「藤原さんへの公開メール」と題されたフリーランス・ジャーナリストーの藤原肇博士(1938年生)と会計士の山根治氏(1942年生)の対話記事を通じて、私たち読者は intelligence のエッセンスを知る機会を得ました。藤原博士によると、2025年2月20日(木)に『 山根治ブログ』がバンされたのは、 山根氏に届いた【ご利用停止のお知らせ】メールに記載された理由、すなわち【利用規約 第1.4条(禁止行為)およびlivedoor Blog ガイドライン(禁止事項) に該当していたため】とのことです。『山根治ブログ』が利用できない間、藤原博士はnoteの藤原肇 Hajime Fujiwarに寄稿なさっています。2025年8月14日号「【No.125】現場から見た戦後日本の暗流- 石油・諜報・国際政治/ 山根治氏からの公開メール − (194)」から転載させていただきます。
その人物との最初の出会は1970年代の末で、日本橋三越の喫茶コーナーで一時間ほど意見を交換したが、その経営者の経歴や思想が興味深かったから、その後は何度か食事を一緒した。会見を求めたのは相手側で、東京銀行の貿易投資相談所の田島所長の仲介で親しくなったが、精密計測機を作るサムタクを創立し社長をしており、名古屋大学で原子力物理学を学び、シカゴのArgonne国立研究所での仕事歴を持つ逸材だった。(参考)
核は太陽のエネルギー源で、生命の星の地球では熱源として不適切だから、私は原子力発電に大反対であり、地震の多い日本列島上に原発を作ることは犯罪だと主張していた。だが、1960年代は原子力ブームで、「夢のエネルギー」だと取沙汰され、政府もマスコミも騒ぎ立て、私の考えは異端視されたし、顰蹙され時には排斥された。
だから、高校の同級生の中で、最も優秀な連中の多くが東大の理一に行き、核物理を専攻してしまい、電力会社に勤めたことに、私は強い反発と違和感を抱いていた。ところが、名大を出て米国に渡り核物理を研究した椎名という人は、私の主張に対し賛意を表明し、地震大国の日本に原発は危険で、原爆を並べるに等しい愚行だと表明した。
それだけではなくて、私がやっている石油事業が、これからも重要であるし、頑張って欲しいと激励され、舞い上がるほど嬉しくなり、私は強力な味方を核物理学者に得たと思った。ところが、それからしばらくした時に、彼の父親が急死したために、代議士として出馬すると聞き、私は彼が椎名悦三郎の息子であり、父親が自民党の幹事長で、満州では岸信介の右腕だったと知った。
そこで私は椎名素夫さんに、「日本の代議士は利権屋で、ヤクザ同然で一兵卒だから出馬には反対だ。止めた方が良い。」とアドバイスしたがダメで、彼は国会議員になってしまった。そして、サムタクの社長には副社長の金井真さんがなり、彼は住友銀行の出身で、新橋支店の経験者は将来の頭取候補という、エリートコースにいた銀行マンだった。
この金井真さんの知人に、昭和電工の森暁元社長がいて、それが不思議な縁結びになったらしく、この森暁さんがカンサスに私を訪ねて来たのが縁で、掘削(ボーリング)のベンチャー会社が始まった。それとサントリーと一緒に、石油開発の事業をした話については、『地球発想の新時代』の第二章に、「アメリカでの事業体験と日本の幕末化」と題して書いてある。
米国でリンゴ農園の経営と、そこに油田発見を夢見た森さんは、二年後に亡くなってしまい、その整理を金井さんが引き受け、何度か訪米していたが、私は帰国した時には赤坂の椎名議員の事務所を訪れた。そこに粗野な米国の若者がいて、コピーを手伝っていたが、その青年が出世して小泉進二郎を育てたり、悪辣なジャパン・ハンドに化けるとは、私は迂闊にも夢想もしなかった。
その若者がマイケル・グリーンで、彼は笹川良一の伝記を書いた、東大の佐藤誠三郎の弟子になり、次期戦闘機の論文を書き、帰米してジョージタウン大に籍を置いた。その後にCSIS日本部長になり、対日工作の基地として、海兵隊のアーミテージと共に、ジャパン・ハンドの砦にしたが、それ以前の対日工作の基地は、ジョンズホプキンス大の高等国際研究所と、ハーバード大のキッシンジャーの研究室だった。
