「藤原肇様への公開メール」と題された、フリーランス・ジャーナリストの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)との間で交わされた対話記事を通じて、私たち読者は知的な洞察に触れる機会を得られました。藤原博士によれば、今年2月20日(木)に『 山根治ブログ』が閉鎖されたのは、山根氏に届いた【ご利用停止のお知らせ】メールに記載された理由、すなわち利用規約 第1.4条(禁止行為)およびlivedoor Blog ガイドライン(禁止事項)に該当するためとのことです。『山根治ブログ』が利用できない期間、藤原博士はnoteにて「藤原肇 Hajime Fujiwara」の名で寄稿を続けていらっしゃいます。
さて、今回の記事で取り上げるのは、山根治氏がかつてご自身のブログで発表された重要な記事「冤罪を創る人々――国家暴力の現場から」です。現在、山根氏のブログは閲覧できない状況にありますが、幸いにも、藤原博士はこの貴重な情報を私たち読者と共有するため、本日2025年4月3日号のブログ記事「【No.113】山根治著『冤罪を創る人々』」において、その経緯と重要性を示されております。以下に、転載させていただきます。
藤原博士は本文の結語において、2025年が日本にとって極めて重要な結節点であり、この年の推移がわが国の行く末を左右する可能性を示唆されております。しかしながら、その未来が具体的にどのような状況や様相を呈して開かれるのかは、依然として不確実な領域に留まります。同時に、その道のりが試練に満ちた時期となるかもしれないとの認識を示されつつも、博士は斯様(かよう)な困難な時代においてこそ、生きる喜びを積極的に享受したいという、高邁(こうまい)な精神を披瀝(ひれき)されております。
【No.113】山根治著『冤罪を創る人々』/ 加藤勝信ら帰化した国会議員の正体
山根治ブログがBANされたため、彼との交信の場がなくなり、彼から私宛に直接メールが届いたが、読めなくなった記事の「冤罪を創る人々――国家暴力の現場から」は、長大だが大切なのでURLを貼り付ける。
「冤罪を創る人々−国家暴力の現場から」(P1〜P296)
1. 去る6月11日、私に関しての刑事裁判の判決が、広島高裁松江支部でありました。
広島高裁は、最大の争点であり、「本件」であった架空売買による巨額脱税については、一審の無罪判決を支持し、検察側の控訴を退けました。「本件は無罪」形の上では一審判決 と同様ですが、無罪を認定するプロセスが一審判決と全く異なるものでした。
一審判決は、本件について無罪としながらも、検察の顔をうかがうような不十分な内容の ものであり、刑事裁判と並行して進行している税金の裁判 (民事) において国税当局に主張の余地を一部残しているものでした、即ち、刑事事件では無罪であっても、税務上は多額の理不尽な税金が徴収される余地が残されていたのです。
私は、無罪とされた「本件」についても、一審判決は、判決に至るプロセスが明らかに誤っていますので、控訴審で是正してもらうべく、主張していたところ、広島高裁は、私の主張 (真実であり、当然のことです)を全面的に認め、一審判決を是正してくれました。高く評価することができます。広島高検は6月25日、最高裁への上告を断念しましたので、「本件」 の無罪判決は確定しました。
(『冤罪を創る人々』p.292)
この文面は、この種の冤罪を狙う告発が、刑法や憲法に違反するものであり、脱税だと断罪し得ないことの証明で、財務省の横暴に歯止めが掛かった。この記事の熟読を通じて、問題の取り扱いに慣れれば、権力を笠に徴税権を振り回す、役人の居丈だけの横暴に対し、日本人は納税者の立場から、正々堂々と立ち向かえるのである。
(9)国税庁長官への抗議
「(同)国税庁長官官房総務課課長・加藤勝信(略)」
(『冤罪を創る人々』p.55)
また、この冤罪事件の記録で興味深いのは、国税庁官房の役人として、加藤勝信が総務課長だった事実で、課長職で事件に関与した男が、時間の経過で財務大臣になり、「 位人臣を極めて」いたのだ。しかも、役人の彼が政治家の婿養子になり、半島人が日本人になる手口を使い、姓を改め戸籍を変え国会議員になり大臣に就任し、人生行路としては興味深い定石の足跡を残していた。
その件に関しての考察は、竹下登や小泉純一郎の例で、歴史の相似象として検討するし、これは一種のタブーだから、誰も触れようとしないが、作業仮説として興味深いものだ。それを具体的に知るには、コメント・メール(101補遺)で触れた、韓国経済新聞の李社長の話が役立つが、彼は東京特派員だった時に私の『石油危機と日本の運命』を読み、熱心な読者になった教養人だ。
