By Terry Spencer
Staff writer
PALM SPRINGS -- Japanese Prime Minister Toshiki Kaifu's government could quickly fall if President Bush pushes too hard for trade concessions during their summit meeting, said Hajime "Jim" Fujiwara, a Japanese author and businessman who lives in Palm Springs.
"Kaifu is a very, very weak man who is not strong enough and is not smart enough to handle pressure," Fujiwara said, adding that opponents within the prime minister's own party will use any misstep to force his ouster.
"The situation in the Japanese government is very complicated, which Americans don't understand," Fujiwara said. "(Kaifu) is a very small guy and totally incompetent."
Bush and Kaifu are scheduled to talk today and Saturday at the Club at Morningside in Rancho Mirage.
Fujiwara, 52, was born in Tokyo and left Japan 25 years ago. He lived in France for five years, earning a science doctorate at the University of Grenoble. He then moved to Canada, where he lived for five years before moving to the: U. S. 10 years ago.
He said he has written 20 books, many about the politics and economics of the oil industry and has been hired by one of Japan's leading news magazines to report on the summit.
Kaifu came to power six months ago after his Liberal Democratic Party -- which has ruled the country for 34 years -- was rocked when most of its leaders were implicated in a bribery scandal.
Kaifu -- who had been a minor figure in the party -- was chosen by his party's parliamentary delegation to be prime minister because he was untainted by the scandal.
"The reason he was not touched by the bribery is because he was not an important man," Fujiwara said.
Those politicians who were implicated will try to convince the Japanese people to reinstate them to power if Bush makes Kaifu appear weak.
"If Bush tries to act like a conqueror, engages in Japan-beating, Kaifu will be gone," Fujiwara said. "There are Japanese (politicians) who hate America and they would use (Bush's attitude) to their advantage."
Instead of pushing Kaifu on trade issues, Bush should seek his cooperation in aiding Eastern Europe and Latin America, Fujiwara said.
"Japan could make a contribution in those areas, but its corporations and politicians are interested only in making money," he said. "Bush and the Americans are globalists, but the Japanese who are coming to power are nationalists. And that could be very dangerous."
「藤原さんからのコメント・メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知ることができます。 山根治ブログ2024年10月29日号(https://yamaneosamu.blog.jp/archives/25983448.html)ら転載させていただきます。「人生は短く、人為は長く、機会は逃げやすく、実験は危険を伴い、論証はむずかしい。医師は正しと思うことをなすだけでなく、患者や看護人や外的状況に助けられることが必要である」“Life is short, and Art [of medicine] long; the crisis fleeting; experience perilous, and decision difficult. The physician must not only be prepared to do what is right himself, but also to make the patient, the attendants and the externals cooperate.” と例えられるアフォリズムがお二人の交流から伝わります。
▼▼コメント・メール(102)です
山根治さま
*****
衆議院総選挙が終わって、売国奴の巣窟の自民党が惨敗し、裏金議員の多くが落選したが、反日邪教の統一教会と結び、日本の誇りを叩き売った議員の大掃除は出来なかった。国賊の頭目だった安倍の後を継ぐ、萩生田や高市などは再選され、自民党に無傷なまま復帰しており、今後も売国行為を実行して、日本の誇りや国益を損なう、国賊路線を推進しようと虎視眈々だ。
それにしても、自公体制の崩壊が始まり、四半世紀続いたゾンビ政体が、これから雲散霧消への道に向かう転換点として、2024年10月の時点は、日本の戦後政治のKPI(Key Performance Indicator.戦略的分岐点)になる。それは戦後の世界史で、1989年が転換点として、極めて重要な意味を持ったように、目の前で進行中の出来事が、如何に重要であるかを知る、歴史感覚における叡智にも関わっている。
20世紀には世界史上の大事件が二つ起き、一つは社会主義国家群の誕生で、もう一つはその体制の崩壊であり、歴史的実験の新体制が消滅したのが、世紀末に近い1989年だった。年頭に昭和天皇が崩御し昭和が終わり、続いて中国では天安門事件が起き、東中欧の共産圏ではドミノ式に政権が倒れ、ベルリンの壁が崩壊し、次々と歴史的な事件が発生した。
この現代史の破断界に注目して、シンギュラリティとして捉え、そのドキュメンタリーをまとめ上げ、『1989年』の題で新書を出し、世に問うたのが竹内修司である。この優れた啓蒙書を読み、ゲシュタルト的理解のために、そこに湾岸戦争に続いた冷戦構造の終わりを含めば、その序曲に相当していたパームスプリングスの日米サミットが、とても重要だったことが分かる。
この会談での海部首相が無能さを露呈したことで、日本は一兆二千億円の支援金を払い、湾岸戦争に資金面で加担して、ネオコンの侵略路線による、米国の覇権主義に飲み込まれた。それまでは貿易戦争でも、日本の政治家のレベルでは、対米従属が続いていても、官僚の一部に独立心があり、国益への意識が存在し、何となく抵抗したのに、冷戦構造の終わりと共に腑抜けになった。
日米サミットの当日に地元の「Desert Sun」紙が、会談特集記事のトップには私に取材したスペンサー記者が纏めた、「海部の運命は首脳会談次第と専門家が述べる」と題した記名記事を大々的に載せた。米国は地元紙の記事が全米に向け、流れ方式で配信されるから、「NY Times」も「ワシントン Post」の記事を利用するので、地方紙が通信社の役を演じるために、それを読みブッシュは飛び上がったそうだ。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/paper/kaifu/kaifu.htm
参考までに記事を翻訳すれば次のような内容であり、私の指摘はブッシュにとってかなりの衝撃を与えたらしく、それについての講評は読者の判断に任せるが、反響は確かに大きかったのである。何しろ、主催者役のAnnenbergの記事と写真が、私の記事の下に位置しており、大富豪の面目を潰したらしく、知人たちにそう指摘されたし、理由は次の新聞記事を読めば納得されるはずである。
< 「海部の運命は首脳会談次第と専門家が述べる」
取材記者:テリー・スペンサー パームスプリングス発
”米国のブッシュ大統領が首脳会談で、貿易に関する譲歩を強く求めた場合に、海部俊樹首相の内閣はすぐに崩壊する可能性がある” とパームスプリングス在住の日本人評論家で実業家の藤原肇氏 "Jim" が述べた。
「・・・海部は非常に弱い人物で、圧力に対処するだけの強さと賢さがない」と藤原氏は語り、「首相自身の党内の反対派が、その失策を利用して彼の追放を図るだろう」と付け加えた。「日本政府の状況は非常に複雑で、アメリカ人には理解されていない」と藤原氏。そして、「海部はとても小さな人物で、全く無能だ」とも述べた。
ブッシュと海部は今日と土曜日に、ランチョ・ミラージュのモーニングサイド・クラブで、首脳会談を予定している。52歳の藤原氏は東京生まれで25年前に日本を離れたが、彼は5年間フランスで過ごし、グルノーブル大学で博士号を取得した後カナダへ移住し、十年間住んでから10年前にアメリカへ移った。彼は石油産業の政治や経済に関する20冊の書籍を執筆し、日本の主要な経済報道誌の一つによって、首脳会談のレポートを依頼されていると述べた。
海部は6ヶ月前に自由民主党の総裁に選ばれ、首相として政権を握ったが、この政党は34年間にわたって日本を統治しており、ほとんどの指導者が贈収賄スキャンダルに関与していたことが発覚したばかりである。「・・・海部は党内で目立たない人物であり、スキャンダルに関与していなかったため、党の国会議員団によって首相に選ばれた。しかも、彼が贈収賄に関与していなかった理由は、重要な人物ではなかったからだ」と藤原氏は語る。
だから、贈収賄に関与した政治家たちはブッシュが海部を弱いと見た場合に、彼らを権力に再び就かせようと日本人に説得しようとするだろう。「・・・ブッシュが征服者のように振る舞い、日本を非難する場合には、海部は失脚して政権を去ることになるのは、アメリカを憎む日本の政治家が、ブッシュの態度を利用するためだ。」と藤原氏は述べた。そして、貿易問題で海部を追い込むのではなく、ブッシュは東欧やラテンアメリカを支援するために、協力を求めるべきだと藤原氏は付け加えている。
更に「日本はその地域で貢献できるが、そうした日本の企業や政治家は、金儲けにのみ関心を持っているので、グローバリストのブッシュとアメリカ人に対し、権力を握っている日本人はナショナリストだから、非常に危険なことになるかもしれない」と藤原氏は警告した。」>
*****
この日米サミットに関して、観察記として纏めた私はロスの『加州毎日』に連載し、それを日本の情報誌にも寄稿したが、マルドメの日本の記者で読んだ人は少なかったらしく、まともな反響はほとんどなかった。1989年は重大な年であり、この年に海部内閣が誕生し、翌年春に日米サミットが開かれ、その記録が以下の記事だが、重要性を理解する日本人は少なく、参考までに雑誌記事を転載する。http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/summit.html
記事を読めば分かるが外務省も新聞記者も無能で、海部首相の動静に注目し、会談の内容や米政府の意図にほとんど無関心だったから、日本の首相は妄動しただけである。現地の記者に会うために報道センターを訪れたら、八割は日本人の随行記者であり、地元の新聞やテレビを見て海部の動勢の記事を書き、日本に送信している程度だった。
積極的に取材をしていれば、米国側の動きに関し何が起きていたかが分かり、そうした調査をすることで会談に役に立つはずだが、緊張の気配など全くなく旅行のお供に似た雰囲気だった。だが、会談直前のブッシュは、この旅行の機会を利用して、別の工作の手配をしており、それを取材して纏めた私は次の記事を書き上げていた。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/bush.htm
この記事で分かるのは、日本人がロンヤス関係と思い込み、誤解していた日米関係に、ニクソンの対中政策が強く影響しかけていたが、それに日本側は気づかずに会談に臨んでいた。インテリジェンス面での手抜かりで、日本政府はサミットという絶好の機会を生かし得ず、日米の首脳の対談のチャンスが参勤交代のレベルだったことを意味した。