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『朝日と読売の火ダルマ時代』の第五章に、「正力と中曽根を繋ぐ原子力とCIAの糸」と題し、若き日の中曽根代議士が、CIAと結んだ件に関して、次のような記事を私は記録している。その時の体験と人脈が彼が首相に登り詰め、権勢を極める力になり、売国奴が大勲位になった登竜門に違いなかった。
<・・・新進の中曽根議員が渡米して、ハーバード大学で講習に参加したが、彼を派遣したのはCIC(対敵諜報部)のコールトンであり、核の平和利用のキャンペーンの要員育成のために、中曽根に対し原子力の特訓を施した。中曽根の面倒を見たのはキッシンジャーであり、ハーバード大学の助教授だった彼は、再軍備論者の中曽根をスカウトして、CIAの長官などに紹介したと言われている。その後に中曽根のハンドラー役を引き受けたのが、英語論文『私の政治経歴』の代筆やワシントンの窓口を担当した、ナサニエル・セイヤーだ。
ジョーンズ・ホプキンス大学のSAIS(国際問題研究高等学院)教授の彼は、朝鮮戦争時代に陸軍諜報部に属してスパイ工作と謀略を担当して以来、その後はCIAの東アジア担当部長を歴任しており、 中曽根を操ったことは広く知られている。
当時は総てが灰色の霧に包まれた噂であり、真相については確認されないままだったが、公表され始めた米国政府の資料によると、CIAの手は自民党の深部に浸透していて、岸内閣から中曽根内時代にかけての政治は、M資金が秘密のキイワードになっていた。そのことはケネディ政権の司法次官補だったノバート・シュレイが書いたメモに明らかだが、リクルート事件の背後にはM資金があり、1兆7000億円の銀行融資が動いたとされ、その出発点に原子力の平和利用があったと言われれている。・・・・>
また、キッシンジャーも曰くつき人物で、難民として米入国したら新兵として陸軍に徴兵されて、プロシア軍人の伝統を誇るフリッツ・クレマーの部下になった。終戦時にパットン将軍の准将だったクレマーは、出世して副師団長になり、退役後は参謀本部の政治顧問として、GIだったヘンリーの面倒を見た。
キッシンジャーが進学する時に、ユダヤ人が行くNYの市立大を選ぶと、クレマーは若きヘンリーに向け、「紳士は市立大には行かぬものだ。ハーパードに行き給え」と言って、入学の手続きまでしてやった。そして、政治学担当教授教に世話まで頼んでいると、ドラッカーの『傍観者の時代』には、「滅び行く時代の若者」と題して書いてある。
ヘンリー・キッシンジャーは、有能な同胞に支援され出世を遂げてているが、中曽根は米国を敵視していたのに、諜報関係者に拾われて、二重スパイとして売国奴になった。これが日本の右翼の実態で、中曽根も児玉誉士夫も共に、愛国を売り物にして日本を叩き売り、独立路線を阻んで隷属体制を推進した。
しかも、中曽根を夏季ゼミに参加させ、キッシンジャーに結びつけたのは、ナサニエル・セイヤーだが、彼は若かった中曽根の面倒を見て論文の代筆までして、若い政治家を核武装論者に仕上げた。そして、ジョーンズ・ホプキンス大学教授のセイヤーは、間近に迫った保守合同の布陣に、中曽根の理論武装を手伝ったし、その後CIAの部長になっている。
しかも、帰国した中曽根は大急ぎで原子炉調査予算案を作り、2億3500万円の調査費を獲得し、原子力計画が動き出したが、この予算の数字はウラン235に由来し、原発路線の出発点になり、54基の原発が地震列島上に作られた。
そんな時に起きたのが、1955年まで政党の乱立が続き、分裂していた社会党が統一したので、慌てた与党が財界に促され、自由党と民主党が保守合同して、55年体制の始まりになった。しかも、岸信介は児玉誉士夫と共に、戦犯として巣鴨拘置所に入獄し、CIAのスパイになったので釈放され、その後四年で岸信介は首相になっている。
正力松太郎は、CIAの手先になり行動して証拠まで残したが、狡猾は岸信介はそんなへマはせずアンポ改定をやり遂げ、政界からの引退を果たしている。また、岸信介の後を継いだ中曽根も、愛国者に化け通して首相になり、「大勲位」として大往生をしている。
1960年代の日本は朝鮮戦争の特需の余波で、景気が活況を呈し始め、岸内閣の60年アンポ騒動の反省から、池田内閣の所得倍増路線が経済復興に弾みをつけた。安い石油価格の恩恵を受け、エネルギー源が石炭から石油に移行し、三池闘争が起きていたが、世界ではOPECが結成され、新時代の到来の予兆があった。
