「藤原さんからのコメント・メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。 山根治ブログ2024年10月22日号https://yamaneosamu.blog.jp/archives/25902194.html)ら転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
コメント・メール(101)です

 山根治さま

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 前回はインテリジェンスを扱い人工衛星写真に触れたので、今回は衛星写真の解析について論じ、45年ほど前の日本状況や私が体験した昔話を紹介し、技術の変化と発展の驚異を示したい。その頃はケイタイもなくパソコンは試作の段階でアップルがLisaを開発したが、一台が何と一万ドルもし庶民には高嶺の花であリ、IBM-360とパンチカードが君臨していた。

 今から見ると昔話だし驚く若者も多いだろうが、アポロ11号が月面到着に成功し、米国が宇宙に乗り出して10年後だから、資源衛星の写真の活用は最先端の仕事に属していた。そんな体験談については、コメントメール6として、『日本のゾンビ政治の病理』に収録したが、その時の情景一端を紹介すれば次のような記述になる。

 <・・・1970年代末の頃ですが、人工衛星を使った探査に関し、関西経済同友会で講演した後で、同じ話を自衛隊の陸将から防衛大学校の学長に話して貰えないかと頼まれ、私は浦賀に行きました。そして、二時間ほど解説した後で昼食を食べて欲しいと言われ、「わが校の学生たちには、三割の麦飯ご飯や柔道と剣道の訓練により、厳しく鍛えている」と言われたが、人工衛星が飛び交う時代に、何たる時代錯誤かと呆れた話は、『教育の原点を考える』に書きました。 その時の土田国保校長は警視総監をやった人で、真面目な性格で知られ剣道七段の達人だったが、自衛隊が『ポリ公発想に支配されていた』のでは、日本の安全保障はダメですね。・・・>

 1970年代の末の日本は経済大国と評価され、ハードの面では実力をつけ、「Japan as Number One」と褒められて、いささか得意になったがソフトでは脆弱であり、多くの弱みを克服できなかった。また、1980年代には経済摩擦が経済戦争に移行したから、布陣に日航123便事件を使いプラザ合意を仕立て、日本にバブル経済を仕掛け中曽根内閣がそれに乗せられていた。
 https://www.fn-group.jp/3838/

 そんな頃に独立した私は十年勤めた多国籍石油企業を辞め、コンサルタントとして独立した後でカナダから米国に移って、石油開発会社を立ち上げたが、パートナーの一つがサントリーだった。それには妙な因縁があり、事情を物語っている記事が『地球発想の新時代』の中にあるので、脱線するがエピソードとして、その件についてお喋りをしてみよう。

 <・・・今ならばもう時効みたいなものだから、公表してもかまわないと思いますが、ある時期から日本のサントリーが、石油開発ビジネスのパートナーになっています。そのきっかけをお話しましょう。一九七十年代末のことです。
 ロッキー山脈の景観で有名なバンフには、スプリング・ホテルの対岸にバンフ高等芸術学院があり、北米全域から選抜された奨学生を対象にした、夏季講座が毎年開催されているのです。 当時オンタリオ州の大学で教えていたチェリストの堤剛さんは、夏になるとこのバンフに講師として教えに来て、よくわが家にも泊まりがけで来てくれました。その堤さんがサントリーの佐治会長のお嬢さんと結婚したのです。
 そんな関係もあり、佐治さんの家族とバンフで会食したとき、日本の政治的混迷と経済界の 不見識をかなり痛烈に批判しました。家族的な雰囲気で過ごす食卓なのに、場違いの議論が始 まったものだから、佐治さんも辟易したのでしょうね。「そんな話は私にだけしないで、大阪に来て皆に聞かせてください」と言われて、私は次に帰国したときに連絡をすることを約束し、それが翌年の関西経済同友会での講演として実現しました。
 そのときの縁でサントリーが石油開発に関心を持ち、パートナーになりましたが、私がやりかけていたベンチャー・ビジネスは、機敏な行動力と素早い決断が生命力であり、サントリーのような大組織には不向きです。・・・
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 こんな具合で計画は始まり、50本ほど石油井戸を掘って、私は渡米した夢を実現するために、カンサスからテキサスに移り新しい体験をした話は、『アスペの三奇人交遊録』の中に書いた。共同事業の前段階で「関西経済同友会」で講演したのが、人工衛星の写真解析の話題であり、当時の日本人のレベルでは、私は宇宙人と思われたに違いなかった。それは防衛大学での反応に、如実な形で表れていたからだ。

