとしていますね」などというふうに、情報の「地」と「図」の関係が曖昧になっていく。
私たちにも似たような「地」と「図」の混乱はおきている。
机の上のコップやケータイならまだしも、ちょっとめんどうな現象の説明になると、たちまちにして「地」と「図」を分けられなくなることが少なくない。たとえば「最近の日本経済の動向について」という話題では、「ええっと、大企業は成長がとまっているし、政府の経済政策もさっぱりで、おまけにアメリカからの外圧も激しいうえに、アジアの、たとえば中国の急成長なんかもあって……」などと、しどろもどろなのである。とくに不得意な分野には〈編集的情報圧縮〉がおこりにくくなる。
一本の草花を前にしても、同じことがおこる。「この植物について詳しく観察してください」などと言われると、何が情報の「地」で何を情報の「図」にするか、うまく説明できなくなる。そこに茎があり、葉があり、花があること以上に観察を分化できないのだ。
けれども日常生活はそれで困らない。誕生日にたくさんの花をもらっても、そのいちいちの花の名前がわからずとも、「ああ、きれいな赤い花だなあ」とおもっていればすむ。私たちは体験や経験を編集的に取り出すことを訓練していないのだ。
このような私たちの「注意のしかた」の濃淡をもっと気をつけて見ると、おもしろい問題がたくさん出てくる。
たとえば、コップというひとつの物体は、べつだんそれを「コップ」とよばなくてもいいはずで、「ガラス製品」とか「日用品」とか「グラス」とかよんでもかまわない。水が入ったコップは「キラキラとしたきれいなもの」というものでもある。それなのに、ふだんはコップを「コップ」として片付ける。
すなわち、私たちはコップというものをたくさんの言葉(イメージ)の集合性によって理解しているにもかかわらず、それらを「コップ」という単一の知識ラベルでもって認識できるようにしているのである。
では、コップ、グラス、日用品、ガラス製品、きらきらしたもの、などは何かといえば、それも知識ラベルである。コップをとりまいて、そういういくつもの知識ラベルがネットワーク状に密集しているのだと考えればよい。
脳の中では、これらの知識ラベルは一応は別々のところに貼られている。そして、それらの知識ラベルはその奥にまたいくつもの知識ラベルをこまごまと引き連れている。どれが親ラベルで、どれが子ラベルで、どれが孫ラベルであるかということは、はっきりしない。というよりも、あえて主従関係をつくらないようにしていると見るべきである。
自分で適当な連想ゲームをしてみるとよい。「コップ」から連想されるのが「日用品」や「ガラス製品」であっても、「日用品」から連想されるのは必ずしも「コップ」ではなくて、「歯ブラシ」とか「たわし」とか「モップ」であるかもしれず、「ガラス製品」から連想されるのは「しびん」であるかもしれないのだ。しかも「モップ」からは「掃除」が派生し、「しびん」からは「病院」が出てくる。
つまり、私たちの知識ラベルは脳の中ではかなり複雑なリンクを張っていて、その一端にひっかかっている端末の知識ラベルをクリックしただけでは、何が出てくるのやらわからないほどなのだ。これを編集工学では〈ハイパーリンク状態〉という。この用語はテッド・ネルソンによるものだ。
しかし、いったん連想を開始してみると、とたんに、それらはみごとに情報連鎖の線(リンク)を通してつながってくる。別々のところに貼られているラベルなのに、そこにはあたかもあらかじめ無数の線が張りめぐらされていたかのようなのだ。
ようするに「注意」を向けたところが「仮の親」になり、次々に子ラベルを、その子ラベルが孫ラベルを引き出してくるのである。このとき、脳の中で注意を向けられた「仮の親」が「図」になっていく。
脳というものはそうなっている。
脳の中は、知識やイメージを無数の「図」のリンクを張りめぐらしているハイパーリンクなのである。これを〈意味単位のネットワーク〉とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それらが次々につながり、ネットワークをつくっている。けれども、そのネットワークは一層的ではない。多層的(マルチレイヤー的)で、立体的である。そのため、これはえらそうな思想家たちがしばしば口にすることであるが、「言語は多義的である」などと感じられることになる。
このような〈意味単位のネットワーク〉を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。「考える」とは、ひとまずネットワークの中の「図」のリンクをたどってみるということなのだ。