高度成長期の日本では、1964年の東京五輪を始め、新幹線の開通があって勢いづき、佐藤内閣はCIAに支援されて、長期安定政権を維持していた。実兄の岸信介を経由する形で、佐藤はCIAから裏金を受け取り、それを自民党の選挙資金に使ったが、ポドムの暗号名を持つ読売の正力は、米国で仕込まれた中曽根と組み、原子力の平和利用を口実に使い、核武装と原発路線を推進していた。
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フランスに留学した私は、地質学を専攻した関係で、博士課程の余暇を使い、パリの三井物産で資源開発顧問になり、ヨーロッパの炭田地帯を訪れ、新技術の導入の仕事を体験した。また、学位を取得した後で水のシンクタンクに入ったら、サウジの国土開発のために、飲料水の掘削の現場監督として、砂漠と石油の王国に派遣された。
そこで得た体験と人脈は、実に貴重な財産になったし、知り合いになったヤマニ石油相から、石油鉱山省にスカウトされて、私は石油の重要性を覚ったが、サウジは石油探査の現場であり、石油産業の本場は米国である。だから、フランスに戻ってからの私は、欧州各地で石油開発の実務を体験し、折しもアラスカで大油田の発見があったので、次はカナダの北極洋だと予想して、大西洋を渡ってカナダに移住した。
カナダのカルガリーは、石油開発のメッカであり、石油開発会社が数百社ひしめき、その大半が米国企業であり、最初の就職は米国のUNION石油の子会社で、そこで資源衛星の宇宙写真解析を担当した。人工衛星から地球を眺め、大陸を一望する仕事をしていれば、文明や文化さえも微細に見え、歴史を大俯瞰できるようになる。
そんな状況で歴史を展望したら、石油危機の到来が遠望でき、これは大変だと危機感をつのらせ、「石油危機が来る」と纒めたら、それなりの説得力もあったので、『文芸春秋』誌に寄稿して見た。だが、半年近く何の音沙汰もなく、ボツになったと諦めていたが、次の訪日の機会を利用して、文芸春秋社を訪問したら、西永編集次長が会ってくれ、開口一番に大目玉を食らわした後で、親切なアドバイスをしてくれた。
「・・・うちに寄稿する人のほとんどは、原稿用紙にきちんと書き、誤字など全くない状態で、完成品として送って来るよ。ところが、君は寄稿の仕方も知らず、横書きのレポート用紙に、ぎっしりと記事を書いて来たが、あんな書き方をした原稿は、読まずに屑箱入りになるだけだ。あれでは最初から失格で、相手にして貰えないのは確実だ。日本では玄関で靴を脱ぐように、礼儀作法が大事なんだよ。分かるだろう。」
「そうでしたか。失礼してしまい、とても申し訳なかったし、恐縮極まりないことをしてしまい、本当に心苦しい限りです。どうも済みませんでした。・・・」
「まあ、外国にいるのだから、原稿用紙は無理にしても、一行置きに書くくらいの配慮はして欲しいな。実に読み難かったが、題名が良かったので読んで見たら、引用が面白かったし、内容も興味深かった。だが、君のような無名の若者で、見栄えがする肩書もない人の発言では、うちとしては信用に響くから、簡単に活字には出来ない。しかも、今は石油が有り余っているから、石油危機の到来などは夢物語だよ。だから、誰か有名な財界人が石油が貴重だと論じて、石油への関心が高まらない限り、この問題に誰も興味を持たないのは確かだ。
・・・そこで相談になるのだが、適当な財界人を見つけ出して、石油不足の苦労話でも書いて貰い、石油がないと如何に大変かを強調して、世間の空気が盛り上がれば、その後でならば君の発言も通用する。」
「そうですか。」
「それをやってくれる財界人が、今の日本にいれば良いけれど、探して書いてもらうまでに時間が必要になる。半年か一年かかるかも知れないし、それでも待つと言うならば、記事を預かることにするが、それで良いかね。」
私としては否応もないし、他に当てもなかったから、西永次長に一任して帰米したが、半年後に新日本製鉄の藤井丙午副社長の名前で、石油が大切だとだいう記事が掲載された。それから数か月後の1971年七月号に、「石油は日本のアキレス腱」と題した記事が活字化され、『文芸春秋』が私のメディアへの登竜門になった。