「日米緊急サミット」の記事は、ロスの『加州毎日』に連載し、日本では『世界週報』に寄稿したが、内容は『文芸春秋』が最適だのに、寄稿しなかったのは理由がある。このサミットに六週間先立ち、湾岸危機が湾岸戦争になり、イラク軍がクウェートに攻め入ったが、湾岸戦争が始まる半年前に中東情勢を観察して、私は一連の動きの解析を試みていた。
最初に纏めた記事の題は「石油を武器にアラブの盟主を狙うサダムフセイン」で、イラククウェートとの間で係争と対立が目立ち、戦火が触発しそうな気配が見えたから、以下のような記事をまとめ、世界情勢の専門誌である時事通信の『世界週報』に寄稿した。
<・・・イラクとクウェートの対立が顕在化して、メディアの注目を集めたのは7月17日(1990)。・・・フセイン大統領はアラブ首長国連邦とクウェートの両政府に対して、非常に激しい口調で非難の演説を行い 協定違反の増産による石油価格の暴落で、イラクが被った損害は140億ドルだと強調・・・イランの脅威からサウジやクウェートを守るために、血を流して戦ったのはイラクであり、しかも、何百億ドルもの戦費を債務にされたと憤る、フセイン大統領やイラク人たちにとっては当然の主張だった。百万人近い死傷者をだして勝利した以上は、報奨手当をもらっても当然であるのに、払い切れないほどの借金の山が残り、しかも、自分たちのものだと信じている石油を盗まれ、それを安売りされたという恨みの気持。・・・係争中の国境地帯の油田で石油のフル生産を行って、クウェートが24億ドル相当の石油を盗み、それを国際市場に流して価格を押し下げたために、イラク経済は大打撃を受けたと非難した。・・・800億ドルの負債を抱えているイラク。・・・>
それに続く幾つかの記事は、プロ向けの政治的な内容で基礎的な素養が必要だが、問題の核心は大切だから分かり易い文体を使って、広く大衆に伝えたい情報だった。だから、「ブッシュも海部も間違っている」は、戦争が始まる前の九月に書いて『文芸春秋』に送り、1990年11月号に掲載されたのに、続いて至急に送った記事は実に奇妙な理由で掲載できないと拒否された。
その理由は「藤原さんには連載を頼んでいないので、続けて出すことは出来ない」であり、こんなバカげた発想は世界で通用しないから、私は専務取締役に国際電話して抗議した。何度か困難な交渉の後で、「例外的に次号に掲載するが、これは特別な扱いだから、今後は二度と規則破りはダメ」と言われ、12月号に辛うじて掲載された次第である。
戦争という緊急事態を前にこんな愚劣なことが起き、余りにも理不尽な発言に呆れ、腹を立てた私は愛想をつかし、これを最後に『文芸春秋』に寄稿するのを中止した。だから、国際石油政治の記事は姿を消し、30年以上も経過しているが、以前にも似た経験をしておリ、田中健五編集長に対し私は絶交状を叩きつけていた。
それは彼が私の記事で気に入らない部分を勝手に削り、時には逆に書き直しズタズタな作品にしたから、腹に据えかねた余り編集長に絶縁宣告をしたのである。神田の生まれの江戸っ子で、「女がするのが売春で、男がするのが売文」だと考え、卑劣な行為をする者に断固と対決するから、私は良く短気だと叱られたが、これには『インテリジェンス戦争の時代』に書いた後日談がある。
<・・・あるとき引退した警察庁のトップとの会話で、文芸春秋の田中編集長と喧嘩して絶交したと言ったら、こんなこともあると教えてくれた話がある。プロ野球の川島広守コミッショナーは、内調の室長や内閣官房副長官を歴任したが、六 〇年アンポの後にユーゴの一等書記官から戻り、「俺がアンポ騒動の時に日本にいたら、岸首相が辞めるようなぶざまな警備はしなかった」と悔しがっていた。
そして、大使館への出向以外は東京を離れずに、警視庁と警察庁の往復専門で公安を担 当したが、警察庁時代の川島警備局長は、何か問題が起きると「田中を呼べ、田中に来いと言え」と怒鳴り、そこへ駆けつけるのが取材記者時代の田中健五だったそうだ。
こうして内調ルートで編集者として出世し、「諸君」の編集長にも就任したのだから、・・・闇のキングでお国のために役に立った点で、それなりに功績を残したと評価しています。かつては保守派のサロン誌だった「文芸春秋」は、政府の広報記事や内調ルートのネタが多いし、国民の宣撫工作用に役に立っていますよ… 。」とその内務官僚OBが苦笑していたのが印象深い。・・・>
*****
抗議して活字になった『文芸春秋』12月号に、イラク軍のクウェート侵略の背後には、国境に近いルメイラ油田からクウェートが石油を盗み、生産していた話を書いて、それが紛争の原因だと私は解説した。石油や水を無断で盗めば、射殺や紛争の原因になり、映画『アラビアのロレンス』の冒頭で井戸の水を無断で盗み、持ち主に射殺された場面は、実に印象的な光景だったが、似た現象が国境地域で起きたのだ。
<・・・ルメイラ油田はイラク第二の都市バスラから、クウェート国境に南北に延びており、自亜系砂岩に石油が溜まった背斜構造の幅25キロで長さ70キロの油田である。有名なキルクーク油田よりも生産性が高く、イラクの石油輸出のホープであり、イラクの自立の象徴であるとともに、国づくりの基礎として国民の誇りを支えていた。
1968年には136億バレルの埋蔵量で世界の第九位だったこの油田は、1976年には理蔵量が三倍半に増え、クウェート国境に向けて開発が進むことにより、1980年代にはさらに埋蔵量を倍加して、世界第五位の大油田にと発展した。この石油収入を支払い代金に充当して、外国製の最新鋭の機械を購入した。
・・・このルメイラ油田は国境を越えると、クウェート側にも背斜構造が続いており、クウェート石油の鉱区においては、ラトガ油田という名前で呼ばれている。クウエートではラトガ油田を除くと1966年以来大きな油田の発見がなく、石油埋蔵量が毎年減少していたので、政府は石油の長期保存政策を採用して、1970年代は生産制限をしたほどである。ところが、1983年にラトガ油田が発見されると、翌年にはデータ上は埋蔵量が激増しており、AAPG(米国石油地質学協会)の報告は非公式だと断わっているが、それまで670億バレルだったものが、千億バレルに大きく増えている。どこまでがルメイラ油田の延長部かは不明だが、イラクが戦争に全力を上げている間に、クウェート石油の鉱区の開発が進み、石油の生産と販売が大規模に行われ、40本あまりの井戸が掘られている事実からして、盗掘された可能性は大きかった。
石油は流体だから圧力に従って移動し、人間が作った地上の境界線とは無関係に、低圧部に向かって流れる性質を持つ。また、生産に伴って地層からガスが抜けると圧力が減って油田の老化の原因になり、また塩水の割合が増えて油田の枯渇に結びつく。
だが、クウェート政府はイラクの要求を拒絶して、逆に、戦時中に融資した膨大な額にのぼる資金のことを持ち出したので、それを聞いたサダムは盗人猛々しいと激高し、待機していた機甲師団に出撃を命じた瞬間に、クウェートの運命は決定してしまった。・・・>
しかも、歴史には似た例が多くあり、風土や文化の違いに基づき、色んな形で対立や抗争が起きていて、その調停のやり方を考え法制度が作られ、実際にそれが運用されているのである。
<・・・アメリカにも石油の盗掘のケースは腐るほどあり、かつては腕力抗争や鉄砲沙汰になったもので、東テキサス油田では殺戮合戦まで起きたが、自分たちで規制する組織を育てることで、アメリカ人は自主的に解決してきたことは、オイルマンなら誰でも知っている。
・・・テキサスには「レイルロド・コミッション」があり、井戸のスペースや生産規模の決定を行うし、カンサスには「コーポレーション・コミッション」があって、石油の生産規模や係争の調停をしたり、エネル ギーに関係する料金の監督とか、環境汚染の防止に努めることで、各種のトラブルを抑え るために寄与してきた。
アメリカの各産油州のこのような機関は、専門知識を持つコミッショナーを選び、彼らの指導力の下に公共の利益を追求して、エネルギー産業の健全な発展のために、貢献してきた歴史を誇っている。
・・・しかし、中東は未だこの段階に至っておらず、遊牧民の伝統と気質のせいもあり、国同士が略奪行為や誤魔化しを繰り返しても、意外なほど大目に見過ごす寛大さがある。だが、ルメイラ油田だけはその対象にはならず、イラク人の民族的な逆鱗に触れたために、クウェートは奈落の底に墜落したが、凡庸な政治家や軍人たちにはこの怒りの心理がよく解読できなかった。
・・・「アラビアの ロレンス」の映画の冒頭に描かれているように、他人の井戸から水を盗めば射殺されても当然なのが、アラブ世界における掟であり、それを戦車師団でやったのがサダム・フセインではないだろうか。昔の農民や漁民と同じように単一収入であり、国庫の収入の九割を石油に依存して、借金までして傭兵役を果たしたら、虎の子のルメイラ油田の石油を抜かれ、しかも、自分の石油が借り方勘定で負債になり、借金の催促を受けたイラクの状況は悲惨だ。それが苦難と誇りの歴史を象徴するルメイラ油田の凌辱だっただけに、イラク人には耐え難かったはずであり、屈辱の怒りはメソポタミア全土に広がった。・・・>
アラブ世界では平気で嘘をつき、「騙すより騙される方が悪い」が、砂漠地帯での浪花節であり、小池百合子の学歴詐称はその代表例でもあるし、それを商社マンは「レバシリ」と表現する。レバノンとシリアの商人はユダヤ人と同じで、嘘や大言壮語は呼吸と同様の営みであり、善良な日本人は簡単に騙され泣き言をいうケースが多いが、「日本の常識は世界の非常識」でもある。
似たような日本のケースは歴史の中に生きていて、農民が水争いをしたりヤクザが縄張り争いで血を流し、乱闘劇を演じて来たことが歴史として記録されている。
<・・・米づくりが唯一の生活の糧だった時代には、水は農民にとって命の次に重要な資源だった。また、漁民が自分たちの漁場を守るために、舟を連ねて漁場荒らしの隣り村を襲撃した話も、昔語りになっているのである。・・・>
『ニューリーダー』 1990.05月号
砂漠の中のゴルフのメッカ
避暑地というのは幾らでもあるが、「避寒地」の良い例が日本には無いので、具体的なイメージを思い浮かべるのが困難かもしれない。その困難な避寒地の米国における代表が、実はカリフォルニアのパームスプリングスである。ここは冬の厳しい寒さとは無関係で、一年中ブ ーゲンビリアや爽竹桃の花が咲き乱れ、三月の頃はレモンやグレープフルーツが、街路樹として色付いた実をたわわに付けている。
この周辺は砂漠の中のオアシスを囲んで、人工的に緑地を作り上げたという、いかにもアメリカらしい場所である。琵琶湖の大きさに似た南北三〇キロほどの盆地に、何とゴルフ場だけでも七〇か所以上もあるので、アメリカのゴルフのメッカとも呼ばれている。
同時にここは、アメリカの金持の別荘地でもあり、「フォーチュン誌五〇〇社」のトップの八割以上が、パームスプリングスの周辺に保養のための別荘を持っている。しかも、ここを頂点にしてロサンジェルスとサン・ディエゴを結ぶと、二等辺三角形が出来上がり、共に二五〇キロの距離にあるので、南加の二大都市の住人も別荘を持ち、週末の休暇をゴルフやハイキングで過ごすために遊びや保養に来る人も多い。
とくに、パームスプリングスが全米から注目されるのは、三月終わりの春休みの季節である。アメリカ中の高校生や大学生が四万人近くも、太陽を求めてここに集まるのがスノビズムで、若者の間では三月にパームスプリングスに行ったことが、一種のステイタス・シンポルになっている。ただし、大量の若者が集まってストームをやり、酔っ払って自動車をひっくり返したり、カンバンを壊すことが例年繰り返され、警官隊と学生の乱闘が社会問題になっている。そこで、今年は春休みの間だけホテル代に四ドル加えて、それを特別警備費用の税金にする議案が、地元の賛否両論をかき立てていた。
そんな所へ、突然、三月二日と三日の週末に、ブッシュ大統領と日本の海部首相がここで会い、「砂漠のサミット」が行われると発表されたので、ほとんどの入が怪訝な顔をして何事かと首をひねった。
腹に据えかねた大統領の電話
このところパームスプリング周辺は地震が頻発し、震度四から五ていどの小さいのが、予告無しにぐらぐらと来るので、馴れない観光客が大騒ぎをしている。地震でびくついていた住民や観光客が、サミットの話で別のエキサイトメントに驚かされたが、今度はその震源地が遠い東京であり、ナマズをつついたのはホワイトハウスの主人公だったわけだ。
東京で行われ二月二三日に終了した日米構造障壁協議の結果が、余りにも期待外れだったので、米国側の代表が日本政府の態度に不満を表明し、その報告を東京から受けたブッシュは、一時間後には自ら海部にホットラインで電話した。大統領はよほど腹に据えかねたのだろうが、これはまさに、海部が仰天するほど早い反応だった。
三月第一週のパームスプリングスでは、恒例のビンテージ・クライスラー国際コンペが行われる。ビジネス一筋の哀れなアイアコッカは来ないが、これは米国でも令名の高いゴルフ大会だから、アメリカ中の人が集まって、一種の慈善を主体にした社交の舞台になる。
ブッシュはかなり前からこの時に招待され、元駐米大使のウォルター・エネンバーグの邸宅の「サニーランズ」に滞在することになっていた。だから、ブッシュは海部にパームスプリングスに来てもらい、サニーランズで首脳会談をしようと申し入れたのである。
海部首相としてはイエスと返事するしかなく、こうして砂漠のオアシスでの会談が決まったが、一番びっくりしたのは日本の海部自身だった。何しろ、当時は第二次海部内閣で決まりそうな閣僚は、首相一人だけだったからである。しかも、たとえ第二次海部内閣が発足しても船出は楽ではなく、足を引っ張ったり落とし穴を掘って、基盤の弱い首相を陥れて混乱させ、その隙を狙って権力を手に入れたい策士は、自民党の各派閥の頭目を始めとして、ゴマンと存在しているのは自明だった。お蔭で組閣の人選は難航、前代未聞の明け方の決定になったのは周知の通り。新首相はサミットを控えたパニック状態の中で、とりあえずは外相と蔵相だけは決めて置こうと、能力には無関係に再任して置くことで、飛行機に飛び乗った。
海部は疲れ果てて、座席ベルトを閉めると同時に眠りに落ちたかも知れないが、精神分析の状況診断からすると、アメリカの大統領から呼び付けられた以上は、まな板の上の鯉に似た心境で、首相はとても安眠できなかったはずである。
サニーランズの白亜の大邸宅
