平安


リデル・ハート氏(1895年10月〜1970年1月)の「Strategy(戦略論)」を再読し、以下の一文が心に響きました。

But the less that a nation has regarded for moral obligations the more it tends to respect physical strength.(道徳的責任感の薄い国家ほど、物質的な力を大きく尊重する傾向がある)(p359, A Meridian Book)

この一文から、他国からの攻撃ではなく、自己エネルギーの枯渇や内部腐敗によって滅んでいった国家群を思い返しました。

歴史を教訓とし、右腕の軍事力と左腕の経済力を背景に、日本政府が国際関係の調整役として、いかに賢い戦略を展開するかが大切。核の廃絶そして平安には、moral obligations(道徳的責任感)を核保有国に植え付ける(implementする)ことが必要条件となります。

ところで、ハート氏の『第二次世界大戦』(中央公論新社,1999年)で、彼は原爆投下について、日本の降伏が時間の問題であったため、そのような兵器の使用は必要なかったと批判しています。また、連合国側の無条件降伏要求が戦争を長引かせ、多くの犠牲を生んだとも指摘しています。


良き日曜日・連休をお過ごしください。

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わが友DJ Wmehallerの番組での紹介で知りました。Very Goodです。円形ワイプが懐かしい。https://www.fmnaha.jp/info/240605getreadytogo


閑話休題(それはさておき)


ことしのノーベル平和賞は、1956年に結成の日本の原爆被爆者の全国組織で、被爆者の立場から核兵器廃絶を世界に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協/ Japan Confederation of A- and H-Bomb Sufferers Organizations:東京都港区芝大門1丁目)が受賞することになりました。核兵器のない未来を目指すための道筋を草の根運動により示したことが、“今更ながら”評価されたのです。核戦争を医療関係者の立場から防止する活動を行うための国際組織である核戦争防止国際医師会議(International Physicians for the Prevention of Nuclear War: IPPNW)は、1980年に設立され、たった5年後の1985年にノーベル平和賞を受賞。その理由は、 "for spreading authoritative information and by creating awareness of the catastrophic consequences of nuclear war"(核戦争がもたらす悲惨な結果について理解を広めるのに貢献)でした。その10年後の1995年にはパグウォッシュ会議(Pugwash Conferences)が、"for their efforts to diminish the part played by nuclear arms in international politics and, in the longer run, to eliminate such arms"(国際政治における当面の核兵器の削減と、長期的な核廃絶のための努力に対して)を理由にノーベル平和賞を受賞。加えて、2017年には2007年設立の核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons: ICAN )が "for its work to draw attention to the catastrophic humanitarian consequences of any use of nuclear weapons and for its ground-breaking efforts to achieve a treaty-based prohibition of such weapons"(核兵器の使用による、人類への壊滅的な結果に注目を集めさせ、その廃絶のための条約締結を達成した画期的な努力に対して)を理由にノーベル平和賞を受賞しています。これら3つの団体の根底にある被爆者の存在とその運動が、途轍もない時間をかけて評価されたわけです。随分の長い時間、ノーベル平和賞委員会の面々は被爆者を無視できたものです。日本被団協の受賞理由は、"for its efforts to achieve a world free of nuclear weapons and for demonstrating through witness testimony that nuclear weapons must never be used again"(核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して)ですが、半世紀以上前から分かっていたことではありませんか。
追記:本稿のこのパラグラフに関して、自分自身納得がいくように書き換えました(10月19日23時)。

原水禁=原水爆禁止日本国民会議はこの受賞について10月12日付で以下の声明を発表しました。
日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞に際して
ノルウェー・ノーベル委員会は10月11日、今年のノーベル平和賞を日本原水爆被爆者団体協議会(日本被団協)に授与すると発表しました。被爆者が二度と核兵器を使ってはならない、世界に核兵器はいらないと訴えてきた活動が高く評価されたものであり、これまで活動を積み重ねてこられた日本被団協のみなさんへ、心より敬意を表し、受賞をお慶び申し上げます。

広島と長崎に原爆が投下された1945年から9年後の1954年、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被爆したことをきっかけに、国内で原水爆禁止運動が高まりました。原水爆禁止を求める署名活動は、「核実験反対」「核兵器反対」の全国的な運動として津々浦々で展開され、3200万筆を超えて集められました。日本被団協はその2年後の1956年に被爆者の全国組織として結成され、被爆の実相を伝えるために国内はもとより、海外でも講演や被爆証言などを積極的に積み重ねてこられました。

これまでに被爆者のみなさんが語ってきた凄惨な被爆の実相が、国際社会における核兵器の非人道性を明らかにし、またヒロシマ・ナガサキ以降今日まで、戦争による核兵器使用を阻む最も大きな力となってきました。ノーベル委員会が「核のタブーの確立に大きく貢献してきた」と述べているように、被爆者のみなさんが果たした役割を重く受け止める必要があります。

世界では、核兵器を所有することで互いの緊張状態を作り、戦争を回避しようとする「核抑止論」への傾斜が強まり、核保有国から核兵器使用の威嚇が公然と発せられている現状があります。日本国内においても「核共有」を検討すべきなどと声高に主張する政治家さえ見受けられます。

しかし核兵器が存在する限り、核兵器使用のリスクは永遠になくなりません。被爆者が「二度と自分たちと同じおもいを他の誰にもさせるわけにはいかない」と語ってきた原点は被爆の実相であり、今こそ世界はそこに向き合い、学び、核兵器使用が迫る危機的状況を乗り越えていかなくてはなりません。