どんな反響があったかは知らないが、『日経新聞』から連絡があり、外信部の大原記者からの提案で、「経済教室」欄での執筆が決まったし、そこは大学の助教授クラスが執筆陣だとかだ。だから、経済学部では学ばなかったが、経済学は独習で片付けたので、多くの古典を読む機会があり、専門用語の意味を理解して、新聞や雑誌の経済記事に誤魔化しが多いと見抜けたし、行間を読む楽しみまでが増えていた。
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その頃に作った概念図に、「マクロメガの視点による重大事件年表」があり、この図を構想したことによって、私の視野は宇宙レベルになり、世界の識者たちとの共通の足場が出来た。この足場を利用することで、複雑な出来事の微分が出来て、発言や書く記事の中に普遍性が生まれ、一目で核心を貫くと分かったから、大衆には無理であっても、識者には認めれられ始めた。
だから、パネリストとして招かれ始め、コメントを書く機会も増加したし、講演の声も掛かるようになり、それで有頂天になったのは、三十代初期の若気の至りで、天罰が下ってしまった。東京を訪れた時の話だが、大新聞の記者との対談を頼まれて、政府の外交を批判したが、録音した発言を切り取り私は消され、記者の執筆記事の形で活字化した、実に不愉快な体験を味わった。
しかも、対談の途中で喋った、雑談的な私のお喋りを切り取り、商社マンを名乗る男の考察の形を装い、匿名を使った怪しい記事が、右翼タカ派系の機関誌に無断で掲載された。その記事の中心テーマは、間近のニクソン訪中の時に、何を手土産にするかであり、素人レベルの豆知識を並べ、石油の話で縁取りをして飾り、石油掘削用のリグ装置が、ニクソンが北京に行く時に、土産用の贈り物だと論じた駄文だった。
それから暫く経った段階で、私は副社長に招かれて、一緒にランチをした時だったが、彼は非難する口調ではなく、「君が何を考え書いても自由だが、米国政府の資源政策について、触れる時には慎重にやれ。」と言われた。これを深刻な警告だと受け止めた私は、アフリカや中東の体験から、監視があったと気づいたので、米国系の会社を直ぐに辞めて、ベルギ一系のペトロフィナに転職した。
当時の私は『スパイキャッチャー』を読み、ル・カレの小説を愛読しており、諜報の世界についての知識は、かなり豊かだったから、副社長からのメッセージに対し敏感に反応した。資源を巡る争奪の最前線は、過酷な戦いの舞台になり、情報を巡って死闘が展開し、時には戦争に発展するから、用心するに越したことはないのである。
こうした目配りが継続したので、情報が山のように蓄積し、一冊の本が出来上がるはずだが、どこの出版社も興味がなく、二年間で十社以上に断わられた。当時は成金趣味が蔓延して、危機の話はタブーであり、世界第二の経済大国の日本では、暗い話題は嫌悪されたから、どこに持ち込んでも同じように、門前払いの繰り返しが続いた。
幾ら親しくした編集者でも、石油危機や食糧飢餓の話は、聞きたくない嫌なテーマに属すから、それはダメだが常套句で、目次も見ず題名だけで断わられた。文芸春秋社の場合は、石油危機の到来の話は、雑誌なら記事にしても構わない話題だが、単校本では信用に関わるから、とても扱えないと肘鉄砲だった。
日経新聞はもっと率直で、藤原さんの記事の中には、政治家や財界人の批判が多く、褒め言葉がないために、お客が気分を損ねるから、書き直さない限り絶対ダメであり、他社を探せと断られている。忖度が支配しているのが、日本社会の常であるから、仕方がないと諦めたのに、外信部記者の大原さんは、流石に国際派だけあって、責任を取ってあげると断言した。
そして、何冊も翻訳本を出しており、幾つかはベストセラーだったので、必ず出版社を見つけ出せるから、持ち回って見ると言って、それを実現してくれたが、たちどころに吉報をもたらせた。サイマル出版会を訪れて、彼が田村社長に原稿を見せたら、題名ともくじを一瞥しただけで、これは大変だ直ぐに出すと言い、出版の話は決まったそうだ。