『ゾンビ政治の断末魔と迷走するウクライナ戦争』のNo.95で紹介したが、李元揆さんは社長になってからは、拙著が出ると紙面を全面使い、本の内容の概要と解説を掲載していた。また、韓国の歴史の秘密やタブーに関し、他言無用だと教えてくれ、極秘事項の一つに政界を始め経済界や軍部の支配層には、北朝鮮系の人材が圧倒的であり、理由は騎馬民族のツングースの血だという。
それに対し農耕民の韓族は耕作地の多い南部に定住し、高句麗系や漢族の襲撃を受け日本に逃げたケースも多く、その典型的な例が百済王朝で、出雲や奈良の歴史の中に痕跡が残っていると力説した。そんな説を私は聞いていたし、李さんが民族主義者なので、興味深い議論を戦わせて多くを教わったが、私も人類学を学んでいたから、彼の偏見に対し十分に反論した。
ただ、彼が主張した意見の中で、拝聴に値するものとしては、極東シベリアや満洲を経て、朝鮮半島から日本列島まで広く拡散したコレアンが、アジアのユダヤ人という説は面白かった。それは檀君神話に基づく、選民神話が歴史の中で転倒し、賎民的なものに逆転して、虐げられた民族の立場で、他の集団の中に混じり込み、それ故に結束を固める様子がコロイドの分布に似て興味深い。
秘密結社の歴史を調べれば、仲間だけに通じるように、暗号としての符牒が存在し、それが「背乗り」に時に通名として文字を使う、金田、山本、大内などの左右対称の姓がある。その問題についてはNo.95で論じたが、より慎重で巧妙な手口は、地元の旧家の娘を嫁に貰うことで、入り婿として苗字を貰い、改名して家系を手に入れ古い家柄を継承するのである。
だが、伝統的で煩雑な手順を省き、最近では行政的な手続きで、簡単に日本国籍を入手できるし、政治家になる人が激増して、それに反発する人の中には、過剰反応をする者が登場する。また、ここに来て目立つのが反移民運動で、排他主義の高まりで過激な民族意識を剝き出しにする余り、現代版の「魔女狩り」に似た露骨な形の大衆運動が、世界各地で猛威を奮い出している。
こんなタイプの苛立ちがポピュリズムの形で盛り上がり、同胞としての一体感を持てずに、相互不信に支配された形で、疑心暗鬼に包まれているが、日本人は暴政により虐げられ政治不信に陥っている。そこにたどり着くまでには、不吉な兆候が続発しており、冷戦体制の終焉を告げる形で湾岸戦争が勃発したし、1995年には阪神大震災が起き、その一年後には地下鉄サリン事件まであった。
この時期が持つ時代特性は、冷戦構造の終わりの段階で、中曽根バブルの崩壊により、日本が支離滅裂に陥って、政治も経済も末期症状を呈し、世紀末と言える状態として現れた。原因を作ったのは中曽根で、処置を誤ったヤブ医者は、竹下登,安部晋太郎、宮澤喜一のドン栗三人組だったし、その間の海部、細川、橋本、小渕などは、55年体制の終わりを告げる墓堀り人夫だった。
だから、世紀末を区切りにして、腐り果てた自民党は葬られ、新しい体制が生まれるべきだったのに、死体から自公の亡霊が現れ、そこに小泉と安部という、ゾンビ政治の長期政権が継続した。これが売国政権として日本を食い潰し、反日邪教に貢いだことで、国民としての連帯感が消え失せて、亡国の道を突き進んでしまい、世界第二の経済大国から、日本は第四位に転落してしまった。
この不幸な時期を生み出す上で最も大きな責任を持つ男が、航空機疑獄の影の仕掛け人を演じ、国鉄や電電公社の利権化を試み、日本を米国の属領に仕立てた、首相の中曽根康弘だった。また、第二次中曾根内閣の蔵相として、プラザ合意に調印したのが竹下登で、それは日航123便が御巣鷹山に墜落した、1985年8月12日の40日後であり、ここに重要な疑惑の種が潜んでいる。
なぜならば、このプラザ合意の調印は、日本の運命に極めて重要な役割を演じ、経済的な衰退と社会的な荒廃に対し、致命的な影響を与えたことで、1985年を歴史に残る因縁の年にした。その件に関して記事は、『日本に巣食う疫病神たちの正体』の第七章に、「戦後史を飾った復興と欺瞞の経済大国」として詳述し、歴史的に総括したのでそれを参照されたい。
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竹下登の人物像については、岩瀬達哉の『われ万死に値す』が、現段階で最良の調査資料であり、そこには「背乗り」として、彼の父親の勇造の足跡の形で、次のように描かれている。それは地元の旧家の娘と結婚し、婿養子になるという手法であり、しかも二段階も改姓する手間をかける苦労までして、古い造り酒屋の家系の中に潜り込む手続きをしている。