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 サントリーとの共同計画により、当時の日本の産業界が持つ組織的な問題点について、私は多くの教訓を学んだが、就職希望者が最も多いしユニーク経営を誇る会社でも、組織的な問題が山積みだった。

 それは私の視点と立場はシリコンバレーで創生中だった、ベンチャービジネス精神で新時代を作る挑戦だから、問題の一端を『アスペの三奇人交遊録』に、私は以下のような忘備録として記した。

 <・・・サントリーの石油開発への参加は佐治社長の思い付きであり、役員のほとんどが反対の立場を表明して、社長と国際本部長だけが支持をし、ゴルフ場投資に反対した件で国際本部長は窓際族になった。
 その後に国際本部長は社長としてTBSブリタニカ出版社に転出し、事態は鎮静していたが、経営陣は鳥井一家が占め、私が余計なことを言えば養子に出た佐治社長は、立場的に苦しいという。そこで遠慮した私はサントリーには行かずに、子会社のTBSブリタニカの社長室に堀出社長を訪問して、相手側の内情を調査し全体像を理解する努力をした。
 サントリーの創業者は寿屋を作った佐治信治郎で、次男の敬三は養子として名古屋の佐治家に行き、長男の吉太郎の妻春子が小林一三の娘だから、寿屋は鳥井家が支配していた。寿屋に入社した佐治敬三は、軍艦の設計と「平賀粛学」で知られた平賀譲東大総長の三女好子と結婚し、そんな家庭の事情もあり、佐治敬三はストレス解消に文化路線の推進を試みた。
 だが、長男の信忠を出産して佐治好子は21歳で死去し、幼児を抱えて困った佐治敬三は、住友銀行の大平賢作頭取の娘で、GHQに勤務していた大平けい子を後妻に迎えた。大正時代の後半になり、阪急電車の小林一三が神戸線を完成してからは芦屋に豪邸が立ち並び、高級住宅地の代名詞は芦屋になった。
 だが、それ以前の段階だと商業都市を誇る大阪では、大商人や実業家が選ぶ邸宅地の代表は帝塚山で、お屋敷町の筆頭として押しも押されぬ横綱だった。大平けい子は富豪が住む帝塚山で生まれ、そこで育った頭脳明晰なやり手のお嬢さんで、戦後の苦境に喘いでいたサントリーとGHQを結び、事業の再建に大いに貢献した。
 私はコンサルタント役で多くの人に知り合ったが、成功した人の背後には賢夫人が存在し、賢明さでは御主人の数倍であり、脇が甘い亭主を支えて手綱をきちんと引き締めていた。ピーター・ドラッカーのDoris夫人、チャルマーズ・ジョンソンのSheila夫人、森暁夫人の柴田早苗さん、佐治敬三のけい子夫人などのように、例外なく微笑の下には智慧の眼光が輝いていた。

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         ドラッカー博士夫妻     ジョンソン博士夫妻

 将来計画の交渉は難航したので日本に出かけ、ベンチャー路線の説得を試みたが、サントリーの取締役会は鳥井一族で固められ、この壁の堅固さを前に私は自分の無力さを痛感した。1980年代半ばのサントリーは電化製品のソニーと並び、大学生の人気の的であり、就職したい若者が行列し希望を託す会社だったが、重役の頭脳は古色蒼然で、浮利を追う儲け路線だったので諦めた。・・・>

 数年間やった共同事業で、最初の一年間は国際本部長として、堀出さんと一緒に仕事したが、本好きの彼は子会社に移り、TBSブリタニカの社長に栄転する形で活躍の場を移した。京女を嫁にしたいと思い関西に都落ちしてから、若き日の海外行きの夢で大阪商船に就職したのだが、経理担当では船に乗れず、そこでスカウトされた機会に堀出さんはサントリーに転職した。

 メセナに熱心な佐治社長は、百科事典の出版に興味を抱き、TBSブリタニカを買収して、出版文化の事業化を試み、次々と外国企業を買収して堀出さんを社長に送り込んだ。脇の甘い佐治社長の好みで、『ワシントン・ポスト』の名声に惹かれ、「ニューズ・ウィーク」を買収し日本語版を編集したが、私が不用心だと見たのは、この雑誌はCIAのカバーで、かつてハリー・カーンが社長だった。