それまでの二年間の苦労が、悪夢のように思える話で、その出版社の背景を聞いたところ、同時通訳の組織の子会社だし、政府関係の仕事を中心に、国際関係の分野に強いという。また、米国大使館の前に位置し、アメリカ関係の本が多いから、米国の資本か宗教組織が、背後にいる感じがしても、CIAのカバーにしては中立的だし、メディアとしての翻訳出版の会社らしい。
これが大原記者の意見だし、外国特派員協会理事の彼が、どんな経歴の持主なのかを知ることは、極めて重要であるから、それに触れた対談を次に紹介して置こう。東京外語大の英語科を出て、日経の外信部に入ってから、初代ワシントン特派員を務め上げ、英文日経の編集長をやり、日経アメリカ社長で退社した彼は、ある意味で日経の生き字引的な存在だ。
http://fujiwaraha01.web.fc2.com/fujiwara/article/newleader110201.htm
しかも、彼との交遊のお蔭で、1970年代から新世紀にかけ、東京に駐在した外国特派員の殆どに、知り合う幸運に恵まれて、世界のトップ記者との議論を通じ、問題意識の鍛錬が実現した。そして、行間を読むだけでなく、書き手の頭の中まで見抜いて、取材力を高めた点では、大原さんの仲間たち全員が、私にとって得難いメンターでもあった。
そして、『石油危機と日本の運命』は、私の処女作として誕生し、石油ショックの最中に読者に読まれて、ベストセラーになっているが、難産で帝王切開に似た体験までしている。その件に触れた記述が、『アスペの三奇人交遊録』の第一章の「休憩室」にあるので、手間を省くために引用を試み、その部分を以下に貼り付けることにした。
<・・・1973年の秋に襲来した、石油パニックを予言した処女作、『石油危機と日本の運命』が、ベストセラーになって、メディアの注目を集めたお陰で、十万人もの読者を獲得した。しかも、この本は十社以上に断られ、二年の歳月を無駄にして、1973年の春に出版されているが、初版3000部だったのに、半年で600部しか売れず、「サンケイ抄」のコラムは、「日本経済の実力を知らぬ、無知な男の本だ」と酷評した。だが、「井の中の蛙」のノーテンキは、世界を知らない状態のままに、月夜の田んぼで鳴き騒ぐのであり、石油ショックに動転して、トイレット・ペーパー騒ぎで、買い占めでうろたえていた。・・・>
1960年代の日本は高度成長期で、1964年の東京五輪を始め、新幹線の開通があったりして勢いづき、佐藤内閣はCIAかに支援されて、長期安定政権を維持していた。だが、佐藤から田中に政権が移り、独立志向が強まった時に、1973 年の石油ショックがあって、日本の政治の狂乱化に加え、ドル支配が金から石油ベースにと変わった。
米国は石油によるドル体制維持に、懸命になっていた中で、日本の経済力の強化が進行して、経済摩擦が日米経済戦争になり、ロッキード事件が起きたし、米中の国交正常化が実現した。だから、1980年代は不吉な時代で、それまでの日米友好体制が終わリ、ロッキード疑獄で中曽根続政権が生まれ、1985年の日航123便墜落に続き、プラザ合意で円高になった。
しかも、見せかけのロンヤス関係に欺瞞され、国を挙げて大国意識に陶酔していたが、中曽根が売国奴としては筋金入りで、岸信介の再来だったことに、気づく日本人は少なかった。だから、中曽根バブルが膨張して、景気の異常が狂乱状態になり、過熱経済がリクルート事件を生み、政財界は汚職まみれ状態になったのである。
この時期の私は汚職追及で忙しく、『朝日と読売の火ダルマ時代』に続き、『夜明け前の朝日』を書いたが、出版が困難を極めたので、悪戦苦闘が続く毎日だった。そんな状況下でベルリンの壁が崩れ、天安門事件が発生した上に、ソ連が崩壊し冷戦構造が終わり、中曽根バブルも遂に崩壊し、日本も世界も大混乱を呈して、世紀末の到来を痛感させた。
そんな世界情勢を目撃して、私が生きてきた時代を整理したら、資本主義末期のライフサイクルに関し、次のような変化の段階が、模式図の形で展開できた。こんな酔狂なことを考えて、仮説を作る経済学者は、他にいないだろうと思うが、それを簡単に要約すれば、次のようなモデルになる。
1): 投資経済(産業革命から1971年八月のニクソン・ショックまで)
2): 投機経済(ニクソン・ショックから1992年の冷戦構造終焉まで)