2021年には国際条約として核兵器禁止条約(TPNW)が発効しました。核兵器のない世界は具体的に達成できる未来であるということが確立されたのです。世界で核兵器の非人道性の確立に尽力してきた被爆者のおもいを真に受け止めるのであれば、ヒロシマ・ナガサキを経験した日本こそが、今すぐ核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。2023年12月に、ニューヨークの国連本部で開かれた第2回締約国会議には、アメリカの「核の傘」のもとにあるドイツやベルギーなどもオブザーバーとして参加しましたが、残念ながら日本政府の姿はありませんでした。国内においては、被爆者援護の残された課題である長崎の「被爆体験者」問題があります。日本政府は一日も早く「被爆体験者」は被爆者だと認め、すべての被爆者の救済にとりくむべきです。

ノーベル委員会の説明した授賞理由の中には、「いつの日か、被爆者は歴史の証人ではなくなることでしょう。しかし、記憶を留めるという強い文化と継続的な取り組みにより、日本の若い世代は被爆者の経験とメッセージを継承しています」とあります。今後も原水禁は、被爆二世三世や高校生・大学生等といった次の世代に、確実に被爆の実相が継承されるよう運動にとりくんでいきます。

2025年には被爆80年を迎えます。日本被団協がノーベル平和賞を受賞したことに私たちも励まされながら、原水禁は今後も「核と人類は共存できない」との立場に立ち、核も戦争もない社会の実現に向け、全力でとりくんでいく決意です。

2024年10月12日
原水爆禁止日本国民会議
共同議長 川野浩一  金子哲夫  染 裕之


追記2024年10月19日22:09
鈴木史朗長崎市長「地道な取り組みが世界に認められた証し」
(NHK 長崎 10月11日 20時53分)
日本被団協がノーベル平和賞を受賞することが決まったことについて長崎市の鈴木史朗市長は「被爆地・長崎を代表して心からお祝いを申しあげます。平均年齢が85歳を超える被爆者の皆様の長年の地道な取り組みが世界に認められた証しであり、混迷を極める国際情勢の中で『核兵器のない世界』の実現に向け、世界が大きく舵を切る契機となることを期待しています」というコメントを発表しました。

日本被団協のノーベル平和賞受賞が決まったことを受けて、長崎市の鈴木史朗市長は長崎市役所で取材に応じ、「心から『おめでとうございます』とお喜びを申し上げたい。核兵器なき世界の実現に向けた長年の被爆者の努力が世界に認められたということで本当にうれしく思った。その一方で、もっと早く受賞してよかったのではという思いも持っている。この取り組みをどう次の世代に継承していくかが重要な課題となっている。今回ノーベル平和賞を受賞したことが、核兵器なき世界の実現に向けた大きな推進力と励み、はずみになることを大きく期待する」と話していました。
ナガサキの被爆者たち 谷口稜曄の生き方 1
(長崎新聞 2013/03/17 掲載)
闘い 体に刻まれた爪痕 「語ることは生きること」
2013001
深くえぐれた谷口さんの胸部。人生は原爆の後遺症との闘いだった=長崎市内の自宅
床擦れでそげ落ちた胸部の筋肉。心臓が脈打つのが見て取れるほど深くえぐれている。熱傷を負った背中は皮膚組織の一部ががん化。石のような塊ができ、横になるだけで痛みが走る。汗や皮脂が出ず、皮膚が乾燥してひび割れるので保湿用の軟こうが欠かせない。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)会長の谷口稜曄(すみてる)(84)。その体に刻まれた原爆の爪痕が、闘いの歴史を物語っていた。

「遺言だと思ってほしい」。昨年5月、長崎市の平和公園に程近い長崎被災協の一室。谷口は修学旅行の中学生約70人と向き合っていた。同年1月に肺炎をこじらせ入院し、同3月に退院。約半年ぶりの被爆体験講話だった。

谷口が生徒たちに自分の半生を語り始めた。16歳の時、郵便配達中に爆心地から1・8キロの同市住吉町で被爆。熱線で全身を焼かれ、うつぶせのまま過ごした1年9カ月を含め入院生活は3年7カ月に及んだ。戦後は被爆者運動にその身を投じ、2006年から長崎被災協会長、10年から日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員も務める。

谷口が示した少年の「焼けた背中」のカラー写真を食い入るように見詰める生徒たち。赤くただれたその背中は、原爆投下から約5カ月後に米国戦略爆撃調査団によって撮影された谷口自身の姿だ。「14回入院し20カ所以上、手術した」

一昨年、昨年と肺炎をこじらせるなど近ごろは体調を崩すことも増えた。多いときは年間300回を数えた被爆体験講話だが、依頼の多くを断らざるを得なくなっている。

「久しぶりだったから。ちょっとね。疲れたね」

約半年ぶりの講話をこの日3回こなした谷口は、疲労感を漂わせながら、その表情は充実しているようにも見えた。だが20日後、背中に痛みを覚えた谷口は再び手術台に上った。

体調は万全ではなかったが昨年9月、語り部に復帰。今月初めに臨んだ本年最初の講話は、せき込みながら語り続けた。生き延びた者の「執念」が漂う。

「生きる力をくれるものはありますか」。講話を聞いた児童の1人が尋ねた。「原爆への憎しみ、結婚、家族」。谷口は答え、こう続けた。「語ることは生きること。いつ死ぬか分からないが、皆さんにこの事実を伝えていかないといけない」=文中敬称略= ◇

被爆70年に向け、長崎原爆の原点を見詰め、被爆者の生きざまを伝えるシリーズ「ナガサキの被爆者たち」の2回目。84歳になった今も、原爆の後遺症と闘いながら声を上げ続ける谷口稜曄さんを見詰めた。


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