パームスプリングス周辺で最も高級な町は、大邸宅とカントリー・クラブで構成されたランチョ・ミラージュであり、その中でも飛びぬけているのがサニーランズだ。このウォルター・エネンバーグの広壮な白亜の邸宅は、ボッブ・ホープ通りとフランク・シナトラ通りの角に位置して、二五万坪の屋敷の中には、九ホールのゴルフコースまである。
芸能人の名前を道路名に付けているのは、世界で余り例がないことだが、芸能人なら誰でもいいわけではなく、ランチョ・ミラージュに邸宅を構える他に、億の単位の資産を持っていて、大きめのミリオネヤーであることがその必要条件だと言われている。
そこで、フランクとボッブ以外の芸能人では、今のところ歌手兼女優のダイナ・ショアーと歌手のジーン・オートレイが、自分の名前がついた道路をこの町に持っている。ジーン・オートレイはアメリカ人なら誰でも知っているように、ウエスターン・シンガーの第一号であり、歌うカウボーイとして戦後の四〇年代末に売り出し、数多くのヒット曲をものにしている。彼に少し遅れて登場したジョン・ウェインやロイ・ロジャースと並んで、この三人は五〇年から六〇年代にかけての、ウェスターンの黄金時代のトリオとして有名だ。
ランチョ・ミラージュにはエネンバーグの他に、フランク・シナトラや引退したジェラード・フォード元大統領、監獄帰りのアグニュー元副大統領やマフィアの親分などが住むが、ほとんどがゲート付きだから、外部の人間は立ち入り不可能だし、住入の名は電話帳に出ていないから、住民の誇りが高いこの町は日本人には未だ知られていない。
最初にランチョ・ミラージュを訪れた時に、私もこの町の奇妙な通りの名前と共に、ボッブ・ホープ通りに面して広大に続いている、爽竹桃の垣根に取り囲まれたエネンバーグ邸の規模に驚いた。何しろ、屋敷の中には九ホールのゴルフ場や、テニスコートやプールは言うまでもなく、大小さまざまな一二の池と馬場があるし、四室の寝室を持つ二軒のゲストハウスが、一〇メートルを越える天井を持つリビング・ルームを持つ、白塗の母家に隣接して並んでいる。
持ち主のエネンバーグは元ロンドン駐在のアメリカ大使で、新聞・雑誌・テレビなどによって、フィラデルフィアを中心にメディア帝国を築いた、ドイツから移民したユダヤ系の億万長者である。彼の支配した一番よく知られている雑誌は週刊『TVガイド』であり、これはアメリカのスーパーなら何処に行っても、出口のキャッシャーの所に並んでいる。
毎週二〇〇〇万部のテレビ番組の雑誌の他には、若者向けの『セブンティーン』の九〇〇万部があり、すでに引退している彼自身としては、トライアングル=パプリケーションズも売却したので、今は専ら慈善事業が最大の関心事になっている。
彼が屋敷の中にゴルフ場を作ったのは、ある日、大事なお客と突然ゴルフをしたくなり、飛び入りでゴルフ場に行ったところ、二時間も待たされたので腹を立てて、自分専用のコースを作ったのであり、彼は自分のやりたい通りに生きるタイプの男だ。
同じようなエピソードは未だ幾らでもある。ニクソンが大統領になった時に、ウォルターは米国大使としてロンドンに赴任したが、大使館の外見は立派だが内部の老朽化が激しかった。彼は「こんなむさくるしい所では仕事は出来ない」と不機嫌に言い、ワシントンに改造費を要求したが、送って来た金額は五万ドルだった。そこで彼はいつもの癖で腹を立て、自分が理事長をするエネンバーグ財団から、一〇〇万ドルの慈善資金を政府へのお恵みとして提供させ、大使館の内部を自分の好みに大改装した。しかも、各部屋には彼の美術コレクションから、ゴーギャンの「母と娘」やセザンヌなどの傑作を取り寄せて飾り、まるで小型美術サロンのような雰囲気にして、ロンドンの社交界の目を見張らせたのだった。
また、彼の父親のモーゼスはやり手の男で、ハースト系の新聞の販売員から始めて、独立した新聞を築き上げ、特に競馬予想紙で成功しているが、脱税で刑務所暮らしをしたり、差押えを食らったりの荒れ方だった。だから、ウォルターの貰った遺産の公式目録は、「現金五万五〇〇〇ドルとキャデラックが二台、それに、ウイスキーが二箱」となっていた。
しかし、名うてのビジネスマンの父親の仕掛けで、破産同然の遺産相続は数千万ドルの価値を持っており、それを彼は年商数億ドルのビジネスに育てたが、昨年トライアングル出版社を三二億ドルで売却したし、現在までに一〇億ドルを慈善事業に寄付している。
大統領を送り込む男
パームスプリングスで休暇を過ごすことは、アメリカ人のありふれた夢だが、サニーランズに招かれて週末を過ごすのが、著名人にとってのステータス・シンボルでもある。
ニクソンが三三歳でカリフォルニアの下院議員になった時に、ウォルターの母親が、「あの若い男は見所があるから、目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、ニクソンは時々ここに招かれて、最後にはホワイトハウスの主人公になった。
レーガンもカリフォルニア州知事の頃から客の仲間入りをし、毎年親しい友人たちを集めてやる年越しのパーティーには、ナンシーと共に過去二二年間続けて招かれ、その間に大統領にもなった。また、英国のエリザベス女王もお客になったし、逃避中のイランのパーレビ皇帝にも、避難の棲家としての提供があったことは有名だ。
そして、大統領になったブッシュとバーバラ夫人に、最良の季節の週末休暇の招待状が届き、ジョージは三月の第一週に招待の休暇を過ごすことになっていた。
そんなときに日米構造障壁協議の失敗の連絡が届き、朝九時にホワイトハウスでそれを知ったブッシュは、日本語の達者なブレーンを使い、シチュエーション・ルームと海部の居たホテル・オークラを電話で結び、翌週の週末にパームスプリングスに行くから、そこでサミットをやろうと伝えたのだった。この段階では海部は首相に指名されていないし、閣僚も未だ決まっていなかったが、泡を食った海部は駆け付けることを約束した。
こんなドタバタは外交常識では考えられないが、過去十数年間の日本は政治的アナキーだから、円熟味の無い海部のあわてた決定でも、国を挙げて遂行のために全力を傾けた。国際政治を国会対策のレベルで考えているので、日本では外交がまともに機能しないし、ルールが何かを思い巡らす頭脳が欠落しても、誰も不思議に思わないままである。
面白いエピソードがある。ウォルターという男は、駐英大使に任命された時に、ガンコ者で外交的な儀礼を弁えない男だと皆が心配したものだが、女王陛下の所で磨きをかけただけあって、この緊急のサミットをサニーランズで行うと聞くと、ウォルターはジョージ・ブッシュをたしなめて、こんな内容のことを言ったそうである。
「ブッシュ大統領はウォルターのお客だから、お客が招待主の所に別のお客を招くのは、アメリカ人同士としても礼儀に外れている。外交官をやった人間の判断からすると、日本人の中にもこの非礼を怒る人がいるだろうし、ヨーロッパの連中の軽蔑を受けかねない。お膳立てをし直して上げるから、段取りは自分に任せてくれ」
さすがにヨーロッパで外交界の空気を吸っただけに、この八二歳の悠々自適の老人は、酒落たアドバイスを大統領に与えたものだ。これは年の功の威力であると共に、帝王学が教えるマナーを知るということである。若い頃にジャジャ馬として鳴らした彼も、ロンドンでの滞在経験が役に立ち、その後は随分洗練されてしゃれた人物になったわけだ。
ジョージ・ブッシュはイェール大卒のエリートだし、戦時中は海軍のパイロット将校をやった上に、中年前期にはテキサスで石油関連のビジネスに関係して、山師的な素早い決断力を持っているが、彼にはヨーロッパでの修行が欠けている。だから、同じ一九世紀的でも砲艦外交の無骨さは分かるが、宮廷外交の味わいを首脳会談につけるには、彼は余りにもテクサンだしアメリカ的である。
そこでウォルターに総てを任せ、宮廷外交のプロにお膳立てを頼むと、元大使はサニーランズから八〇〇メートル離れているモーニングサイド通りとフランク・シナトラ通りの角の、「ザ・クラブ」のオーナーのエド・ジョンセンに話を持ち掛けて、緊急に頂上会談の座敷を提供してもらい、サミットの会場がモーニングサイドに決定した。
この連絡は直ぐに東京に届けられて、二月二七日にはロスの日本領事館員が現地の下見を行い、ジャック・ニクラウス設計のゴルフコースのあるこの「ザ・クラブ」で三月二日の夕方と三日の朝の会談が確定した。
同じ頃の東京では難航した組閣で、辛うじて明け方に第二次海部内閣が発足したばかりだから、話は全く逆立ちした状態で始まったことになる。
それから後の準備が大変である。会場になるクラブハウスは徹夜で内部の改装が行われたし、満員のホテルに懇願して部屋を空けでもらい、日米両方の随員や記者のために、最低で五〇〇室は確保する必要があった。とりあえず、パームスプリングスのヒルトンとウインダムの両ホテルに、日本側はどうにか一五〇室を確保したが、最大の問題は電話回線の増設であり普通なら五週間かかる大工事を、大統領命令で電話会社は四日でやりとげた。
サミットヘの緊急集合
アメリカの問題点は東部の人間たちにあり、彼らは仕事に追われて神経過敏で、サミットを政治問題として大騒ぎする。この点、日本人やドイツ人の気質と共通している。それに対して南部や西部の住民は、普段からストレスによる疲れはないので、比較的のんびりしている。だから、緊急サミットの大騒ぎも、私の所へは東方のカナダやウィチタの記者たちから押し寄せてきた。そんなわけで、自分の住む町で日米サミットがあると知ったのは、やっと二月二七日のこと。そこで大急ぎでテレビやラジオのニュースを集めて、やっと状況を把握した。実際問題としてサミットのある二日には、私はサンディエゴで人と会う予定だのに、ジャーナリストの友人が来るという連絡が届くし、地元のテレビ局はインタビューしたいと言う。テレビなどに出るとプライバシーが無くなり、人生がつまらなくなるのでテレビなどにかかわりを持ちたくないのに、無理やりビデオ撮りだからということで、地元のテレビ局で五分ほど喋らされた。そして、この会談が「びっくりサミット」であり、海部首相が慌ててここまでやってきて、役人の入れ智恵で細かい弁解をするのが心配だし、詰まらない約束をさせられたら良くないという話をした。
それが終わってスタジオから出たところで何気なく見たテレビのニュース番組で、東部のキイ・ステーションの報道は、ここで行われるサミットに関して、ワシントンの議員が日本の市場の閉鎖性について愚劣な文句を並べているだけでなく、日本人が弁解している姿が映っていた。日本人の発言者は市場がオープンだと主張していたが、自分の立場を言うだけだから説得力が全くない。東部にいる日本代表がこんな程度なら、海部首相の発言も似たようなものになり、アメリカの狙いにやられる恐れがある。自民党や首相が叩かれるのなら、自業自得だから一向に構わないが、日本文化や日本人が攻撃されたのでは迷惑だ。そう思いながら何か良い案がないかと考えたが、どうやら、東部の連中のフラストレーションが、サミットに集中しそうな感じで、これは大変だと思った。
弱みを強みに変える戦法
家に戻ると、今度は地元の新聞杜からの電話があり、翌日に開かれるサミットに関して、私のコメントを取材をしたいと言う。この段階での私の心の中は、すでに、サミットの路線変更の必要性を痛感しており、とくに、アメリカ中からここに集まるジャーナリストと、ブッシュ大統領へ宛てたメッセージを、タイムリーに発信することが必要だと判断していた。翌日の三月二日はサミット開会日である。米国の中核人物は地元の新聞を嫌でも読むから、『デザート・サン』紙に的確なコメントを提供すればイニシアチブは握れるに決まっていると考えて、電話でインタビューをする相手に私は慎重に喋る言葉の順序を組み立て続けた。
まず第一に必要なことは、今回のサミットが狙っている路線の修正であり、通商関係や二国間関係からテーマを移し、問題の焦点を国際関係全般の方向に持って行き、グローバリズムとナショナリズムの対立関係として、明確に浮かび上がらせてしまうこと。同時に日本の問題とされていることを日本政府の問題として捉え直し、味方の弱みを強みに変えて、相手にゲタを預けてジレンマに追いやり、仕掛けた作戦を修正せざるを得なくする方向が、高等戦術としてこの際は肝心だと考えて、私は自制しながら用心深くしゃべった。
こういった戦術展開は役人には不向きであり、組織に属して正攻法が原則の正規軍は、昔から自分の武器を使うように訓練され、相手の武器を逆用するゲリラ戦法は出来ない。私はウイーン会議のタレイラーン・ペリゴール(フランスの政治家)の教訓を生かして、多分に危険な賭けになる恐れもあるが、起死回生を狙ってジレンマ戦法を試みた。
また、別のテレビ局から電話が入り、生のニュース番組に出て欲しいと頼まれたが、私は作戦の効果を考えてそれを断わった。時限爆弾は決定的な瞬間だけに有効だし、その前触れがないことが肝心であり、私の目的は路線変更を訴えるメッセージである。最初は驚いて嫌悪を感じた人も、長期的には日米両国民の友好に役立つことを理解し、後になって喜ぶはずと自信があったので、狙いをひとつに集中することにした。
「弱い海部」に戦意喪失
早朝の電話で叩き起こされて、サミット当日の三月二日が始まった。電話の相手は『デザート・サン』に出ている記事が、物凄い強烈なパンチカを持っていると教えてくれた。そこで新聞を買って来て読むとなるほど凄まじく、われながら大いに驚いてしまったが、電話がひっきりなしに鳴って悲鳴を上げたくなった。
私にインタビューした記事は大扱いで、幾つものコメントがクォートとして連なり、一つの論調スタイルとしてまとめられ、概略は次のような具合の記事になっていた。
このサミットに海部内閣の運命がかかっており、ブッシュが通商問題にこだわって、海部に強い圧力を掛けすぎると、海部内閣はたちまち崩壊してしまう。海部は余りにも基盤が弱い政治家だから、アメリカ側の圧力に耐える力も、スマートさも持ち合わせていない。しかも、与党の中の反対勢力は失敗を種にして、権力奪取の口実に使おうとしている。海部は余りにも少数派であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるをえない。日本政府の内容は非常に分かり難く、アメリカ人はそのことが理解出来ていない。