3): ポンジ経済(冷戦構造終焉から2025年のNodal Pointまで)
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ここまで書いた段階で、山根さんからのメールが届いたので、以下に貼り付けておく。
藤原肇さんへの公開メール − (194)
冠省 令和7年7月31日、松江地検の仲島れな検察官検事が私(山根治)を刑事訴訟法違反で公訴を提起してきました。罪名及び罰条はそれぞれ刑事訴訟法違反及び同法281条の4第1項となっています。末尾に起訴状及び弁論併合決定の書類を公表(パブリック・アナウンスメント)いたします。
この起訴状、まさに冤罪捏造の見本とでも称すべきもので、虚偽公文書作成同行使(刑法156条、158条)の実行行為者が仲島れな検事であることを示すものです。虚偽の公訴事実が具体的に記載されているからです。
虚偽の公訴事実とは何か?起訴状に、事実に反する記載がなされているのは次の通りです。
1)「被告人(山根治)は、息子である山根学に、パーソナルコンピュータを操作させ、氏名不祥者が使用するメールアドレスに宛てて送信させて到達させ」と記載されていますが事実ではありません。山根学が送信している宛先は貴兄へのメールアドレスであって、「氏名不祥者が使用するメールアドレス」ではありません。この事実は、私(山根治)を取り調べた田中克弘検事に申し述べていることで、同検事が作成した検面調書(検察官面前作成調書)にしっかり残っています(藤原肇さんへの公開メール−(193)。
2)「被告人(山根治)は、同人(氏名不詳者)にインターネットサイトへの掲載を依頼し」と記載されていますが、これも事実に反しています。私(山根治)の公開メールを受け取った貴兄は、貴兄独自の立場から応答メール(“藤原肇さんへからの応答メール”)を作成し、貴兄の読者が管理している“藤原肇ノートブログ”に掲載されているだけのことで、掲載について私(山根治)は何の関わりもありません。この経緯についても1)と同様、田中克弘検事作成の検面調書(検察官面前作成調書)に記されています。
更に、この起訴状に記載されている犯罪事実が特定されていないこと、即ち不特定である事実があります。犯罪事実が特定されていないにも拘らず、特定されていると偽って起訴状が作成されているのです。
偽りの経緯が判明したのは、冤罪捏造のシナリオを作成した永島和成検察事務官が押収物件の全てを還付するために私(山根治)と面談した時、令和7年7月31日のことです。
この時明らかになったのは次の2点でした。
1)見込捜査を指示したのは仲島れな検事であること、
2)捜索令状に記載されていたのは、刑事訴訟法違反(罪名)のみであったこと、即ち罰条(同法281条の4第1項)は記載されていなかったこと、の2点です。
以上の事実からn次元マルコフ連鎖によって導き出される事実は以下の通りです。即ち、闇社会の仕置き人(注1)・永島和成検察事務官に、仕置者(注2)・私(山根治)の処刑(Character Assassinaion)を命じたのは仲島れな検事であったことです。冤罪捏造の実行行為者・永島和成検察事務官に冤罪捏造を指示したのが仲島れな検事であったということです。
(注1)仕置き人。 仕置者(しおきしゃ)のこと。−刑の執行人。 −広辞苑
(注2)仕置者。 (しおきもの)−処刑される人。罪人。 −広辞苑
起訴状
弁論併合決定

THAYER Dr. Nathaniel Bowman Thayer Dr. Nathaniel Bowman Thayer, noted scholar of Japanese politics, long-time Professor at the Johns Hopkins University School of Advanced International Studies, U.S. Foreign Service Officer and National Intelligence Officer for East Asia, died peacefully at his daughter Sarah's home in Gretna, Nebraska on November 7, 2020.