 堀出さんが社長になり、一番奥の社長室に行くにはTBS・Bの編集部を通るが、隣には「N・W」の編集部が並んで、ガラス越しに人の動きが見え、NICの情報官だったEzra Vogelの姿があった。堀出さんの親切心もあり、『湾岸危機』と『脱藩型ニッポン人の時代』が出たが、『間脳幻想』はTBSで出版が決まっていたのに、友人の落合莞爾が出版社をやりたがり、私の一存でそちらに回しTBSに迷惑をかけた珍事もあった。 
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 その件に関しての記述は、落合莞爾に触れる時に回し、ここでは取り上げないが、私の愚行で迷惑をかけてしまい、出版局長が責任を取り平の部員になる破目で、とても謝り切れない過ちを犯した。こうした愚かなミスは気の迷いから起きて、多くの人に迷惑をかけたが、1990年にはクウェートにイラク軍が攻め込み、湾岸戦争が起きており、実に波乱に満ちた時代だった。

「マスコミ3大タブーに命賭す」
(金融ファクシミリ新聞 2024年04月01日)
経済アナリスト・獨協大学経済学部教授
森永卓郎 氏

森永卓郎――昨年末にステージ4のすい臓がんであることを公表してから、精力的にメディア業界のタブーについて発信されている…。

 森永
 私はメディア業界で仕事を四半世紀以上も続けているが、この業界で絶対に言ってはならないタブーが3つあった。それはジャニーズ問題、「ザイム真理教」、日本航空123便の墜落事故で、このことを口にすると即刻業界から干されることになる。私も子どもを育てている間は家庭があるため本気でこの3大タブーと戦うことができなかった。しかし、ジャニーズ問題を英国のBBCが報じたことで、日本のメディアの報道姿勢が変わりつつあることを目撃したとき、世の中は大きく変わるのだなと強く感じた。これまでは、ジャニーズの悪口を言ったら即刻干されるし、ジャニーズ事務所の所属タレントが事務所を退所すれば当分はテレビに出られない状況だったが、今では退所して翌日にテレビに出られるほど正常化している。残るタブーは「ザイム真理教」と日本航空123便の問題で、ここ数年は2つの問題を世に問うために活動していると言っても良い。このうち、「ザイム真理教」について記した『ザイム真理教――それは信者8000万人の巨大カルト』(発行:三五館シンシャ、発売:フォレスト出版)は、経済書にもかかわらず異例の18刷まで増刷している。残る日本航空123便については、昨年の12月までに9割方書けていたが、がんの告知を受けて抗がん剤を打ったところ全く動けなくなってしまったため作業が全く進まなかった。ただ、新薬を投与したおかげで思考能力が回復してきたため、ICレコーダーに吹き込んだものをIT企業に勤める次男に頼んで原稿に起こしてもらった。普通の人はがんになったら残りの人生を楽しんで終わろうと考えるようだが、私の場合は戦いながら死のうと考えた。がん宣告されたときに余命半年も無いと医師から伝えられたため、今回、文字通り命を賭けて『書いてはいけない――日本経済墜落の真相』(発行:三五館シンシャ、発売:フォレスト出版)を書きあげた。日本経済が大転落してしまった背景には、財務省の緊縮財政に加え、日本航空123便を契機とした対米全面服従路線に走ってしまったことがあると、世に残したい。

――日本経済が財務省の財政均衡主義で悪くなっていると…。

 森永
 1980年代半ばまで日本のGDPは世界の18%を占めていたが、今はたった4%と、4分の1以下に大転落してしまった。消費税が導入される前の1988年と現状のサラリーマンの手取り収入を消費税の影響込みで計算すると、1988年よりも今の方が低い。日本以外にそんな国はどこにもないし、これからも増税・増負担が繰り返されようとしている。今はまだどう考えてもデフレだが、そのなかで日銀は3月〜4月に金融引き締めに向かい、財務省は異次元少子化対策増税や防衛増税などの負担増を行い、さらに手取りを減らそうとしている。この背景には、財務省が熱心に「布教」する、「ザイム真理教」がある。ザイム真理教の教義は「財政均衡主義」だが、経済学では景気が悪化したときに財政出動を行って需要を喚起するのは当たり前で、短期的な財政均衡主義は誤っていることは自明だ。さらに、長期的にも財政均衡主義は誤っていることも説明できる。財政の穴埋めのために発行した国債の元本は借り換えによって日銀が永続的に保有することで政府の返済の必要がなくなり、利払いについても政府が日銀に支払った利息はほぼ全額国庫納付金として戻ってくるため、実質的に利子負担はない。一方、このやり方を続けるとハイパーインフレが訪れることになるが、日本の場合、このやり方での財政資金調達の天井が相当高いことをアベノミクスが証明している。この点、経済学的にも説明が可能なこの理論がなぜ世の中に浸透しないかというと、財務省が政治家と国民を洗脳し、大手新聞社をも強力なサポーターとする宗教的メカニズムが働いているためだ。実質賃金が低迷するなか物価は上がり続け、国民生活は厳しくなる一方だが、これを打開するには財政均衡主義から脱し、大幅な減税と財政出動を行わなければならない。