三四年間政権を握ってきた自民党の上層部は、収賄疑獄に連座してガタガタであり、海部は六か月前に浮上してきた。そして、スキャンダルで汚染されていなかったので、彼は少数派閥に属していたにもかかわらず、与党議員によって首相に押し出された。彼が汚職に巻き込まれなかった理由は、彼がとるに足らない人物だったからだ。汚職に関与した政治業者たちは、ブッシュが海部をお粗未に扱えば、それを口実に日本人の説得を試み、失地を回復して権力を奪い返すだろう。もし、ブッシュが日本叩きに加わって、勝利者になろうとするような真似をすれば、海部はたちまち一巻の終わりである。日本にはアメリカを嫌悪する政治家がいるが、彼らはブッシュのそういう姿勢を悪用しようと、手ぐすね引いて待ち構えている。海部を通商問題に追い詰めないで、東欧やラテン・アメリカの援助などで協力し合う方向を、ブッシュは追求すべきである。日本はこの方面で貢献できるが、しかし、日本の企業と政治業者たちは、金が儲かる場合だけ関心を示す手合いである。また、ブッシュとアメリカ人はグローバリストだが、海部を倒して登場するのは国家主義者である。そして、これは非常に危険きわまることである。
この記事がサミット特集の冒頭に出たので、読んだアメリカ人たちは仰天したらしい。特に、海部は余りにも少数派閥であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるを得ない、という私のコメントは、後半の英語の文章を切り捨ててしまった。そのために、海部はちっぽけな男であり、完全に無能力であるという表現になっていた。その結果、海部の存在はとるに足りないものになり、ブッシュに対してのグリーンメール効果は絶大で、アメリカ側は完全に出鼻を挫かれた形になった。アメリカ人は相手が自分より強いと、闘志を剥き出しにして挑むが、日本人と違って弱い者苛めは好まないから、彼らのファイトが雲散霧消したという意味で、日本人はこの記事を書いたスペンサー記者に感謝すべきかも知れない。
サニーランズの晩餐の味
いくつかの地方ラジオ局を相手に電話で質疑応答しているとき、ブッシュは午後三時に大統領専用機で、そして、海部は少し遅い三時一五分に空軍のDC−9でパームスプリングスの市営飛行場に到着して、両国の首脳は儀礼兵の前で握手を交わした。その模様は夕方のテレビのニュースで見ただけだが、随行してきた数十人の役人に入れ智恵されて、海部首相が余計な弁明をしたり、空威張りの演技などをせずに、一生懸命に誠実な姿勢を貫けば、このサミットはうまく行くと感じた。
これまでの日本の外交の印象は、お粗末な役者を化粧と振付で誤魔化しただけで、訓練された身のこなしや品位が欠けていたが、それ以上に演出の狙いが見え透いていたし、シナリオが幼稚で出たら目なものが多かった。役人や小姓のレベルの発想ではなく、近代を築いたブルジョワジーのアプローチが取れないなら、思い切って捨て身で行くのが有効だが、今回の場合はその手で行けそうな感じがした。
それから後のことは、随行記者がいろいろ記事を送っているはずだから、私はアメリカ側から見たサミットの模様を書くにとどめよう。
最初の会談が終わってひと休みしてから、本来はブッシュが招かれていた晩餐に、海部は主賓の一人として加わり、ウォルター・エネンバーグのお客として常連の、マリブに住む元タイヤ王のファイヤーストン夫妻や、カンサスシティから来たグリーティング・カード王国のホール夫妻と共に、サニーランズの食卓の会話に仲間入りした。
この夜の主賓はブッシュと海部の各夫妻の他は、ビジネス帝国のオーナー夫妻であり、主賓が家来として連れて来ている、べーカーを始めとしたホワイトハウスのスタッフや、中山のような海部内閣の閣僚は、最初はその他大勢の扱いのはずだった。なぜならば、これはウォルターの個人的な晩餐であり、頑固者の彼のスタイルで行う予定だったからだ。
しかし、世界中が注目しているということで、これも役人根性の現われだが、国務省の行う晩餐の形を取りたいので、食事代を儀典予算から払い戻すから、総ての明細書を提出して欲しいという、実に愚劣なことを言い出した。そのために、億万長者のぺースで豪華にやるつもりだったのに、ブレーキをかけられた感じになり、ホストのエネンバーグ夫妻は気分を痛く害されていた。フランスの年代物のブドウ酒の予定が、カリフォルニア産のワインに切り替えられたそうだが、サミットの周辺で取り沙汰された、会議にまつわる随員や議員の雑音と同じで、役人がお節介をすると碌な結果にならない。
晩餐はそれなりに楽しく行われたようであり、サニーランズで晩餐に招かれた日本人のリストだと、私が知っている限りでは、海部夫妻は二番目の栄誉に輝いたと思う。一番目にサニーランズに招かれた日本人は、米国の実力者に知己の多い郷裕弘夫妻であり、彼らはブッシュ夫妻と同じように、ゲストハウスで週未を過ごしている。
だから、いくら小派閥で自民党内で弱い存在でも、これまでの首相が誰も浴していない経験を持つ以上、首相はこの体験で自信を持つといい。アメリカ人を相手に田舎芝居を演じた中曽根や、世界中に札束をばら撒いて歩いた竹下も、サニーランズに呼ばれなかったことを考えれば、先任首相たちの顔色を伺う必要はなくなった。その他の自民党議員はもはや紙屑同然だと思っていいほどで、サニーランズの主賓という勲章は、資本主義体制下では価値がある。
なにしろ、相手は小物政治家を今まで二人もホワイトハウスに送りこみ、米国の大統領を作った男であり、大統領の黒幕だからだ。もっとも、政治家としては共に二流以下であり、アメリカの名誉と地位をぶち壊したが、ニクソンやレーガンのパトロンの砦での主賓の体験は、一つの財産であるのは間違いない。
しかも、彼らの日本側のパートナー役を演じたのは、田中角栄と中曽根康弘という希代の姦雄であり、この二人は米国側と同様に、派手に政治をひっ掻き回したが、ともにロクな最後を飾っていないのだから、海部首相には「他山の石」と「反面教師」まで揃っている。
官卑民尊のパラダイス
この前ブッシュがパームスプリングスに来たのは、副大統領時代の一九八八年だったが、たとえホワイトハウスのスタッフでも、ここでは権力者としての快感は減少する。なぜならば、自由人が最も尊敬される風土のせいで、事業のオーナーや自由業が最上であり、たとえ大会社でも現役はランクが高くなく、日本入には有名なクライスラーのアイアコッカなどは、ここでは砂漠のガラガラ蛇並みの存在である。あんな男は働くことしか知らない、ヤッピーの親方に過ぎないというほどだ。日本では米国通だと言われているソニーの盛田会長だって似たような扱いの存在だ。
それでもレーガン夫妻は正月の休暇を首を長くして待ち、過去二二年間も続けてクリスマスから正月を、サニーランズで過ごす習慣を持っていた。
毎年この時期にはレーガンがここに居ると聞き込んで、ロニーが嫌だというのを無理に頼み込んで実現したのが、一九八五年正月二日のロスのサミットである。しかも、日本では大宣伝のロン=ヤス関係でも「パームスプリングスに来い」という声は、信用の無い中曽根には全くかからなかった。
その頃の私は、ペパーダイン大学の総長顧問であり、サミットの前にヤング総長から相談を受けたが、それはホワイトハウスからの打診で、中曽根に名誉学位を出せないかという話だった。
当時の中曽根は飛ぶ鳥の勢いだったので、レーガンはロスみやげを何かやりたかったようだが、私は大学の名誉のために止めた方が良いとアドバイスした。
加州随一の豪邸が並ぶマリブにあるこの大学は、西部エスタブリッシュメントの子弟を集めて、ホワイトハウスの路線と緊密な関係を持っていた。
知事時代のレーガンもそうだが、一九八四年にナンシーにも名誉学位を贈ったので、レーガンは中曽根にもやって貰いたかったらしい。だが、誰も中曽根を心からサポートしなかった結果、彼は一月二日にレーガンと一時間の会談と、昼飯を一緒にしただけが公式日程の中身になり、あとは到着した元旦にアロハ豆腐を食べただけで、直ぐにハワイに飛びゴルフで気を紛らわせた。
この点では海部へのアメリカ側の扱いは、はるかに鄭重で友情に溢れていたが、当時の日本人は中曽根の派手な演技政治で、すっかり欺瞞されてその本質が見えなかった。
お粗末な政治家たち
サミット二目目の三月三日は、ランチョ・ミラージュはブ ーゲンビリアの花盛りだった。朝六時にテレビのスイッチを入れたが、土曜朝の三大ネットワークは子供のマンガ番組ばかりで、どこもサミット関連の番組をやっていない。新聞を買いに行くと地元の『デザート・サン』は、両首脳が握手するカラー写真が一面にあったが、『ロサンジェルス・タイムス』の一面は小さな記事があっただけ。また、『ニューヨーク・タイムス』の一面のトップは、話題の中心のウォルター・エネンバーグが、五〇〇〇万ドルを黒人大学基金に寄付した記事であり、首脳会談のレポートはその下の扱いだった。
どうやら今回のサミットの勝利者は、チャンスを最大に生かしたウォルターだったような感じがする。
朝八時になってやっとABCで報道番組があり、ガーリー・アトレイの「プレスに会う」で民主党のゲパート議員が、ヒステリックな反日論を展開していた。
アメリカは日本と結婚しているのだから、夫を苦しめるのは許せないという愚論をまくし立て、放送記者のアンドレア・ミッチェルに、嫌ならなぜ離婚しないのかと笑われる始末だ。
こんなお粗末な人物が議会代表だから困るので、日米問題の行き詰まりは両国の多数党議員の質の悪さに、基本的な欠陥があるという感じがした。日本の市場に問題があるのではなくて、巨大な日本の政府と強力過ぎる官僚機構がガンだのに、それが分からないのだから始末に悪く、こんな人物を相手にするブッシュも気の毒なことである。
二回目に当たる朝の会談が終わると記者会見になり、いかにも官僚が作文したと分かるステートメントを、海部は日本語で読み上げたが、やはり役人の限界が現れていて、サミットの場を提供した地元の市民や、例外的に好意を示したエネンバーグ夫妻への感謝の言葉が、どこにも見当たらなかった。若い頃に帝王学の修行をしていないから、こんな詰まらないミスをするのであり、二世議員ばかりが増加する日本の将来が心配になる。
時間がないという理由で、首相は質疑応答も省略してしまい、大慌てで飛行機に飛び乗ったので、敵前逃亡に似た印象をアメリカ人に与え、立つ鳥があとを濁してしまったのは惜しかった。虎の威を借りずに精一杯やった印象を与えたのに、これは海部個人の礼儀のイメージ上惜しかった。
孤独にプールで泳ぐ姿を随行カメラマンに撮られて、パパラッツァ連れ(取囲きカメラマン連れ)をアメリカ人の前にさらすのではなく、本当なら、ブッシュと一緒にジャクジ(噴流温泉設備)にでも入って、もっと心の余裕を示してもらいたかったが「びっくりサミット」だった以上は仕方がない。
アメリカ側では「日米構造障壁協議」と呼んでいるSIIを、日本のマスコミはいつもの通りの御都合主義で「日米構造協議」とごまかしの訳を使っている。そして、まるで障壁が存在していないかのごとき扱いをしているが、この協議のメインテーマこそ、日本における各種の障壁の問題に他ならない。
だから四月九目にワシントンで一応アメリカ側の諒承をうけた中間レポートは、日本側の政治的譲歩を印象づけ、ブッシュ大統領もこれで何とか一息つけると判断したのである。
しかし、この中間報告以上のものが七月の最終レポートに期待できる訳ではなく、七月の段階で落胆したアメリカ側の憤懣が炸裂して、対日制裁が苛酷になるであろうということも、今の段階で予測できる。そして、その時こそアメリカ側の撃破攻勢が威力を発揮して、官僚が長年にわたって築きあげた統制と支配の体制と、自民党の族議員の利権と結びついたナワ張りを痛打するのではないか。国民の利益を踏みにじって、長期独占によって利権化して硬直化した自民党の幕藩体制と、肥大化してガンのように自己増殖を続ける官僚主義への日本版ペレストロイカがアメリカ人の開国強要によって、新しい突破口が開き始まるのではないか。
その段階で、虚妄の中曽根政治をひきついで世界中に札束をばら撒いて歩くだけで、金権政治の枠から抜け出すことの出来なかった竹下政治や、空虚な政治感覚を有名人めぐりで飾り立てている安倍政治などによって特徴づけられている自民党政治が空中分解し、新しい幕末が始まるかもしれないのである。その点では、パームスプリングスのサミットに続く一連のホワイトハウスの動きは、ロン・ヤス関係という偽りの日米友好のお祭り騒ぎを総決算して、新しい日米関係の確立への布石でもあった。
三月一〇〜一三日の竹下のワシントン訪問の実態は、日本で報道されたように丁重なものではなく、外交辞礼の枠の中で適当に軽くあしらわれたものでしかなかった。しかし、それに気づかない日本人は、自民党派閥のレベルでの海部いじめに明けくれているが、ニューリーダーと呼ばれる利権集団や嘘で凝り固まったロン・ヤス関係の時代は、すでにブッシュの頭の中には何の影響力も持ち合わせていないのである。
新しいスターたち
サミットが私の住む町で行われた記念に、在米の日本人としての立場で、日本の政界の掃除と日米間の誤解を除くために、私が中曽根政治の総決算のメッセージを、アメリカ人に向けて行ったことを報告して置きたい。
当地で行われたサミットの報道で主役を演じた『デザート・サン』紙に掲載された私のコメントであり、今回のサミットについての発言の最後の部分だが、より良い日米関係の継続を願って書いた。これはカリフォルニア発のメッセージである。
ジョージ・ブッシュ大統領と海部俊樹首相をメイン・キャストにして、先ごろ開催されたサミット会議で見る限りでは、現在のアメリカや世界が直面している難題について、海部首相は理解が出来ていると思うので、日米両国のより良い関係の復活の努力を期待したい。
かつて一世を風靡したロン=ヤス物語は、まさに出来の悪い俗悪映画並みだった。
しかし、新しいスターたちによる次の大作は、最優秀映画賞、最優秀主演賞、最優秀助演賞などで、アカデミー賞のオスカーに輝くかも知れないのだ。一体誰が助演賞の栄誉を獲得するのかを、これから大いに楽しみにして、その結果を待ち望むことにしたい
アメリカ人向けに工夫したメッセージだから、直訳すると原文の持ち味が消えてしまい、持って回ったようで口当たりが悪いが、米国の読者ならピンとくるはずである。日本が「巨悪」と名付けた中曽根の別名を、私は「ウルチメイト・イーグル」と、この記事で英訳しておいた。
今回のサミットで、首相のメリットになり、アメリカ側に印象付けるのに成功した、信頼の基礎は誠意だという点を思い出し、これが、日米を友情で結ぶ絆になるようにと希望してやまない。(文中敬称略)
「日米緊急サミット」で何が起こったか?