ただし、ここでひとつ重大な問題が出てくる。それは、ネットワークを進むにしても、どの道筋を進むかということである。つまりどこで分岐するかということだ。それによっては千差万別の考え方になってしまう。そこで、ある道筋を進んだとして、そこで「あっ、これはちがうぞ」とおもって、ひとつ手前の分岐点に引き返すというようなことがおこることになる。もっと以前の分岐点にまで戻ることもある。何度も引き返しはおこることだろう。
このジグザグした進行が、「考える」ということの正体なのだ。それが〈ハイパーリンク状態〉である。思想とは、畢竟、そのジグザグとした進行の航跡のことにほかならない。
●松岡正剛(まつおか・せいごう)
1944年、京都府生まれ。早稲田大学文学部中退。オブジェマガジン「遊」編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授などを経て、現在、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長、角川武蔵野ミュージアム館長。
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松岡正剛
1944年、京都府生まれ。早稲田大学文学部中退。オブジェマガジン「遊」編集長、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授などを経て、現在、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長、角川武蔵野ミュージアム館長。80年代「編集工学」を創始し、日本文化、経済文化、物語文化、自然科学、生命科学、宇宙、デザイン、意匠図像、文字などの諸分野をまたいで関係性をつなぐ研究に従事。その成果を、様々な企画、編集、クリエイティブに展開。一方、日本文化研究の第一人者として私塾を多数開催。
「遊びができないかぎり、編集はできない」 “連想ゲーム”から考える、編集技術とは何か
知の編集工学 #1
2023/11/03/ 16:00
松岡正剛
あらゆる業種で情報発信が行なわれ、ビジネススキルとして必要性が高まっている「編集」。ひとつの言葉から連想できる言葉を伝えていく「連想ゲーム」にその本質が詰まっているというのは、編集工学研究所所長の松岡正剛氏だ。『[増補版]知の編集工学 』 (朝日文庫)から一部を抜粋、再編集して解説する。
「リンゴ→赤→血→けが→スポーツ→野球→ドーム→日本一→桃太郎」。この連鎖で何がおこっているかというと、私たちは「リンゴ」と「赤」という言葉どうしを直接に結びつけているのではなく、〈単語の目録〉と〈イメージの辞書〉と〈ルールの群〉とを動かして、次々に“関係”を繰り出しているのだ。
そこには、言葉の記号レベルではあらわれてこない「連想的な情報連鎖」がおこっている。「リンゴ」から「赤」へ、「赤」から「血」へ、「血」から「けが」へ連鎖が進むのは、そのつど「受け」と「放ち」のスイッチが点滅したからだ。
なぜそんなことができるのだろうか。そういうふうにアタマの中にも点滅がおこるからだ。
誰にも見当のつく例でいうなら、眠りにつく前のベッドの中でなんとなく何かをおもいうかべているとき、私たちは言葉を発しようとしていないのに、次々に言葉やイメージやシーンなどを勝手におもいつく。おかげでなかなか眠れなくなってしまうのだが、そこで何がおこっているのかといえば、〈単語の目録〉と〈イメージの辞書〉が勝手に動き出したのだ。その勝手な動き出しの、もっと過激な自由行動が、夢なのである。夢の中では、たしかに情報連鎖としかいいようのない“関係”の動きが感知されるはずである。これは〈ルールの群〉のほうの箍がゆるんだせいだった。
私たちは、そのような情報連鎖の感覚をつかって、自分のアタマの中と相手の言葉とのアクロバティックな連携をなんなく編集しながら、「リンゴ」がいつしか「桃太郎」になるというこの顛末を、連想ゲームとしてたのしんでいる。
私が注目したいのは、その奇妙な「作用」である。そして、この情報連鎖の感覚をいささか自覚的に再活用することが、これからすこしずつ説明する〈編集技術〉というものになっていく。
そうはいっても、とくに難しい技術があるわけではない。情報連鎖の活用など、料理人やお母さんはもとより、誰にでもそなわっている編集技術である。それには、いま一度、「遊び」に注目してみることだ。遊びができれば編集はできる。
遊びの本質は編集にある。