Dr. Thayer was born into the Thayer family of Worcester, Massachusetts on November 30, 1929. He graduated the Vermont Academy and was studying architecture at Brown University and the Rhode Island School of Design when the Korean War broke out. During the war he served in the U.S. Army as an Investigator attached to the Counter-Intelligence Corps at the U.S. Armed Forces Far East Headquarters in Tokyo, Japan. After the war he began an academic career devoted to the study of Japanese politics and the international relations of East Asia. He earned his B.A cum laude in 1956 at Columbia University and met his wife Marguerite Hisako nee Takahashi while studying there for his M.A and Ph.D.
He entered the U.S. Foreign Service in 1961 and served as Press Officer at the U.S. Embassy in Tokyo under Ambassador Edwin O. Reischauer. He was at the Ambassador's side when Dr. Reischauer was rushed into Toranomon Hospital following an assassi- nation attempt in 1964.He then served at the U.S. Embassy in Rangoon, Burma before returning to Columbia to complete his Ph.D., with distinction, in 1967. While working as Program Director at the Japan Society of New York in 1969 he published his classic work on Japanese politics "How the Conservative Rule Japan," a groundbreaking study of factional politics and the interplay of politicians with the bureaucracy and business. This book went through 32 editions in three languages and was a standard text on the subject for many years, in Japan as well as the U.S.
Dr. Thayer taught at Columbia University and the City College of New York and was Visiting Professor at Harvard University before joining the faculty of the Johns Hopkins University School of Advanced International Studies (SAIS) in 1975, where he taught generations of Japan scholars and mentored students who have gone on to distinguished careers in academia, diplomacy and business. While at SAIS, he served as Director of Japanese Studies, Director of the Asian Studies Program, Yasuhiro Nakasone Professor and Advisor to the Reischauer Center. From 1978 to 1980 Dr. Thayer served as the National Intelligence Officer for East Asia on the National Intelligence Council of the Central Intelligence Agency. He retired from teaching in 2005, the year in which he was awarded the Order of the Rising Sun, Gold Rays with Neck Ribbon, by the Japanese Government during a ceremony at their embassy in Washington.
During his time at SAIS, Dr. Thayer bought a farm in Fairfax Station, Virginia where he restored and expanded a pre-Civil War farmhouse, doing much of the work himself. He raised Bouvier des Flandres herding dogs and Angus cattle on the farm. Nathaniel Thayer died after a long and brave battle with Parkinson's Disease. He is survived by his wife of 64 years Marguerite, of Shreveport LA, daughter Deborah of Minneapolis MN, daughter Sarah of Shreveport LA, and daughter Rebecca, also of Minneapolis, as well as brother William Thayer of Marshfield MA and his family. A memorial gathering is being planned at the Reischauer Center for the fall, with a web link to Tokyo and elsewhere. Please contact Dr. Fumiko Sasaki fumikosasaki7@gmail.com for details.