インサイド・レポート パームスプリングス発 藤原肇
インサイド・レポート パームスプリングス発 藤原肇
砂漠の中のゴルフのメッカ
避暑地というのは幾らでもあるが、「避寒地」の良い例が日本には無いので、具体的なイメージを思い浮かべるのが困難かもしれない。その困難な避寒地の米国における代表が、実はカリフォルニアのパームスプリングスである。ここは冬の厳しい寒さとは無関係で、一年中ブ ーゲンビリアや爽竹桃の花が咲き乱れ、三月の頃はレモンやグレープフルーツが、街路樹として色付いた実をたわわに付けている。
この周辺は砂漠の中のオアシスを囲んで、人工的に緑地を作り上げたという、いかにもアメリカらしい場所である。琵琶湖の大きさに似た南北三〇キロほどの盆地に、何とゴルフ場だけでも七〇か所以上もあるので、アメリカのゴルフのメッカとも呼ばれている。
同時にここは、アメリカの金持の別荘地でもあり、「フォーチュン誌五〇〇社」のトップの八割以上が、パームスプリングスの周辺に保養のための別荘を持っている。しかも、ここを頂点にしてロサンジェルスとサン・ディエゴを結ぶと、二等辺三角形が出来上がり、共に二五〇キロの距離にあるので、南加の二大都市の住人も別荘を持ち、週末の休暇をゴルフやハイキングで過ごすために遊びや保養に来る人も多い。
とくに、パームスプリングスが全米から注目されるのは、三月終わりの春休みの季節である。アメリカ中の高校生や大学生が四万人近くも、太陽を求めてここに集まるのがスノビズムで、若者の間では三月にパームスプリングスに行ったことが、一種のステイタス・シンポルになっている。ただし、大量の若者が集まってストームをやり、酔っ払って自動車をひっくり返したり、カンバンを壊すことが例年繰り返され、警官隊と学生の乱闘が社会問題になっている。そこで、今年は春休みの間だけホテル代に四ドル加えて、それを特別警備費用の税金にする議案が、地元の賛否両論をかき立てていた。
そんな所へ、突然、三月二日と三日の週末に、ブッシュ大統領と日本の海部首相がここで会い、「砂漠のサミット」が行われると発表されたので、ほとんどの入が怪訝な顔をして何事かと首をひねった。
腹に据えかねた大統領の電話
このところパームスプリング周辺は地震が頻発し、震度四から五ていどの小さいのが、予告無しにぐらぐらと来るので、馴れない観光客が大騒ぎをしている。地震でびくついていた住民や観光客が、サミットの話で別のエキサイトメントに驚かされたが、今度はその震源地が遠い東京であり、ナマズをつついたのはホワイトハウスの主人公だったわけだ。
東京で行われ二月二三日に終了した日米構造障壁協議の結果が、余りにも期待外れだったので、米国側の代表が日本政府の態度に不満を表明し、その報告を東京から受けたブッシュは、一時間後には自ら海部にホットラインで電話した。大統領はよほど腹に据えかねたのだろうが、これはまさに、海部が仰天するほど早い反応だった。
三月第一週のパームスプリングスでは、恒例のビンテージ・クライスラー国際コンペが行われる。ビジネス一筋の哀れなアイアコッカは来ないが、これは米国でも令名の高いゴルフ大会だから、アメリカ中の人が集まって、一種の慈善を主体にした社交の舞台になる。
ブッシュはかなり前からこの時に招待され、元駐米大使のウォルター・エネンバーグの邸宅の「サニーランズ」に滞在することになっていた。だから、ブッシュは海部にパームスプリングスに来てもらい、サニーランズで首脳会談をしようと申し入れたのである。
海部首相としてはイエスと返事するしかなく、こうして砂漠のオアシスでの会談が決まったが、一番びっくりしたのは日本の海部自身だった。何しろ、当時は第二次海部内閣で決まりそうな閣僚は、首相一人だけだったからである。しかも、たとえ第二次海部内閣が発足しても船出は楽ではなく、足を引っ張ったり落とし穴を掘って、基盤の弱い首相を陥れて混乱させ、その隙を狙って権力を手に入れたい策士は、自民党の各派閥の頭目を始めとして、ゴマンと存在しているのは自明だった。お蔭で組閣の人選は難航、前代未聞の明け方の決定になったのは周知の通り。新首相はサミットを控えたパニック状態の中で、とりあえずは外相と蔵相だけは決めて置こうと、能力には無関係に再任して置くことで、飛行機に飛び乗った。
海部は疲れ果てて、座席ベルトを閉めると同時に眠りに落ちたかも知れないが、精神分析の状況診断からすると、アメリカの大統領から呼び付けられた以上は、まな板の上の鯉に似た心境で、首相はとても安眠できなかったはずである。
サニーランズの白亜の大邸宅
パームスプリングス周辺で最も高級な町は、大邸宅とカントリー・クラブで構成されたランチョ・ミラージュであり、その中でも飛びぬけているのがサニーランズだ。このウォルター・エネンバーグの広壮な白亜の邸宅は、ボッブ・ホープ通りとフランク・シナトラ通りの角に位置して、二五万坪の屋敷の中には、九ホールのゴルフコースまである。
芸能人の名前を道路名に付けているのは、世界で余り例がないことだが、芸能人なら誰でもいいわけではなく、ランチョ・ミラージュに邸宅を構える他に、億の単位の資産を持っていて、大きめのミリオネヤーであることがその必要条件だと言われている。
そこで、フランクとボッブ以外の芸能人では、今のところ歌手兼女優のダイナ・ショアーと歌手のジーン・オートレイが、自分の名前がついた道路をこの町に持っている。ジーン・オートレイはアメリカ人なら誰でも知っているように、ウエスターン・シンガーの第一号であり、歌うカウボーイとして戦後の四〇年代末に売り出し、数多くのヒット曲をものにしている。彼に少し遅れて登場したジョン・ウェインやロイ・ロジャースと並んで、この三人は五〇年から六〇年代にかけての、ウェスターンの黄金時代のトリオとして有名だ。
ランチョ・ミラージュにはエネンバーグの他に、フランク・シナトラや引退したジェラード・フォード元大統領、監獄帰りのアグニュー元副大統領やマフィアの親分などが住むが、ほとんどがゲート付きだから、外部の人間は立ち入り不可能だし、住入の名は電話帳に出ていないから、住民の誇りが高いこの町は日本人には未だ知られていない。
最初にランチョ・ミラージュを訪れた時に、私もこの町の奇妙な通りの名前と共に、ボッブ・ホープ通りに面して広大に続いている、爽竹桃の垣根に取り囲まれたエネンバーグ邸の規模に驚いた。何しろ、屋敷の中には九ホールのゴルフ場や、テニスコートやプールは言うまでもなく、大小さまざまな一二の池と馬場があるし、四室の寝室を持つ二軒のゲストハウスが、一〇メートルを越える天井を持つリビング・ルームを持つ、白塗の母家に隣接して並んでいる。
持ち主のエネンバーグは元ロンドン駐在のアメリカ大使で、新聞・雑誌・テレビなどによって、フィラデルフィアを中心にメディア帝国を築いた、ドイツから移民したユダヤ系の億万長者である。彼の支配した一番よく知られている雑誌は週刊『TVガイド』であり、これはアメリカのスーパーなら何処に行っても、出口のキャッシャーの所に並んでいる。
毎週二〇〇〇万部のテレビ番組の雑誌の他には、若者向けの『セブンティーン』の九〇〇万部があり、すでに引退している彼自身としては、トライアングル=パプリケーションズも売却したので、今は専ら慈善事業が最大の関心事になっている。
彼が屋敷の中にゴルフ場を作ったのは、ある日、大事なお客と突然ゴルフをしたくなり、飛び入りでゴルフ場に行ったところ、二時間も待たされたので腹を立てて、自分専用のコースを作ったのであり、彼は自分のやりたい通りに生きるタイプの男だ。
同じようなエピソードは未だ幾らでもある。ニクソンが大統領になった時に、ウォルターは米国大使としてロンドンに赴任したが、大使館の外見は立派だが内部の老朽化が激しかった。彼は「こんなむさくるしい所では仕事は出来ない」と不機嫌に言い、ワシントンに改造費を要求したが、送って来た金額は五万ドルだった。そこで彼はいつもの癖で腹を立て、自分が理事長をするエネンバーグ財団から、一〇〇万ドルの慈善資金を政府へのお恵みとして提供させ、大使館の内部を自分の好みに大改装した。しかも、各部屋には彼の美術コレクションから、ゴーギャンの「母と娘」やセザンヌなどの傑作を取り寄せて飾り、まるで小型美術サロンのような雰囲気にして、ロンドンの社交界の目を見張らせたのだった。
また、彼の父親のモーゼスはやり手の男で、ハースト系の新聞の販売員から始めて、独立した新聞を築き上げ、特に競馬予想紙で成功しているが、脱税で刑務所暮らしをしたり、差押えを食らったりの荒れ方だった。だから、ウォルターの貰った遺産の公式目録は、「現金五万五〇〇〇ドルとキャデラックが二台、それに、ウイスキーが二箱」となっていた。
しかし、名うてのビジネスマンの父親の仕掛けで、破産同然の遺産相続は数千万ドルの価値を持っており、それを彼は年商数億ドルのビジネスに育てたが、昨年トライアングル出版社を三二億ドルで売却したし、現在までに一〇億ドルを慈善事業に寄付している。
大統領を送り込む男
パームスプリングスで休暇を過ごすことは、アメリカ人のありふれた夢だが、サニーランズに招かれて週末を過ごすのが、著名人にとってのステータス・シンボルでもある。
ニクソンが三三歳でカリフォルニアの下院議員になった時に、ウォルターの母親が、「あの若い男は見所があるから、目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、ニクソンは時々ここに招かれて、最後にはホワイトハウスの主人公になった。
レーガンもカリフォルニア州知事の頃から客の仲間入りをし、毎年親しい友人たちを集めてやる年越しのパーティーには、ナンシーと共に過去二二年間続けて招かれ、その間に大統領にもなった。また、英国のエリザベス女王もお客になったし、逃避中のイランのパーレビ皇帝にも、避難の棲家としての提供があったことは有名だ。
そして、大統領になったブッシュとバーバラ夫人に、最良の季節の週末休暇の招待状が届き、ジョージは三月の第一週に招待の休暇を過ごすことになっていた。
そんなときに日米構造障壁協議の失敗の連絡が届き、朝九時にホワイトハウスでそれを知ったブッシュは、日本語の達者なブレーンを使い、シチュエーション・ルームと海部の居たホテル・オークラを電話で結び、翌週の週末にパームスプリングスに行くから、そこでサミットをやろうと伝えたのだった。この段階では海部は首相に指名されていないし、閣僚も未だ決まっていなかったが、泡を食った海部は駆け付けることを約束した。
こんなドタバタは外交常識では考えられないが、過去十数年間の日本は政治的アナキーだから、円熟味の無い海部のあわてた決定でも、国を挙げて遂行のために全力を傾けた。国際政治を国会対策のレベルで考えているので、日本では外交がまともに機能しないし、ルールが何かを思い巡らす頭脳が欠落しても、誰も不思議に思わないままである。
面白いエピソードがある。ウォルターという男は、駐英大使に任命された時に、ガンコ者で外交的な儀礼を弁えない男だと皆が心配したものだが、女王陛下の所で磨きをかけただけあって、この緊急のサミットをサニーランズで行うと聞くと、ウォルターはジョージ・ブッシュをたしなめて、こんな内容のことを言ったそうである。
「ブッシュ大統領はウォルターのお客だから、お客が招待主の所に別のお客を招くのは、アメリカ人同士としても礼儀に外れている。外交官をやった人間の判断からすると、日本人の中にもこの非礼を怒る人がいるだろうし、ヨーロッパの連中の軽蔑を受けかねない。お膳立てをし直して上げるから、段取りは自分に任せてくれ」
さすがにヨーロッパで外交界の空気を吸っただけに、この八二歳の悠々自適の老人は、酒落たアドバイスを大統領に与えたものだ。これは年の功の威力であると共に、帝王学が教えるマナーを知るということである。若い頃にジャジャ馬として鳴らした彼も、ロンドンでの滞在経験が役に立ち、その後は随分洗練されてしゃれた人物になったわけだ。
ジョージ・ブッシュはイェール大卒のエリートだし、戦時中は海軍のパイロット将校をやった上に、中年前期にはテキサスで石油関連のビジネスに関係して、山師的な素早い決断力を持っているが、彼にはヨーロッパでの修行が欠けている。だから、同じ一九世紀的でも砲艦外交の無骨さは分かるが、宮廷外交の味わいを首脳会談につけるには、彼は余りにもテクサンだしアメリカ的である。
そこでウォルターに総てを任せ、宮廷外交のプロにお膳立てを頼むと、元大使はサニーランズから八〇〇メートル離れているモーニングサイド通りとフランク・シナトラ通りの角の、「ザ・クラブ」のオーナーのエド・ジョンセンに話を持ち掛けて、緊急に頂上会談の座敷を提供してもらい、サミットの会場がモーニングサイドに決定した。
この連絡は直ぐに東京に届けられて、二月二七日にはロスの日本領事館員が現地の下見を行い、ジャック・ニクラウス設計のゴルフコースのあるこの「ザ・クラブ」で三月二日の夕方と三日の朝の会談が確定した。