とくに子どもたちは編集の天才であって、たちまち連想によって遊びを発見する。手元に遊び道具が何もなくとも、二人で土手に寝転びながら雲の形を何かに見立て、次々に「何に見えるか」を言いあう。手近にあるものが自転車の部品や布の切れっ端であっても、子どもたちはこれをつかって遊びはじめることができる。それだけで遊びであり、編集なのだ。
遊びの本質が編集にあるということは、逆に、編集の本質も遊びにあるということである。二十世紀フランスきっての遊学者であったロジェ・カイヨワは、遊びには四つの種類があると考えた。アゴーン、アレア、ミミクリー、イリンクスである。
「アゴーン」は競争で、それぞれの資質が敵対関係になりつつひとつの境界の内部で争われる遊びをいう。大半のスポーツ競技はアゴーンの遊びにあたっている。昔の戦争も、たとえば関ケ原の一戦のように、一定の境界の中で雌雄を決したという意味ではアゴーン的だった。
「アレア」は、ラテン語でサイコロ遊びのことで、相手に勝つことより、見えない運とたわむれることを遊びにする。トランプやマージャンのようなゲームには、配られた“手”という運がふくまれるが、その“運”を加味してたのしむ遊びだ。自分でたのしむ占い遊びなどもアレアに入る。
次の「ミミクリー」は真似の遊びである。何かを模倣したり、転写しながら情報遊戯を楽しんでいく。子どもたちがノートに先生の似顔絵を描きたくなるのも、歌まねや動物のまねをしたくなるのもミミクリーだ。古代ギリシア・ローマでは「ミメーシス」と呼ばれていた。
四つ目の「イリンクス」はめまい、痙攣、トランス状態などをともなう遊びである。子どもたちがくるくると回転したくなったり、ジェットコースターやF1レースに人々が熱狂したりするのは、主にイリンクスにもとづいている。
これがカイヨワが分類した有名な四つの遊びだが、いずれもなかなか編集的であろう。あとで説明するが、これらの遊びには〈自己編集性〉という動きが顕著にあらわれている。
ちなみに、ここにはまた共通して「パイディア」という特徴もある。即興的な興奮だ。また、もうひとつの共通項がある。それは「ルドゥス」というもので、無償の困難に向かっていきたいという態度をともなっている。
この「パイディア」と「ルドゥス」も遊びの本質であって、かつ編集の本質でもある。いわば、パイディア(熱狂)してルドゥス(困難)する――それが編集的遊びというものだ。
カイヨワは、たぶんに身体的で感情的なパイディアとルドゥスをもとに遊びを分類しているのだが、編集の本質にひそんでいる遊びは、じつはもうすこし情報的である。どこが情報的なのかというと、編集工学では、身体が興奮したりスピードに乗るのと似て、アタマの中の情報回路そのものを加速するパイディアとルドゥスが芽生えるからである。過日のモントレーでのTEDで、「ヴァーチャル・リアリティ」(VR)の発案者のジャロン・ラニアーも、ライオンの鬣のような髪をたくしあげながら、「VRはパイディアなんだ」と言っていた。
もうひとつ、カイヨワが言わなかったことがある。それは遊びでは〈ルールの群〉がスポーツや将棋のように非常にタイトであるか、逆に、雲の形を見て遊ぶ子どものように非常にルーズであるか(勝手に自分でつくっているか)、そのどちらかの状態が保証されているということだ。カイヨワは示唆に富む独得の発想をする人なのだが、システム思考という面ではいささか放埒すぎるところがあった。
いずれにせよ、遊びこそは編集の先生である。遊びができないかぎり、ほぼ編集はない。編集技術に分け入るには、遊びと編集とがまざった状態に、一度、頭を突っこませてみるのがよい。
そのことを説明するために、ここでちょっと私が考案したエディトリアル・ゲームを紹介してみたい。私はこれまでに何十種類ものエディトリアル・ゲームをつくってきた。編集の秘密の一端を伝えるためでもあり、多くの遊びが編集的であることを示唆するためでもあった。
ここで紹介するのは「ミメロギア」という名をつけたエディトリアル・ゲームで、おおよそ次のようにして遊ぶ。
紙と鉛筆があればできる。何人でもよい。東西か源平か紅白か、二チームに分かれてもよい。
まず、ディレクターにあたる者が「珈琲と紅茶」「時計とメガネ」「山口百恵と松田聖子」といった、一見似ているようで似ていない一対の用語や、あるいは「馬と竹」「サッカーとジッパー」「トヨタと資生堂」といった、およそ関係のなさそうな一対の用語がランダムに並んでいる紙を配る。