To plant trees in memory, please visit the Sympathy Store.
Published by The Washington Post from Apr. 23 to Apr. 25, 2021.
ナサニエル・セイヤー 訃報
セイヤー ナサニエル・ボウマン・セイヤー博士日本の政治の著名な学者であり、ジョンズ・ホプキンズ大学高等国際研究大学院の教授を長年務め、米国外交官および東アジア担当国家情報官を務めたナサニエル・ボウマン・セイヤー博士が、2020年11月7日、ネブラスカ州グレトナにある娘のサラの自宅で安らかに逝去しました。
セイヤー博士は、1929年11月30日にマサチューセッツ州ウースターにあるセイヤー家に生まれました。バーモント・アカデミーを卒業後、ブラウン大学およびロードアイランド・スクール・オブ・デザインで建築を学んでいたところ、朝鮮戦争が勃発しました。戦争中、彼は米陸軍に所属し、東京にある米陸軍極東軍司令部の防諜部隊に所属する調査官として勤務しました。戦後、彼は日本政治と東アジアの国際関係の研究に専念する学術キャリアをスタートさせました。1956年にコロンビア大学で優等学位を取得し、同大学で修士号と博士号を取得中に、妻のマグダレーナ・ヒサコ(旧姓タカハシ)と出会いました。
1961年に米国外交官として採用され、エドウィン・O・ライシュァー大使の下で東京の米国大使館の報道官を務めました。1964年にライシュアウアー博士が暗殺未遂事件で虎ノ門病院に緊急搬送された際、彼は大使の側近として同行しました。彼はその後、ミャンマーのラングーンにあるアメリカ大使館で勤務した後、1967年にコロンビア大学で博士号を優等で取得するために帰国しました。1969年にニューヨークの日本協会でプログラムディレクターとして勤務していた際、彼は日本政治に関する古典的な著作『保守派が日本を支配する仕組み』を出版しました。これは、派閥政治と政治家、官僚、企業との相互作用を分析した画期的な研究です。この著書は 3 言語で 32 版が発行され、長年にわたり、日本および米国でこの分野における標準的な教科書として親しまれてきました。
コロンビア大学およびニューヨーク市立大学で教鞭を執り、ハーバード大学客員教授を務めた後、1975年にジョンズ・ホプキンズ大学高等国際研究大学院(SAIS)の教員となり、何世代にもわたる日本研究者を育て、学界、外交界、経済界で活躍する学生たちを指導しました。SAIS 在職中は、日本研究ディレクター、アジア研究プログラムディレクター、中曽根康弘教授、ライシャワー・センター顧問を務めました。1978年から1980年まで、タイヤー博士は中央情報局(CIA)の国家情報会議(NIC)で東アジア担当国家情報官を務めました。2005年に教職を引退し、その年、ワシントンにある日本大使館での式典で、日本政府から旭日小綬章を授与されました。
SAIS在学中、テイラー博士はバージニア州フェアファックス・ステーションに農場を購入し、南北戦争前の農家を修復・拡張しました。その作業の大部分を自ら手掛けました。彼はその農場でブーヴィエ・デ・フランドル牧羊犬とアンガス牛を飼育していました。ネイサン・テイラーは、パーキンソン病との長い闘いの末に亡くなりました。遺族には、ルイジアナ州シュリーブポート在住の64年間連れ添った妻マーガレット、ミネソタ州ミネアポリス在住の娘デボラ、ルイジアナ州シュリーブポート在住の娘サラ、ミネアポリス在住の娘レベッカ、およびマサチューセッツ州マーシュフィールド在住の弟ウィリアム・テイラーとその家族がいます。追悼集会は秋にライシュアウアー・センターで計画されており、東京を含む各地とのウェブリンクが用意されます。詳細はササキ・フミコ博士(fumikosasaki7@gmail.com)までご連絡ください。
追悼の意を込めて木を植える場合は、シンパシー・ストアをご覧ください。
2021年4月23日から4月25日まで、ワシントン・ポストに掲載されました。
(DeepL.comで翻訳しました。)





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