同じ頃の東京では難航した組閣で、辛うじて明け方に第二次海部内閣が発足したばかりだから、話は全く逆立ちした状態で始まったことになる。
それから後の準備が大変である。会場になるクラブハウスは徹夜で内部の改装が行われたし、満員のホテルに懇願して部屋を空けでもらい、日米両方の随員や記者のために、最低で五〇〇室は確保する必要があった。とりあえず、パームスプリングスのヒルトンとウインダムの両ホテルに、日本側はどうにか一五〇室を確保したが、最大の問題は電話回線の増設であり普通なら五週間かかる大工事を、大統領命令で電話会社は四日でやりとげた。
サミットヘの緊急集合
アメリカの問題点は東部の人間たちにあり、彼らは仕事に追われて神経過敏で、サミットを政治問題として大騒ぎする。この点、日本人やドイツ人の気質と共通している。それに対して南部や西部の住民は、普段からストレスによる疲れはないので、比較的のんびりしている。だから、緊急サミットの大騒ぎも、私の所へは東方のカナダやウィチタの記者たちから押し寄せてきた。そんなわけで、自分の住む町で日米サミットがあると知ったのは、やっと二月二七日のこと。そこで大急ぎでテレビやラジオのニュースを集めて、やっと状況を把握した。実際問題としてサミットのある二日には、私はサンディエゴで人と会う予定だのに、ジャーナリストの友人が来るという連絡が届くし、地元のテレビ局はインタビューしたいと言う。テレビなどに出るとプライバシーが無くなり、人生がつまらなくなるのでテレビなどにかかわりを持ちたくないのに、無理やりビデオ撮りだからということで、地元のテレビ局で五分ほど喋らされた。そして、この会談が「びっくりサミット」であり、海部首相が慌ててここまでやってきて、役人の入れ智恵で細かい弁解をするのが心配だし、詰まらない約束をさせられたら良くないという話をした。
それが終わってスタジオから出たところで何気なく見たテレビのニュース番組で、東部のキイ・ステーションの報道は、ここで行われるサミットに関して、ワシントンの議員が日本の市場の閉鎖性について愚劣な文句を並べているだけでなく、日本人が弁解している姿が映っていた。日本人の発言者は市場がオープンだと主張していたが、自分の立場を言うだけだから説得力が全くない。東部にいる日本代表がこんな程度なら、海部首相の発言も似たようなものになり、アメリカの狙いにやられる恐れがある。自民党や首相が叩かれるのなら、自業自得だから一向に構わないが、日本文化や日本人が攻撃されたのでは迷惑だ。そう思いながら何か良い案がないかと考えたが、どうやら、東部の連中のフラストレーションが、サミットに集中しそうな感じで、これは大変だと思った。
弱みを強みに変える戦法
家に戻ると、今度は地元の新聞杜からの電話があり、翌日に開かれるサミットに関して、私のコメントを取材をしたいと言う。この段階での私の心の中は、すでに、サミットの路線変更の必要性を痛感しており、とくに、アメリカ中からここに集まるジャーナリストと、ブッシュ大統領へ宛てたメッセージを、タイムリーに発信することが必要だと判断していた。翌日の三月二日はサミット開会日である。米国の中核人物は地元の新聞を嫌でも読むから、『デザート・サン』紙に的確なコメントを提供すればイニシアチブは握れるに決まっていると考えて、電話でインタビューをする相手に私は慎重に喋る言葉の順序を組み立て続けた。
まず第一に必要なことは、今回のサミットが狙っている路線の修正であり、通商関係や二国間関係からテーマを移し、問題の焦点を国際関係全般の方向に持って行き、グローバリズムとナショナリズムの対立関係として、明確に浮かび上がらせてしまうこと。同時に日本の問題とされていることを日本政府の問題として捉え直し、味方の弱みを強みに変えて、相手にゲタを預けてジレンマに追いやり、仕掛けた作戦を修正せざるを得なくする方向が、高等戦術としてこの際は肝心だと考えて、私は自制しながら用心深くしゃべった。
こういった戦術展開は役人には不向きであり、組織に属して正攻法が原則の正規軍は、昔から自分の武器を使うように訓練され、相手の武器を逆用するゲリラ戦法は出来ない。私はウイーン会議のタレイラーン・ペリゴール(フランスの政治家)の教訓を生かして、多分に危険な賭けになる恐れもあるが、起死回生を狙ってジレンマ戦法を試みた。
また、別のテレビ局から電話が入り、生のニュース番組に出て欲しいと頼まれたが、私は作戦の効果を考えてそれを断わった。時限爆弾は決定的な瞬間だけに有効だし、その前触れがないことが肝心であり、私の目的は路線変更を訴えるメッセージである。最初は驚いて嫌悪を感じた人も、長期的には日米両国民の友好に役立つことを理解し、後になって喜ぶはずと自信があったので、狙いをひとつに集中することにした。
「弱い海部」に戦意喪失
早朝の電話で叩き起こされて、サミット当日の三月二日が始まった。電話の相手は『デザート・サン』に出ている記事が、物凄い強烈なパンチカを持っていると教えてくれた。そこで新聞を買って来て読むとなるほど凄まじく、われながら大いに驚いてしまったが、電話がひっきりなしに鳴って悲鳴を上げたくなった。
私にインタビューした記事は大扱いで、幾つものコメントがクォートとして連なり、一つの論調スタイルとしてまとめられ、概略は次のような具合の記事になっていた。
このサミットに海部内閣の運命がかかっており、ブッシュが通商問題にこだわって、海部に強い圧力を掛けすぎると、海部内閣はたちまち崩壊してしまう。海部は余りにも基盤が弱い政治家だから、アメリカ側の圧力に耐える力も、スマートさも持ち合わせていない。しかも、与党の中の反対勢力は失敗を種にして、権力奪取の口実に使おうとしている。海部は余りにも少数派であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるをえない。日本政府の内容は非常に分かり難く、アメリカ人はそのことが理解出来ていない。
三四年間政権を握ってきた自民党の上層部は、収賄疑獄に連座してガタガタであり、海部は六か月前に浮上してきた。そして、スキャンダルで汚染されていなかったので、彼は少数派閥に属していたにもかかわらず、与党議員によって首相に押し出された。彼が汚職に巻き込まれなかった理由は、彼がとるに足らない人物だったからだ。汚職に関与した政治業者たちは、ブッシュが海部をお粗未に扱えば、それを口実に日本人の説得を試み、失地を回復して権力を奪い返すだろう。もし、ブッシュが日本叩きに加わって、勝利者になろうとするような真似をすれば、海部はたちまち一巻の終わりである。日本にはアメリカを嫌悪する政治家がいるが、彼らはブッシュのそういう姿勢を悪用しようと、手ぐすね引いて待ち構えている。海部を通商問題に追い詰めないで、東欧やラテン・アメリカの援助などで協力し合う方向を、ブッシュは追求すべきである。日本はこの方面で貢献できるが、しかし、日本の企業と政治業者たちは、金が儲かる場合だけ関心を示す手合いである。また、ブッシュとアメリカ人はグローバリストだが、海部を倒して登場するのは国家主義者である。そして、これは非常に危険きわまることである。
この記事がサミット特集の冒頭に出たので、読んだアメリカ人たちは仰天したらしい。特に、海部は余りにも少数派閥であり、派閥争いをコントロールして指導する点で、完全に無能だと言わざるを得ない、という私のコメントは、後半の英語の文章を切り捨ててしまった。そのために、海部はちっぽけな男であり、完全に無能力であるという表現になっていた。その結果、海部の存在はとるに足りないものになり、ブッシュに対してのグリーンメール効果は絶大で、アメリカ側は完全に出鼻を挫かれた形になった。アメリカ人は相手が自分より強いと、闘志を剥き出しにして挑むが、日本人と違って弱い者苛めは好まないから、彼らのファイトが雲散霧消したという意味で、日本人はこの記事を書いたスペンサー記者に感謝すべきかも知れない。
サニーランズの晩餐の味
いくつかの地方ラジオ局を相手に電話で質疑応答しているとき、ブッシュは午後三時に大統領専用機で、そして、海部は少し遅い三時一五分に空軍のDC−9でパームスプリングスの市営飛行場に到着して、両国の首脳は儀礼兵の前で握手を交わした。その模様は夕方のテレビのニュースで見ただけだが、随行してきた数十人の役人に入れ智恵されて、海部首相が余計な弁明をしたり、空威張りの演技などをせずに、一生懸命に誠実な姿勢を貫けば、このサミットはうまく行くと感じた。
これまでの日本の外交の印象は、お粗末な役者を化粧と振付で誤魔化しただけで、訓練された身のこなしや品位が欠けていたが、それ以上に演出の狙いが見え透いていたし、シナリオが幼稚で出たら目なものが多かった。役人や小姓のレベルの発想ではなく、近代を築いたブルジョワジーのアプローチが取れないなら、思い切って捨て身で行くのが有効だが、今回の場合はその手で行けそうな感じがした。
それから後のことは、随行記者がいろいろ記事を送っているはずだから、私はアメリカ側から見たサミットの模様を書くにとどめよう。
最初の会談が終わってひと休みしてから、本来はブッシュが招かれていた晩餐に、海部は主賓の一人として加わり、ウォルター・エネンバーグのお客として常連の、マリブに住む元タイヤ王のファイヤーストン夫妻や、カンサスシティから来たグリーティング・カード王国のホール夫妻と共に、サニーランズの食卓の会話に仲間入りした。
この夜の主賓はブッシュと海部の各夫妻の他は、ビジネス帝国のオーナー夫妻であり、主賓が家来として連れて来ている、べーカーを始めとしたホワイトハウスのスタッフや、中山のような海部内閣の閣僚は、最初はその他大勢の扱いのはずだった。なぜならば、これはウォルターの個人的な晩餐であり、頑固者の彼のスタイルで行う予定だったからだ。
しかし、世界中が注目しているということで、これも役人根性の現われだが、国務省の行う晩餐の形を取りたいので、食事代を儀典予算から払い戻すから、総ての明細書を提出して欲しいという、実に愚劣なことを言い出した。そのために、億万長者のぺースで豪華にやるつもりだったのに、ブレーキをかけられた感じになり、ホストのエネンバーグ夫妻は気分を痛く害されていた。フランスの年代物のブドウ酒の予定が、カリフォルニア産のワインに切り替えられたそうだが、サミットの周辺で取り沙汰された、会議にまつわる随員や議員の雑音と同じで、役人がお節介をすると碌な結果にならない。
晩餐はそれなりに楽しく行われたようであり、サニーランズで晩餐に招かれた日本人のリストだと、私が知っている限りでは、海部夫妻は二番目の栄誉に輝いたと思う。一番目にサニーランズに招かれた日本人は、米国の実力者に知己の多い郷裕弘夫妻であり、彼らはブッシュ夫妻と同じように、ゲストハウスで週未を過ごしている。
だから、いくら小派閥で自民党内で弱い存在でも、これまでの首相が誰も浴していない経験を持つ以上、首相はこの体験で自信を持つといい。アメリカ人を相手に田舎芝居を演じた中曽根や、世界中に札束をばら撒いて歩いた竹下も、サニーランズに呼ばれなかったことを考えれば、先任首相たちの顔色を伺う必要はなくなった。その他の自民党議員はもはや紙屑同然だと思っていいほどで、サニーランズの主賓という勲章は、資本主義体制下では価値がある。
なにしろ、相手は小物政治家を今まで二人もホワイトハウスに送りこみ、米国の大統領を作った男であり、大統領の黒幕だからだ。もっとも、政治家としては共に二流以下であり、アメリカの名誉と地位をぶち壊したが、ニクソンやレーガンのパトロンの砦での主賓の体験は、一つの財産であるのは間違いない。
しかも、彼らの日本側のパートナー役を演じたのは、田中角栄と中曽根康弘という希代の姦雄であり、この二人は米国側と同様に、派手に政治をひっ掻き回したが、ともにロクな最後を飾っていないのだから、海部首相には「他山の石」と「反面教師」まで揃っている。
官卑民尊のパラダイス
この前ブッシュがパームスプリングスに来たのは、副大統領時代の一九八八年だったが、たとえホワイトハウスのスタッフでも、ここでは権力者としての快感は減少する。なぜならば、自由人が最も尊敬される風土のせいで、事業のオーナーや自由業が最上であり、たとえ大会社でも現役はランクが高くなく、日本入には有名なクライスラーのアイアコッカなどは、ここでは砂漠のガラガラ蛇並みの存在である。あんな男は働くことしか知らない、ヤッピーの親方に過ぎないというほどだ。日本では米国通だと言われているソニーの盛田会長だって似たような扱いの存在だ。
それでもレーガン夫妻は正月の休暇を首を長くして待ち、過去二二年間も続けてクリスマスから正月を、サニーランズで過ごす習慣を持っていた。
毎年この時期にはレーガンがここに居ると聞き込んで、ロニーが嫌だというのを無理に頼み込んで実現したのが、一九八五年正月二日のロスのサミットである。しかも、日本では大宣伝のロン=ヤス関係でも「パームスプリングスに来い」という声は、信用の無い中曽根には全くかからなかった。