参加者はこの紙に「午前の珈琲・午後の紅茶」とか「後で笑う百恵・先に笑う聖子」といった、それぞれの対比ができるだけ強調されるような言葉やフレーズを書きこんでいく。たとえば「スイカとメロン」ならば、「卓袱台のスイカ・テーブルのメロン」とか「田舎のスイカ・都市のメロン」とか「おじさんのスイカ・おばさんのメロン」とかというように、だ。
このゲームは原則としては対比と連想をたのしむゲームである。その強調の仕方では笑いころげることもあるし、しらけることもある。
情報というものは一対の対比の中に入れてみると、そのイメージサークルの見当がつくことが多い。「山口百恵と松田聖子」「馬と竹」「トヨタと資生堂」という一対のイメージは、すでにわれわれにタイトルやヘッドラインが示す情報の行先をたくみに誘導するのである。さらに〈単語の目録〉と〈イメージの辞書〉を思わず知らずダイナミックにつかうきっかけをつくるのだ。
興味深いのは、この「ミメロギア」というエディトリアル・ゲームをやってみると、何がデキがよくて何がデキが悪いかは、すぐにメンバーのあいだで自然に判断できるということだ。
その場の相互評価性がおのずと発生してくるのだ。すぐに一座の評価基準が自生してくるのだ。これが大事な点である。〔追記=本書の初版が刊行されたあと、私はイシス編集学校という編集を学びあう学校をネット上につくったのだが、この学校ではミメロギア・ゲームが必須カリキュラムのひとつになった〕
権威や他者が評価をくだすのではなく、評価が自発してくるところがおもしろい。だから誰が審判役をやっても、あまり文句は出ない。これは連歌や俳諧にも通じることで、出来・不出来が大事になるのではなくて、その「場」の力にみんながうまく乗っていくことが重要なのである。客観的な評価基準ではなく、その場がほしがっている評価の方向に動くのだ。そのために連歌や連句では「付句」といって、相手の言葉に付け加えるルールが自発していった。そこから「一座建立」という言葉も生まれた。
さらにはゲームを観察してみると、ひとつの言葉がもうひとつの言葉を相手にして「一対の関係」に入るということに、気がつく。そこから言葉というものの本来の動向が見えてくる。
たとえば「口をとじる山口百恵」という言葉が浮かべば、ふと「歯をむく松田聖子」という言葉もくっついてくる。すなわち、Aの情報はもうひとつ別の片割れのBの情報を求めて、その方向にむかって遊びたがっているように見えるのである。
情報が情報を呼ぶ。
情報は情報を誘導する。
このことは本書がたいそう重視していることだ。「情報は孤立していない」、あるいは「情報はひとりでいられない」ともいえるだろう。また、「情報は行先をもっている」というふうに考えてもよいかもしれない。
情報が情報を誘導するということは、その誘導にはおそらく柔らかい道筋のようなものがあるかもしれないということだ。また情報に行先があるのなら、その行先をうまく予測しさえすれば、あらかじめ単語や概念のネットワークをつくっておくこともできるということだ。
もしそうだとすれば、〈単語の目録〉をいちいち〈イメージの辞書〉に対応させずとも、〈単語の目録〉の内部だけでも一定の連環をもてるようになる。単語と単語がリンクを張りあって、それだけでも連鎖してくるのだ。これは、〈単語の目録〉が内部構造をもったというふうに考えることができる。単語リストがそれぞれ樹木状につながり、リストからリストへ移動する指示セットが用意できたからである(このことを専門的には「有限状態モデル」とか「マルコフ・モデル」という)。
連想ゲームは、このようなことを私たちに示唆してくれる。
かくて私たちは、連想ゲームなどの遊びをとおして、〈編集的状態〉というものがどういうものかということを知っていく。情報の連鎖の中にいかに入っていくかということ、そこにこそ編集の秘密が待っている。
コメント
コメント一覧 (2)
この記事に辿り着け感謝しています。
コメントをいただき、ありがとうございます。
対談本『初めて語られた科学と生命と言語の秘密』では、松岡さんと津田さんが科学と生命そして言語の関係性を探求し、概念や情報を理解しやすく伝えるための「方法」や「手段」として、言語や編集工学を乗客(読者)に伝えるための「ヴィークル」として活用しています。津田さんの「わかることはかわること」というフレーズから、理解することが自己変革や成長を自覚する(促す)ための媒体としての役割を果たしていると受け取りました。お二人の対話は、時に細部に迷いがちな読者(乗客)を、大局観ある常客(上客)へといざなう「ヴィークル」でもあり、大変ありがたく思っています。
この記事にご訪問いただき、を感謝いたします。
大きな笑顔の佳き水曜日をお過ごしください。朝陽を浴びながら。