――確かに、実質賃金が減少している一方で、税収が大幅に増加していることへのマスメディアの批判は見当たらない…。

 森永
 ジャニーズについては、既に多くの国民が知るところになったが、最高裁でジャニー喜多川被告の刑罰が確定したものの、マスメディアはほとんどが報道せず、その後相当の年月を経てBBCが報道して大騒ぎになった。「ザイム真理教」についても、35年以上前よりも手取の賃金が低く、その間GDPも全く成長していないことについての批判がマスメディアでは見当たらない。ゆえに、多くの国民が経済で何が起きているのか、全く理解できていないのが現状だ。

――日本航空123便の墜落事故については…。

 森永
 新刊で最も世に訴えたかったことが、この日本航空123便の墜落事故の真相についてだ。当時は、中曽根内閣が打ち出した防衛力増強に対して野党や国民がかみついていた時代だった。今と時代が全く異なっていて、社会党は自衛隊が憲法違反だと訴えていたし、大多数の国民は防衛費を増やすなんてとんでもないと考えていた。日本航空123便の墜落事故についての公式発表では、1985年8月12日の午後5時12分に羽田空港から伊丹空港に向けて飛び立った日本航空123便は、伊豆半島に差し掛かった時に米ボーイング社の修理ミスで圧力隔壁が破断し、そこから噴き出した空気が油圧系統を破壊して、コントロール不能に陥ったとされている。ただ、当時からおかしな点が何点もあると考えていた。まず、123便はエベレストの頂上に近い高度を飛行していたので、圧力隔壁に穴が空いたなら急減圧が起こり、搭乗者は目や耳を痛めてしまうはずだが、生存者の目や耳にそんな外傷はなく、ボイスレコーダーを聞くと操縦士や副操縦士、航空機関士が酸素マスクをしていないことが明らかになっているが、急減圧が起きた場合そんなことはありえない。さらに、墜落現場についての情報が二転三転し、翌日の朝まで分からなかったことも不可解だ。レーダーは墜落直前まで123便を追尾していたはずだし、目撃証言によると、123便を自衛隊のファントム機・二機が墜落直前まで追いかけていたという。自衛隊機が目の前で墜落する瞬間を見ているはずなので、政府がそれを把握できないということはあり得ない。加えて、今回調べて分かったことだが、メディアも当日に墜落現場を把握していたことが明らかになっている。最初に墜落現場を発見したのはラジオ局の文化放送の報道記者だった。たまたま休暇を取って近くに滞在していて、本社からの情報提供を受けて事故現場に近い長野県北相木村に行ったが、彼が書いた回顧録を読むと、「現場に着いたが、実際は山の向こうの御巣鷹方向に赤い炎が上がり、空が真っ赤になっていて、心が痛んだ」と書いてある。文化放送にお願いして社内報を見せてもらったが、彼は実際にそのことを書いていた。メディアも当日の夕方にはおおよその場所を把握していたにもかかわらず、翌日朝まで事故現場の報道をしなかったということだ。さらに、ニュースステーションが1995年に報道しているのだが、米軍はC130という輸送機で墜落現場を墜落直後に発見して、当日のうちに横須賀基地から救援用のヘリコプターを飛ばしていた。ロープをおろして救援に入ろうとした時点で、日本政府からの帰還要請を受けて、米軍は被害者を救援できたにもかかわらず帰らざるを得なかった。この告発をニュースステーションがしたが、その後にテレビや新聞が取り上げることはなく、一切無視されている。

――墜落事故現場で何が起こっていたのか…。

 森永
 現場では実に恐ろしいことが起こっていた。公表された飛行ルートでは何らかの形で事故が発生した123便は羽田空港に戻ることを目指し、山梨県大月市の上空を一周したとされたが、それを見た私は最初、日航123便は迷走状態に入ったと考えた。ところが、高度も含めて正確にルートをたどると、米軍の横田基地に着陸するための正確な高度を下げるルートを辿っていて、もう少しで横田基地への着陸態勢に入り、米軍も横田基地に着陸許可を出していたという証拠がある。そこで、機長のボイスレコーダーの記録では、「このままでお願いします」との記録が残され、つまり、このまま横田基地に着陸させてくれという依頼だと思うが、その後123便は北に向かう。123便の機長のボイスレコーダーの情報はその部分が消され、北に向かった原因は全く分かっていないが、日本政府からの指令なのか、日本航空からの指令なのか、追尾していた自衛隊機からの指令なのか、目指す方向を横田基地から北に変更したが、高濱機長は「これはだめかもしれないね」と弱気のコメントを残している。それでも123便はあきらめなかったことが明らかになっており、公表されている飛行ルートには入っていないが、地上からの目撃情報で長野県の川上村のレタス畑に不時着しようとしたことが明らかになっている。そこでもなぜか不時着が許可されず、山間を縫って御巣鷹山の尾根に向かい、第4エンジンが粉々になった姿で見つかる。公式見解では、墜落するときに立木に当たってエンジンが木っ端みじんになったとされているが、ジャンボ機のエンジンは7トンあり、バードアタックなど強い衝撃を普段から受けることが想定されているため、木に当たったくらいで粉々になることはない。自衛隊がミサイルを撃ち込んで撃墜させた以外の原因が見当たらない。