その頃の私は、ペパーダイン大学の総長顧問であり、サミットの前にヤング総長から相談を受けたが、それはホワイトハウスからの打診で、中曽根に名誉学位を出せないかという話だった。
当時の中曽根は飛ぶ鳥の勢いだったので、レーガンはロスみやげを何かやりたかったようだが、私は大学の名誉のために止めた方が良いとアドバイスした。
加州随一の豪邸が並ぶマリブにあるこの大学は、西部エスタブリッシュメントの子弟を集めて、ホワイトハウスの路線と緊密な関係を持っていた。
知事時代のレーガンもそうだが、一九八四年にナンシーにも名誉学位を贈ったので、レーガンは中曽根にもやって貰いたかったらしい。だが、誰も中曽根を心からサポートしなかった結果、彼は一月二日にレーガンと一時間の会談と、昼飯を一緒にしただけが公式日程の中身になり、あとは到着した元旦にアロハ豆腐を食べただけで、直ぐにハワイに飛びゴルフで気を紛らわせた。
この点では海部へのアメリカ側の扱いは、はるかに鄭重で友情に溢れていたが、当時の日本人は中曽根の派手な演技政治で、すっかり欺瞞されてその本質が見えなかった。
お粗末な政治家たち
サミット二目目の三月三日は、ランチョ・ミラージュはブ ーゲンビリアの花盛りだった。朝六時にテレビのスイッチを入れたが、土曜朝の三大ネットワークは子供のマンガ番組ばかりで、どこもサミット関連の番組をやっていない。新聞を買いに行くと地元の『デザート・サン』は、両首脳が握手するカラー写真が一面にあったが、『ロサンジェルス・タイムス』の一面は小さな記事があっただけ。また、『ニューヨーク・タイムス』の一面のトップは、話題の中心のウォルター・エネンバーグが、五〇〇〇万ドルを黒人大学基金に寄付した記事であり、首脳会談のレポートはその下の扱いだった。
どうやら今回のサミットの勝利者は、チャンスを最大に生かしたウォルターだったような感じがする。
朝八時になってやっとABCで報道番組があり、ガーリー・アトレイの「プレスに会う」で民主党のゲパート議員が、ヒステリックな反日論を展開していた。
アメリカは日本と結婚しているのだから、夫を苦しめるのは許せないという愚論をまくし立て、放送記者のアンドレア・ミッチェルに、嫌ならなぜ離婚しないのかと笑われる始末だ。
こんなお粗末な人物が議会代表だから困るので、日米問題の行き詰まりは両国の多数党議員の質の悪さに、基本的な欠陥があるという感じがした。日本の市場に問題があるのではなくて、巨大な日本の政府と強力過ぎる官僚機構がガンだのに、それが分からないのだから始末に悪く、こんな人物を相手にするブッシュも気の毒なことである。
二回目に当たる朝の会談が終わると記者会見になり、いかにも官僚が作文したと分かるステートメントを、海部は日本語で読み上げたが、やはり役人の限界が現れていて、サミットの場を提供した地元の市民や、例外的に好意を示したエネンバーグ夫妻への感謝の言葉が、どこにも見当たらなかった。若い頃に帝王学の修行をしていないから、こんな詰まらないミスをするのであり、二世議員ばかりが増加する日本の将来が心配になる。
時間がないという理由で、首相は質疑応答も省略してしまい、大慌てで飛行機に飛び乗ったので、敵前逃亡に似た印象をアメリカ人に与え、立つ鳥があとを濁してしまったのは惜しかった。虎の威を借りずに精一杯やった印象を与えたのに、これは海部個人の礼儀のイメージ上惜しかった。
孤独にプールで泳ぐ姿を随行カメラマンに撮られて、パパラッツァ連れ(取囲きカメラマン連れ)をアメリカ人の前にさらすのではなく、本当なら、ブッシュと一緒にジャクジ(噴流温泉設備)にでも入って、もっと心の余裕を示してもらいたかったが「びっくりサミット」だった以上は仕方がない。
アメリカ側では「日米構造障壁協議」と呼んでいるSIIを、日本のマスコミはいつもの通りの御都合主義で「日米構造協議」とごまかしの訳を使っている。そして、まるで障壁が存在していないかのごとき扱いをしているが、この協議のメインテーマこそ、日本における各種の障壁の問題に他ならない。
だから四月九目にワシントンで一応アメリカ側の諒承をうけた中間レポートは、日本側の政治的譲歩を印象づけ、ブッシュ大統領もこれで何とか一息つけると判断したのである。
しかし、この中間報告以上のものが七月の最終レポートに期待できる訳ではなく、七月の段階で落胆したアメリカ側の憤懣が炸裂して、対日制裁が苛酷になるであろうということも、今の段階で予測できる。そして、その時こそアメリカ側の撃破攻勢が威力を発揮して、官僚が長年にわたって築きあげた統制と支配の体制と、自民党の族議員の利権と結びついたナワ張りを痛打するのではないか。国民の利益を踏みにじって、長期独占によって利権化して硬直化した自民党の幕藩体制と、肥大化してガンのように自己増殖を続ける官僚主義への日本版ペレストロイカがアメリカ人の開国強要によって、新しい突破口が開き始まるのではないか。
その段階で、虚妄の中曽根政治をひきついで世界中に札束をばら撒いて歩くだけで、金権政治の枠から抜け出すことの出来なかった竹下政治や、空虚な政治感覚を有名人めぐりで飾り立てている安倍政治などによって特徴づけられている自民党政治が空中分解し、新しい幕末が始まるかもしれないのである。その点では、パームスプリングスのサミットに続く一連のホワイトハウスの動きは、ロン・ヤス関係という偽りの日米友好のお祭り騒ぎを総決算して、新しい日米関係の確立への布石でもあった。
三月一〇〜一三日の竹下のワシントン訪問の実態は、日本で報道されたように丁重なものではなく、外交辞礼の枠の中で適当に軽くあしらわれたものでしかなかった。しかし、それに気づかない日本人は、自民党派閥のレベルでの海部いじめに明けくれているが、ニューリーダーと呼ばれる利権集団や嘘で凝り固まったロン・ヤス関係の時代は、すでにブッシュの頭の中には何の影響力も持ち合わせていないのである。
新しいスターたち
サミットが私の住む町で行われた記念に、在米の日本人としての立場で、日本の政界の掃除と日米間の誤解を除くために、私が中曽根政治の総決算のメッセージを、アメリカ人に向けて行ったことを報告して置きたい。
当地で行われたサミットの報道で主役を演じた『デザート・サン』紙に掲載された私のコメントであり、今回のサミットについての発言の最後の部分だが、より良い日米関係の継続を願って書いた。これはカリフォルニア発のメッセージである。
ジョージ・ブッシュ大統領と海部俊樹首相をメイン・キャストにして、先ごろ開催されたサミット会議で見る限りでは、現在のアメリカや世界が直面している難題について、海部首相は理解が出来ていると思うので、日米両国のより良い関係の復活の努力を期待したい。
かつて一世を風靡したロン=ヤス物語は、まさに出来の悪い俗悪映画並みだった。
しかし、新しいスターたちによる次の大作は、最優秀映画賞、最優秀主演賞、最優秀助演賞などで、アカデミー賞のオスカーに輝くかも知れないのだ。一体誰が助演賞の栄誉を獲得するのかを、これから大いに楽しみにして、その結果を待ち望むことにしたい
アメリカ人向けに工夫したメッセージだから、直訳すると原文の持ち味が消えてしまい、持って回ったようで口当たりが悪いが、米国の読者ならピンとくるはずである。日本が「巨悪」と名付けた中曽根の別名を、私は「ウルチメイト・イーグル」と、この記事で英訳しておいた。
今回のサミットで、首相のメリットになり、アメリカ側に印象付けるのに成功した、信頼の基礎は誠意だという点を思い出し、これが、日米を友情で結ぶ絆になるようにと希望してやまない。(文中敬称略)
『世界週報』 1990.05.22号
ニクソンの世界戦略に乗る
ブッシュ米大統領の頭の中は、「グローバリズム」でいっぱいである。新しい世界秩序の確立のために、彼は既に昨年11月の段階で、ニクソン元大統領を参謀役に起用しており、それが、3月に行われたカリフォルニア州パームスプリングスでの海部首相との日米首脳会談と微妙な形で結びついていた。
それはなぜか。あの会談は、日米関係の阻害要因になっていた「ロン−ヤス関係」という愚劣な虚像を取り払い、日本側の欺瞞的政治の正体をアメリカの首脳部に認識させたという点で、非常に建設的な足跡を残したからである。
3月の日米首脳会談を語る前に、まず、ブッシュ大統領が、レーガン前大統領からニクソン元大統領にウマを乗り替えたことについて触れたい。
ディズニーランド風の楽天的な雰囲気と、お祭り騒ぎに陶酔するのが好きな日本人は、昨年11月6日の「ニューヨーク・タイムズ」が「日本、中古の大統領を購入」と書いたように、レーガンに200万ドルの講演料を払って、日本での接待旅行に熱を上げた。この日本流の田舎芝居が世界中からもの笑いになっていた時に、ニクソンはひっそりと晩秋の北京を訪れ、政治の布石を着実に打っていた。
日本人が札束攻勢で中古の大統領を有頂天にさせ、アメリカの世論が「全くの商業主義に、こんなにずうずうしくのめり込んだ大統領経験者は、かつて存在したことがない」と糾弾したのに対し、レーガンは「大統領を長くやってしまったために、稼ぐことができなかったのだから」という弁明をして、アメリカ人たちを唖然とさせた。同時に、パトロン役を演じた日本人が信用をだいぶ失ったことも事実である。
いずれにしても、日本人と組んだレーガンが人気を喪失している間に、ニクソンの人気と評価が高まっていた。
中国から帰ったニクソンは、ホワイトハウスに招かれ、ブッシュとタ食をともにして、北京での中国首脳との会談について、その内容を詳細に説明している。
それまでブッシュは、ニクソンと電話連絡するだけだった。ワシントンに正式に招いて協議したのは、ニクソンがワシントンから追放されて以来初めてである。日本旅行についての帰国報告を、電話で済ませただけのレーガンとの対照が実に鮮やかで印象的だった。
大統領メーカーのエネンバーグとは
そして、このようなブッシュとニクソンの関係が、3月のパームスプリングスのサミットの舞台回しに関係しているのではないか、と私には思えるのである。
その理由を説き起こすうえで、アメリカ最大の富豪、ウォルター・エネンバーグについて、まず説明したほうがよいだろう。
エネンバーグは、ブッシュ・海部会談が設定されたアメリカ最高の避寒地で金持ちたちの別荘が多いパームスプリングスに、9ホールのゴルフコースも備えたサニーランズと呼ばれる大邸宅を所有する"大統領作り"の黒幕的存在である。
ウォルターの母親、サディーが、33歳の時にカリフォルニア州から立候補して下院議員になったニクソンを指して、「あの若い男は見所がある。目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、25万坪の広大な邸宅に、ニクソンは時々招かれるようになり、最後には、ホワイトハウスの主人にもしてもらった。
また、カリフォルニア州知事だったころから、客の仲間入りをし、恒例の年越しパーティーにはナンシー夫人とともに過去22年間連続で出席したレーガンも、大統領にしてもらっているから、ウォルター・エネンバーグこそ、大統領メーカーであった。
ブッシュ夫妻は、エネンバーグからの招待で、海部首相との会談が決まる前からサニーランズに赴く予定にしていた。海部・ブッシュ会談の会場は、サニーランズから800メートルほどのランチョ・ミラージュの町だった。
会談2日目の夜は、エネンバーグ夫妻の好意で、海部夫妻もブッシュ夫妻や他の富豪と一緒にサニーランズの晩餐に招かれたが、それが終わってからが肝心で、私はブッシュがエネンバーグから重要な了解を取り付けたと推測している。すなわち、レーガンと手を切り、ニクソンに乗り代えるという了解である。
この時期は、大統領として地歩を固めたブッシュが、2月19日号の「タイム」に発表された世論調査による大統領の支持率で、76パーセントの高率だったのに力を得て、独自の路線を遂行することに踏み切った時でもあった。
この高い支持率は、ケネディ以来のことであり、しかも、パームスプリングスに来る直前の大統領の足跡と、行動の内容にそれが感じ取れた。・
レーガン路線は継承しない
3月2日の首脳会談初日に、ブッシュは午後3時にパームスプリングス空港に降り立ったが、その前にセンチュリー・シティーにあるレーガン事務所を訪問し、前大統領と世界情勢について意見交換している。しかも、ニカラグアのコントラ間題では、自分の意見がレーガンと違うと強調し、それを記者会見でも印象づけるようにしゃべっている。
これは、ホワイトハウスの外交路線がもはや、レーガン路線を継承しないとのマニフェスト(宣言)である。しかも、これは当然、太平洋関係にも反映するはずだから、欺瞞に満ちた「ロン-ヤス関係」の総決算の始まりでもある。
なぜなら、現在の日米関係がここまで行き詰まり、感情的な対立関係にまでなったのは、中曽根がその場しのぎのウソをつき続け、それにレーガンとアメリカ人がだまされたためだと、ブッシュは十分に知り抜いているからである。