<・・・竹下の父・勇造は、出雲市で印刷業を営む武永家から、竹下家に婿養子に入った人物で、性格的にも豪放磊落なところがあり、竹下家の家業の酒造りには、精を出すということはなかったからだ。家を切り盛りしていたのは、亡くなった義母・唯子である。その義母の役割が、まだ二十歳そこそこの政江の肩に、重くのしかかって来たことで、彼女はノイローゼになったと説く、竹下家の関係者もいる。いずれにしても、はっきりしていることは、政江は睡眠薬がなければ、寝付けないほどの悩みを抱えていたということだろう。実際、彼女が二階の鴨居に腰紐を通して首を吊った時、枕元には睡眠薬のビンが転がっていた。>
(岩瀬達哉著『われ万死に値す』)
叔母は松江で教師だったし、寺の住職だった叔父は中学で竹下の二年後輩で、松江には両親の墓があったから、小学生の頃から夏休みを過ごした私は、島根の噂話は良く耳にしていた。そうした風聞の幾つかに、竹下酒造製の酒の名に「大衆」があるのは、松江高校教授だった福本和夫の影響があり、竹下勇造は陸軍の特務として密工作に関わったようだ。
そんな話から発展して、フクモトイズムの源流にフランクフルト学派があり、私はゾルゲ事件に関心を抱いたし、岩瀬が書いた次の記事が、「成程」と説得力を持って読めた。
<・・・政江の悩みは、竹下の父・勇造との関係にあった。勇造は妻・唯子を二月二十四日に失ったばかりで寂しさからか、何かと政江に「干渉」しだしていたという。・・・故郷に残してきた新妻が、舅との関係に悩んだ末、自殺しているのである。・・・>
(岩瀬達哉著『われ万死に値す』)
この意味深長な記述を読み、私は英国の女性旅行家で、幕末頃に極東を訪れた、イザベラ・バードの『朝鮮紀行』を思い出し、歴史の相似象にしても、余りにも残酷だと嘆息した。それに似た経験をしたのは、『小泉純一郎と日本の病理』を書いた時で、この本はストセラーになったのに、出版妨害で姿を消したが、小泉純一郎の父親の純也は「背乗り」で鮫島から小泉に変身した。
鹿児島の知覧に近い所に、文禄の役の時に帰化して、「薩摩焼」を作る陶工の村があり、敗戦時の東郷茂徳外相もそこの出身として知られるが、鮫島純也は鹿児島から上京し、横須賀で小泉又吉の秘書になった。そして、逓信大臣の娘と結婚して、入り婿として鮫島から小泉に変わり、国会議員になっているが、防衛庁の長官の時には、東京空襲を指揮したルメイ将軍に、「勲一等旭日大綬章」を与えている。
その息子が小泉純一郎で、三代目の世襲議員として、自民党を潰すと叫び首相になり、独裁的な暴政で日本を破壊し、郵政の民営化の名の下に、ネオコン路線に忠実に従い、日本の産業界を禿鷹に売り渡した。その意味で小泉は売国政治の創立者だが、それを安倍晋三がより堅固なものに作り変え、虚偽と改竄で粉飾を施して、ゾンビ体制を確立させたのである。
若き日の小泉純一郎が、強姦事件でロンドンに逃げ、それを留学と称した話は、半世紀前に私はパリ聞いており、それを『賢者のネジ』に記事を残したし、その他の著書にも書いている。また、小泉が松沢病院入ってから、英国に行っている話は、『月刊・日本』の南丘編集主幹から直接に聞いたが、それは聞くも涙の体験談で、語る彼の口調は苦渋に満ちていた。
『小泉純一郎と日本の病理』を読み、義憤に駆られた勢いで、全力を挙げて取り組み、病院の医師にたどり着いたら、それを警察が嗅ぎ付けて、専守秘事攪乱の容疑で収監されたとかだ。それにしても、一国の首相になった者が、精神病の患者だったとは、恥ずかしいことこの上なく、幾らタブー破りの私でも、著書に記すのを躊躇うのに、最近のU-Tuberには蛮勇の持ち主がいる。
『小泉純一郎と日本の病理』では、小泉の新状態を論じるに当たり、名誉棄損の訴訟を考慮して、病院名には触れないし、精神病とは書かないで、サイコパスの問題たが、それでも編集部は削除していた。そこで英訳した『Japans Zombie Politics』では、サイコパス論だけは復活させたが、この議論は時期尚早のために、概念が分からなかったらしく、注目されない状態で終わった。
だが、その結果は実に悲惨で、長く続いたゾンビ政治は、社会をメチャクチャにし、政界が機能不全に陥って、反日邪教に乗っ取られ、貧富の格差は拡大し続け、日本は亡国の悲哀に包まれている。2025年は日本にとって、重大な結節点であるし、運命を決定づけるというが、果たしてどんな状態で形で、未来の扉が開くのかは、実に興味深いことであり、試練の時期に生きる喜びを満喫したい。

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