――なぜ自衛隊は日航123便を墜落させたのか…。

 森永
 それには2つの説がある。1つ目は相模湾で新たに引き渡しを受け、訓練を行っていた護衛艦に爆薬を積んでいないミサイルを搭載していて、何らかのミスでそれが上空に飛び、それが123便に当たってしまったという説だ。2つ目は、無人標的機を狙ってミサイルを撃ち込むという訓練をしていたが、何らかの事故で無人標的機が行き先を失い、123便に当たってしまったという説だ。私は軍事の専門家ではないので、どちらが正しいかどうかはわからないが、いずれにせよ自衛隊のミスで123便を撃墜してしまったと考えている。

――自衛隊への反対論が強い当時の世論では、政府は自衛隊機が民間機を撃墜したなんて言えなかった…。

 森永
 そこで当時の政府は、圧力隔壁の修理ミスが原因で墜落したことにして、米ボーイング社に泥をかぶってもらったのだ。しかし、そのツケは大きかった。墜落からわずか40日後の1985年9月にニューヨークで結ばれたプラザ合意によってドル円は約2倍の円高になり、日本のすべての輸出商品に100%の関税を掛けるのと同じ効果を示す。それにより戦後絶好調だった日本経済は大転換を迎えることとなった。また、1986年に日米半導体協定が結ばれ、それまで5割だった日本の半導体シェアは1割まで縮小した。1989年の日米構造協議に始まる、日米包括経済協議、年次改革要望書、米経済調和対話といった日米の貿易不均衡を是正する名目で行われてきた会議では、日本はすべて米国の言いなりになっていたし、年次改革要望書では表向き日本も米国の構造改革を要求できることになっているが、日本の要求で米国が動いたことは一度もない。米国は要望を出すだけでどうにでも日本を動かすことができる状態に陥り、日本は米国の完全な植民地と化している。この原点は、日本航空123便の墜落事故だ。

――ここまでの話が本当ならば、とんでもないことだ…。

 森永
 私は、今からでも遅くないと思う。日本政府は日本航空123便の墜落事故の真相を明らかにし、すべて認めるべきだと考えている。幸か不幸か、ボイスレコーダーとフライトレコーダーは日本航空本社が所持しており、そのデータを公表してしまえばすべてが明らかになる。遺族側も戦っていて、墜落事故の遺族の吉備素子氏が日本航空に開示請求を求める裁判を起こしており、現在は最高裁に上告されている。この事件の真相を開示することが、日本が独立国として主権を取り戻す第1歩になるだろう。今の日本が本当に情けないのは、さまざまな政策に表れている。防衛費倍増では、米国から購入したトマホーク400発のうち、200発は新品だが、もう200発は型落ちの在庫処分品を押し付けられたなど、米軍のための自衛隊を作ろうとしている。また、熊本にTSMCという台湾の半導体企業を誘致したが、米国の工場では回路幅が3ナノという最先端の半導体を製造するが、熊本の工場では回路幅が十数ナノという相当遅れた汎用品を作ろうとしている。何で日本は型落ちの生産を行わなければならないのか。最後に、米国が郵政民営化を要求してきたとき、郵便事業の民営化ではなくゆうちょの民営化を要求し、200兆円の預金をゆうちょから吐き出せと言ってきた。これについて証拠はないものの、岸田総理の貯蓄から投資への移行や新NISA制度は、世界中で起こっている株価バブルの最後のババを日本人に引かせようということだと思う。新NISAのタイミングは最悪だというのは、金融資本市場の人間なら分かるが、素人はそんなことわからない。米国のS&P500やオールカントリーを買えば、ほったらかしで金が増えていくという神話を信じてしまっている。日本が主権を取り戻し、自分の国のことは自分で決められる国にならなければ、転落は継続する一方だ。[B][N]

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