そして、中曽根のコン・ゲーム(信用詐欺)の手助けをしたのが日本の役人たちだったことや、日本のメディアが中曽根を「巨悪」と呼ぶこともホワイトハウスは承知している。
また、ブッシュ−ニクソン関係について言えば、地政学上のグル(導師)として復活したニクソンは、パームスプリングスでの日米首脳会談後の3月9日、ワシントンで共和党議員の大歓声に迎えられて、十数年ぶりに公式に世界戦略についての講演を行った。 そして、新版のニクソン自伝が脚光を浴びる中で、ニクソンは『タイム』誌のカバーを飾り、二流だったレーガン外交や、三流以下のキッシンジャーやブレジンスキーのお雇い外交から脱却して、ブッシュとニクソンの新コンビによる強いアメリカの復活宣言が行われたのである。
つまり、サニーランズのエネンバーグ邸で誕生したカリフォルニア生まれの二人の共和党大統領であるニクソンとレーガンが、東部エスタブリッシュメントの御曹司でテキサスを地盤にするブッシュをブリッジにして、レーガンからニクソンへの"選手交代"があったのだ。
海部-ブッシュ会談はみそぎの儀式
その舞台がランチョ・ミラージュのエネンバーグ邸だったのであり、幸運にも、選手交代の儀式に立ち合った海部首相は、この仲間に組み入れられた。そして、ブッシュ政権がアジア戦略で「ジャパン・カード」を使おうとしているからこそ、逆にブッシュが海部首相の守護役を果たすという僥倖に恵まれたのである。
ブッシュ政権は、新しい日米関係を樹立するためには、「ロン−ヤス関係」の総決算をして、ウソのない「ブッシュ−海部路線」の確立が、どうしても必要だと考えているのである。そうであるからこそ、パームスプリングスの会談は成功したのである。
現在の日米関係の行き詰まりの真因は、日本の文化や市場の特性にあるのではなく、権力を握って放さない自民党体制と、強力になりすぎた官僚支配にある。
それをブッシュは十分に理解したが故に、海部を盛り立てるように日本に送り出し、体制改革への勇気ある挑戦と、ウソで固まった中曽根政治の総決算を期待して、日本人自身の自己変革能力にゲタをあずけた。
そして、その具体的な成果の一つになったのが、4月6日の日米構造障壁協議の中間報告だったのである。
ところが、この中間報告で、ワシントンと東京の間で、一応合意が成立したとして、まるで日米間の危機が回避されたかのような記事が日本国内のメディアに氾濫している。
しかし、これはあくまで次のステップへの小休止ではあり得ても、問題が解決したのではないことについて、覚悟を新たにする必要がある。なぜなら、今回の協議に対する日米両国間での認識が異なっているからだ。
日本のマスコミ界は、構造障壁(ストラクチャル・インピーディメント)イニシアチブの略称である「SII」を、「構造協議」という作為に満ちた用語で統一してしまい、協議の核心である「障壁」を抹殺し、存在しないかのように装い、あたかも「構造」が協議のメーンテーマであるかのごとき一種の情報操作が行われた。
「協議」と訳されている「イニシアチブ」は、「戦略発動」とか「主導決行」といった内容の言葉であり、そこには、仮想上の敵対関係をワシントンの側から封じ込め、障害物を制圧し解消するという政治的意志と決意のほどが読み取れる。
いずれにしても、先に述べたように、日米関係をここまでこじらせた直接の原因は、中曽根時代の有言不実行の欺瞞がアメリカ側をいらだたせたことと、一時逃れの対応をした日本側の政治姿勢にあることは明白である。
ブッシュ、海部両政権を悪戦苦闘させている「ロン−ヤス関係」の負の遺産を大掃除し日本自ら、中曽根政治の総決算をするところに、日米構造協議の基礎があることに気付いてしかるべきなのである。パームスプリングスの首脳会談は、その「みそぎ」の儀式だったという、その意義を熟考すべきである。
ブッシュ大統領は『ロン−ヤス関係』を清算したい
構造障壁協議に秘めた思惑
構造障壁協議に秘めた思惑
藤原肇
ニクソンの世界戦略に乗る
ブッシュ米大統領の頭の中は、「グローバリズム」でいっぱいである。新しい世界秩序の確立のために、彼は既に昨年11月の段階で、ニクソン元大統領を参謀役に起用しており、それが、3月に行われたカリフォルニア州パームスプリングスでの海部首相との日米首脳会談と微妙な形で結びついていた。
それはなぜか。あの会談は、日米関係の阻害要因になっていた「ロン−ヤス関係」という愚劣な虚像を取り払い、日本側の欺瞞的政治の正体をアメリカの首脳部に認識させたという点で、非常に建設的な足跡を残したからである。
3月の日米首脳会談を語る前に、まず、ブッシュ大統領が、レーガン前大統領からニクソン元大統領にウマを乗り替えたことについて触れたい。
ディズニーランド風の楽天的な雰囲気と、お祭り騒ぎに陶酔するのが好きな日本人は、昨年11月6日の「ニューヨーク・タイムズ」が「日本、中古の大統領を購入」と書いたように、レーガンに200万ドルの講演料を払って、日本での接待旅行に熱を上げた。この日本流の田舎芝居が世界中からもの笑いになっていた時に、ニクソンはひっそりと晩秋の北京を訪れ、政治の布石を着実に打っていた。
日本人が札束攻勢で中古の大統領を有頂天にさせ、アメリカの世論が「全くの商業主義に、こんなにずうずうしくのめり込んだ大統領経験者は、かつて存在したことがない」と糾弾したのに対し、レーガンは「大統領を長くやってしまったために、稼ぐことができなかったのだから」という弁明をして、アメリカ人たちを唖然とさせた。同時に、パトロン役を演じた日本人が信用をだいぶ失ったことも事実である。
いずれにしても、日本人と組んだレーガンが人気を喪失している間に、ニクソンの人気と評価が高まっていた。
中国から帰ったニクソンは、ホワイトハウスに招かれ、ブッシュとタ食をともにして、北京での中国首脳との会談について、その内容を詳細に説明している。
それまでブッシュは、ニクソンと電話連絡するだけだった。ワシントンに正式に招いて協議したのは、ニクソンがワシントンから追放されて以来初めてである。日本旅行についての帰国報告を、電話で済ませただけのレーガンとの対照が実に鮮やかで印象的だった。
大統領メーカーのエネンバーグとは
そして、このようなブッシュとニクソンの関係が、3月のパームスプリングスのサミットの舞台回しに関係しているのではないか、と私には思えるのである。
その理由を説き起こすうえで、アメリカ最大の富豪、ウォルター・エネンバーグについて、まず説明したほうがよいだろう。
エネンバーグは、ブッシュ・海部会談が設定されたアメリカ最高の避寒地で金持ちたちの別荘が多いパームスプリングスに、9ホールのゴルフコースも備えたサニーランズと呼ばれる大邸宅を所有する"大統領作り"の黒幕的存在である。
ウォルターの母親、サディーが、33歳の時にカリフォルニア州から立候補して下院議員になったニクソンを指して、「あの若い男は見所がある。目をかけてやりなさい」と言ったのが始まりで、25万坪の広大な邸宅に、ニクソンは時々招かれるようになり、最後には、ホワイトハウスの主人にもしてもらった。
また、カリフォルニア州知事だったころから、客の仲間入りをし、恒例の年越しパーティーにはナンシー夫人とともに過去22年間連続で出席したレーガンも、大統領にしてもらっているから、ウォルター・エネンバーグこそ、大統領メーカーであった。
ブッシュ夫妻は、エネンバーグからの招待で、海部首相との会談が決まる前からサニーランズに赴く予定にしていた。海部・ブッシュ会談の会場は、サニーランズから800メートルほどのランチョ・ミラージュの町だった。
会談2日目の夜は、エネンバーグ夫妻の好意で、海部夫妻もブッシュ夫妻や他の富豪と一緒にサニーランズの晩餐に招かれたが、それが終わってからが肝心で、私はブッシュがエネンバーグから重要な了解を取り付けたと推測している。すなわち、レーガンと手を切り、ニクソンに乗り代えるという了解である。
この時期は、大統領として地歩を固めたブッシュが、2月19日号の「タイム」に発表された世論調査による大統領の支持率で、76パーセントの高率だったのに力を得て、独自の路線を遂行することに踏み切った時でもあった。
この高い支持率は、ケネディ以来のことであり、しかも、パームスプリングスに来る直前の大統領の足跡と、行動の内容にそれが感じ取れた。・
レーガン路線は継承しない
3月2日の首脳会談初日に、ブッシュは午後3時にパームスプリングス空港に降り立ったが、その前にセンチュリー・シティーにあるレーガン事務所を訪問し、前大統領と世界情勢について意見交換している。しかも、ニカラグアのコントラ間題では、自分の意見がレーガンと違うと強調し、それを記者会見でも印象づけるようにしゃべっている。
これは、ホワイトハウスの外交路線がもはや、レーガン路線を継承しないとのマニフェスト(宣言)である。しかも、これは当然、太平洋関係にも反映するはずだから、欺瞞に満ちた「ロン-ヤス関係」の総決算の始まりでもある。
なぜなら、現在の日米関係がここまで行き詰まり、感情的な対立関係にまでなったのは、中曽根がその場しのぎのウソをつき続け、それにレーガンとアメリカ人がだまされたためだと、ブッシュは十分に知り抜いているからである。
そして、中曽根のコン・ゲーム(信用詐欺)の手助けをしたのが日本の役人たちだったことや、日本のメディアが中曽根を「巨悪」と呼ぶこともホワイトハウスは承知している。
また、ブッシュ−ニクソン関係について言えば、地政学上のグル(導師)として復活したニクソンは、パームスプリングスでの日米首脳会談後の3月9日、ワシントンで共和党議員の大歓声に迎えられて、十数年ぶりに公式に世界戦略についての講演を行った。 そして、新版のニクソン自伝が脚光を浴びる中で、ニクソンは『タイム』誌のカバーを飾り、二流だったレーガン外交や、三流以下のキッシンジャーやブレジンスキーのお雇い外交から脱却して、ブッシュとニクソンの新コンビによる強いアメリカの復活宣言が行われたのである。
つまり、サニーランズのエネンバーグ邸で誕生したカリフォルニア生まれの二人の共和党大統領であるニクソンとレーガンが、東部エスタブリッシュメントの御曹司でテキサスを地盤にするブッシュをブリッジにして、レーガンからニクソンへの"選手交代"があったのだ。
海部-ブッシュ会談はみそぎの儀式
その舞台がランチョ・ミラージュのエネンバーグ邸だったのであり、幸運にも、選手交代の儀式に立ち合った海部首相は、この仲間に組み入れられた。そして、ブッシュ政権がアジア戦略で「ジャパン・カード」を使おうとしているからこそ、逆にブッシュが海部首相の守護役を果たすという僥倖に恵まれたのである。
ブッシュ政権は、新しい日米関係を樹立するためには、「ロン−ヤス関係」の総決算をして、ウソのない「ブッシュ−海部路線」の確立が、どうしても必要だと考えているのである。そうであるからこそ、パームスプリングスの会談は成功したのである。
現在の日米関係の行き詰まりの真因は、日本の文化や市場の特性にあるのではなく、権力を握って放さない自民党体制と、強力になりすぎた官僚支配にある。
それをブッシュは十分に理解したが故に、海部を盛り立てるように日本に送り出し、体制改革への勇気ある挑戦と、ウソで固まった中曽根政治の総決算を期待して、日本人自身の自己変革能力にゲタをあずけた。
そして、その具体的な成果の一つになったのが、4月6日の日米構造障壁協議の中間報告だったのである。
ところが、この中間報告で、ワシントンと東京の間で、一応合意が成立したとして、まるで日米間の危機が回避されたかのような記事が日本国内のメディアに氾濫している。
しかし、これはあくまで次のステップへの小休止ではあり得ても、問題が解決したのではないことについて、覚悟を新たにする必要がある。なぜなら、今回の協議に対する日米両国間での認識が異なっているからだ。
日本のマスコミ界は、構造障壁(ストラクチャル・インピーディメント)イニシアチブの略称である「SII」を、「構造協議」という作為に満ちた用語で統一してしまい、協議の核心である「障壁」を抹殺し、存在しないかのように装い、あたかも「構造」が協議のメーンテーマであるかのごとき一種の情報操作が行われた。
「協議」と訳されている「イニシアチブ」は、「戦略発動」とか「主導決行」といった内容の言葉であり、そこには、仮想上の敵対関係をワシントンの側から封じ込め、障害物を制圧し解消するという政治的意志と決意のほどが読み取れる。
いずれにしても、先に述べたように、日米関係をここまでこじらせた直接の原因は、中曽根時代の有言不実行の欺瞞がアメリカ側をいらだたせたことと、一時逃れの対応をした日本側の政治姿勢にあることは明白である。
ブッシュ、海部両政権を悪戦苦闘させている「ロン−ヤス関係」の負の遺産を大掃除し日本自ら、中曽根政治の総決算をするところに、日米構造協議の基礎があることに気付いてしかるべきなのである。パームスプリングスの首脳会談は、その「みそぎ」の儀式だったという、その意義を熟考すべきである。
(ふじわら・はじめ=パームスプリングス在住、評論家)
コメント